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2005年6月 8日

ある視点部門 『Down in the valley』デヴィッド・ジェイコブソン

「公式コンペ」で2本(ヴェンダース『Don't come knocking』、トミー・リー・ジョーンズ『The three burials of melquiades estrada』)、そして「ある視点部門」で1本(デヴィッド・ジェイコブソン『Down in the valley』)。明らさまに西部劇の記号を見せるフィルムが3本、今年のカンヌでは見られた。
もちろんすべての舞台は現代なのだが、なぜまたこんな事態になったのか。大したことないと言えばそうだが、大したことのような気もするし……。と、とりあえずいちばんの驚きだったのが、これが長編第2作目のアメリカの若手デヴィッド.・ジェイコブソン。これが良いのだ。
小さな街にやってきた時代遅れのカウボーイ=ストレンジャーと、堅物の警察官を親父に持ついまどきの女の子との恋物語。少々ファンタジックで手垢の付いた設定だが、とはいえこのフィルム、別にジャンルの郷愁でもなく、記号の露出ショウでもない。
あらゆるジャンルがそうなのだが、しかし西部劇は他にどれにもまして神話的である。ペキンパーはかつてこう語ったと記憶する——ウェスタンは普遍的な枠組みであり、そこで今日の世界への注釈が可能なのだと。それを、西部劇がアメリカの夢と悪夢の両方としてつねにあったと、そう言い換えもできるだろう。そのうえで『Down in the valley』が示すのは、現在において西部劇が悪夢としてしか機能しない、ということだ。
夢の断片を拾い集め、組み合わせたとき、それが途端に悪夢の姿をとる。それが現在の西部劇であり世界であると、一発の銃声を放ったガンマン=エドワード・ノートンはそのことに気付き唖然とする。その呆然顔はマイケル・ムーアのどのフィルムよりも鋭利だし、なんならそれこそが、ツインタワー崩壊を眺めた我々の顔だったと言ってもいい。この悪夢もまた我々の現実なのだ。『Down in the valley』に足りないのは、そこで生き続けねばならない者の姿なのだが、しかしその点はクローネンバーグ『A History of Violence』(公式コンペ)がきちんと補ってくれる。それで良し。
まあそれはいいとしても。こんなフィルムを若い人が撮ることにまず驚く。的確さと適当さのバランスといい、キャスティングといい(少女役にエヴァン・レイチェル・ウッド。親父役にデビッド・モース!)なかなか興奮させる。このまま数十年いってジェームズ・フォーリーあたりになってくれと願うばかり。

松井 宏

投稿者 nobodymag : 2005年6月 8日 21:50