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トミー・リー・ジョーンズ »

2005年6月12日

コンペティション部門 『Don't come knocking』ヴィム・ヴェンダース

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とにかく酷い言われようだったヴェンダースの新作。「リベラシオン」紙ではフィリップ・アズーリが「もがれた翼」と題し、もうけちょんけちょんである。「アンロック」誌では5人の批評家が星取りを行っていたのだが、そもそもそのうちのひとりしか本作を見ていない(もちろん星ひとつ)。まったく恐ろしい。
物語は『Broken Flowers』と同じ、あるいは『パリ、テキサス』の変奏。かつてはスターでドンファン、いまは落ち目のB級西部劇俳優(サム・シェパード)が撮影現場から逃走し、数十年会っていない母を訪れ、不意に息子の存在を知ってしまい、そして、息子と、その母でありかつて自身が愛した女性(ジェシカ・ラング)の元を訪れる……。
ヴェンダースが腐心するのはそこから。廃墟の街で3人が出会ってから、である(この点ジャームッシュとは異なる)。だからそこでは必然的に多くのクリシェと自己引用が施されるわけで、それに対し「クリシェの数珠つなぎ」とか「困ったときの自己引用」などという評を与えてもしょうがない。そんなこと百も承知で行っているのだと、そう考えた方がよい。
『Don't come knocking』は、陽気に遊んでいるわけでもないし、ヒロイックな絶望に浸ってもいない。ただ我々の風景を冷静に示すだけだ。それは、もうひとつ別に形成される家族の姿に現れる。もう、省略して言えば、骨壺とインターネット映像が出会う場所、である。
母の骨壺(文字通り映像の果てた地点)。ネット上に溢れる父の若かりし画像(クリシェな映像の飽和地点)。そしてその出会いを演出する娘サラ・ポリー。帰るべき家族=映像のHOMEがないのなら、それならそれで行くしかない、と、ヴェンダースはやっとそう言っているはずだ。
というわけで、いい加減ヴェンダースで憂さ晴らしをするのは止めにしよう。ヴェンダースに「帰還」など期待してもしょうがない。なぜなら、人一倍もがれた翼で飛行し、彼はずっと我々を見つづけている。

松井 宏

投稿者 nobodymag : 2005年6月12日 09:59