03.1/9

 

 4才になる親戚の娘っこは、どうやら数週間後にお遊戯会を控えているらしく、電気ストーブの隣でひたすら踊り狂っていた。「ゆいちゃん、それは何?」/「き!」。「き」っておまえ、「木」のことか。微熱が残る頭で掘り下げる余裕も無く、ただゆいちゃんの演じる「き」が眼の前で暴れ狂っている。彼女は今、自分のことを「き」だと信じ込んでいる。それは「木の役」でもなく、実際の「木」でもなく、「き」である。実際の「木」は彼女のレフェランスにないから「木の役」を演じてる「私」があるわけでもない。
 「新潮」の立ち読みはまず大塚英志から入った。「文学」引き受けちゃってもいいですよ宣言。
 それにしてもしょっぱなから気になったのは「文学フリマ」について。私たちも参加したイベント。前号のnobodyにも書いたが、「学園祭」だ(大塚氏も文中で、学園祭のりの感はあったかもしれないが、というようなことを書いています)。と、そんなことを言ってもやっぱり単なる揚げ足取りにしかならないので、これまたどうしようもない。
 「文学」を根拠付けるのもいいし、「文学の役」を演じるのもいいが、「き」のような「ぶんがく」ってのをどうやって意図的に発生させるのか。ゆいちゃんのあの恐ろしいダンスが、私の頭の中でステップを踏んでいるのが分かる。
 「文学を文学として根拠付けるのに文学しかないのは分かってます」。大塚氏のこの発言は、やはり貧しくないか。

松井宏

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