雑誌のほうで「批評の反感装置」という企画をやっていて、次号では音楽批評について取り上げることに。今回は変則的に(?)批評家の方に話を聞くという方法を取っているのだが、それは単純に話を聞きたい(聞くべき)方がいて、直接聞いて確かめたいことがあったからにすぎない。そのひとりがHEADZの佐々木敦さんで、もうひとりが今日インタヴューした大里俊晴さんだ。私にとっておふたりの活動(存在)は音楽批評の場でも(それが厳密に何を指すかはとりあえず置いておいても)それぞれ独特な、同時に重要なものに思えるのだ。
詳しくはぜひ雑誌が出たあかつきに読んでいただきたいのだが、そんなわけで今日は大里さんのインタヴュー。いきなり「なんでまた僕なの?」と切り出されてしまったが、その答えもたぶん記事を読んでもらえれば伝わるのではないかと思うし、むしろ却って私たち自身、(たくさんの批評家もしくはライターの中で)なぜ大里さんなのかという部分に執着してしまったところがあったのは否めない。
「怠慢なんです」「頼まれないと書けない」なんて肩すかしされてしまったところもあったのだが(よくよく考えると頼まれなきゃ書けないってほうが普通なのかもしれない)、そんな大里さんが唯一頼まれないで書いた、書かざるを得なかったというのが、『ガセネタの荒野』という本だ。大里さん自身その本のことについて、何かの文章(たぶんセリーヌを特集した雑誌のなか)で「悪魔払い」という表現をされていたが、書かざるを得ないとはこういうことなのだというのがあの本を読むと本当にわかる気がするし、そこに書かれていることはただのひとつの出来事でもあるのだけれど、まさしく、ドン!と突発的に、奇跡的にしかし確実に起こってしまったことなのだ。
だから、大里さんを批評家として見るとき、あの本に直接結びつけて捉えてしまうのは筋違いでもあるのだが、一方でどうしたって切り離すこともできないのだ。だからこそ今日私はあの本の名前を口にしたくなかったし、できなかったのだけれど、「ある一冊の本」について「あ、そうだよ!つまり、何も頼まれずに書いたのはそれだけなんだよ!」と大里さんが口にしたその時、私は、やはり嬉しかったのだ。
黒岩幹子