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~JULY  07/29__up dated

- LIVEPAINTING MUSIC MIX vol.9 feat:『路地へ 中上健次の残したフィルム』
-『ロベルト・スッコ』 セドリック・カーン
-『カラビニエ』 ジャン=リュック・ゴダール
-『レクイエム・フォー・ドリーム』ダーレン・アロノフスキー
-『I bring you down to underground 』LABCRY
-『リトアニアへの旅の追憶』 ジョナス・メカス


7月29日(日)

LIVEPAINTING MUSIC MIX vol.9 feat:『路地へ 中上健次の残したフィルム』 @LAPAN ET HALOT(青山)

 オーディエンスが席につく前に、木村タカヒロは筆を取りキャンバスに向かい、大友良英はターンテーブルをまわしはじめた。シンバルを叩き付け、ヴァイオリンの弓で引っ掻く。スピーカーから大きな音が飛び出すが一瞬の内に止む。ブラシがキャンバスを擦る音だけが残る。シンバルがどけられたターンテーブルからは周期的にコッ、コッと二回づつ針が何かを擦る音がする。しかし、前の席の客に視界を塞がれてみると、それは擦過音には聞こえない。湿った道路を歩く靴のような音、つまり地面 を靴が叩く音に聞こえるのだ。その前の弓によって擦られたシンバルも細かく何度も叩かれるような音がした。同じ擦るという行為をステージにいたふたりはしていたのだが、擦る音として聞こえたのは絵を書くブラシの音だけだった。
 大友がギターにシンバルを近づけて出すフィードバック音も、弦を擦る音ではない。それは決して接することがないからこそ出る音である。触れるか触れないかという位 置で距離を調節する手の振動がその音を生む。シンバルのうえに違うシンバルをのせ押さえ付けるような動作も擦り付けているのではない。その手の振動によって距離を変動させている。彼から見て左手にある機材はまさに彼自身が語っていたように、自分とは違う距離を導入するものなのだ。
 だとすれば、大友にとっては木村タカヒロのライブペインティングも、ギターと同じひとつの楽器としてあったのかもしれない。実際彼はライヴ後の対談で「ブラシが擦る音だけを気にして、ほかの後ろの事は気にしなかった」と述べた。機材やテクニックによって音を出すものと自分との距離をたえず変化させている彼にとって画布と一定の距離を取り続ける(擦るということは距離が変わらずにその平面 上を移動することだ)画家とは、自分とは違う距離をもたらす何かであることは間違いない。
 ライヴ後の対談の中で青山真治は大友の演奏を、マーヴィン・ゲイの『Whatユs Going On』の冒頭の群集のざわめきに似た出所のわからない音に喩えた。「幽霊」としての音。いま眼の前にあるものから隔てられ、その操作とはなんら関係のないように思える背後で確実に音がなっている。まさにその試みによって画家の動かす筆の音は絵をかくという行為から切り離され、ターンテーブルのコッコッいう音に奪い取られ取り込まれる。そうした音は今度は眼の前にない全く関係のない映像と結びつく。ターンテーブルのコッコッいう音は、『路地へ』の冒頭、井土紀州が煙草を買うために脇に寄せた車のウインカーの音に聞こえてくる。演奏者が眼の前にいるのに、いやむしろいるからこそ眼の前にはないものを見、聞いてしまう。その意味において大友良英のライヴは「生の」演奏ではなくなるだろう。しかも死んでしまうのではなく「幽霊」としていたるところに遍在しはじめる。中上健次が路地の中に居続けることでそこから出ようとしたように、彼はステージ上に居続けることで代わりに違うものが姿を見せる。
 ビーチボーイズの『Surf’s Up』の背後で「幽霊」のように揺れる夏芙蓉が印象的だった。

(結城秀勇)


7月20日(金)

『ロベルト・スッコ』 セドリック・カーン

 いくつもの名前と顔が積み重なる。ステファノ・カセッティ演じる一人の人物の名前のみでなく、彼が奪う車の形とメーカーも、彼の部屋にある何枚もの自分の写 真も、彼の両親の死体の写真も、行方不明の女性の写真も、無造作にただ積み重なる。その一つ一つは互いにわずかな差異しか持たない。髪型や服や角度の違いだけだ。ロベルト・スッコという名前さえも他の偽名と同じだけの信憑性と嘘くささをもつ。新聞記事や事件の書類によってもたらされるはずの同一性はこのフィルムの中で解決をもたらすことはない。
  セドリック・カーンは『倦怠』についてのインタヴューの際に「主人公にとって車とは動く自分であり動く室内である」と述べているが、それがこのフィルムにもあてはまるとすれば主人公の自己は様々な名前と顔を乗り継ぐことができるのであり、運動する、ただそれだけのものとなる。同じ乗り継ぐのにも『勝手にしやがれ』のミシェルのように金銭的価値を見出したり、『パーフェクトワールド』のブッチのようにフォードという名前に特権的価値を見出したりして同一化することができない。シネマスコープの画面 一杯にひろがったリアガラス=過去をしきりに気にしながら企てる逃走のその移動経路さえもが、同じ道程の上に積み重なって行く。このようにして積み重なった映像は『カラビニエ』の兄弟たちが持ち帰る、分類し整理された世界としての絵葉書とは異なる。ここでは同じ物だけが写 っているのであり、もはや世界を見せるまでの広がりはないままに増殖する。   その積み重なった一切の映像が取り払われる時に、まっさらな世界そのものを見ることは私たちにはできない。だから現れるのは殺人鬼の顔でもなければ、社会が生んだ被害者の顔でもなく、演じるカセッティそのものの顔でもない。黒いビニール袋に包まれたもはや顔ではない何だかわからないものだ。それを撮るためには先行するフィルムの映像が積み重なっていないカセッティの顔をあえて使う必要があったのではないか。
  冒頭の夜の海岸のシーンで映る(あるいは映らない)、波の音だけが聞こえて何も見えない海の不気味さに似ている。

(結城秀勇)


7月12日(木)

『カラビニエ』 ジャン=リュック・ゴダール

 長い間公開を待ち望みようやく見ることができると映画館に足を運んだ訳だが、80分間このフィルムと対峙し映画館を後にしたとき、私は風景の絵葉書を見た、白いスクリーンが破れていくのを見た、と言うことは出来ても、そこで「映画」を見たのか、と自問すれば首を捻らざるを得なかった。戦場へ赴く2人の男にしても彼らを送り出す女性にしても、こちらが同情をする余地すらない程にひたすら即物的であり、冒頭の何処かからの引用そのままにどこまでも“単純”であり、徴兵令を持ってきた2人の“カラビニエ”にしてもどう考えても嘘しか言っていないのに、それが余りにも平然と口にされるが故に何の感情も抱かせはしない。
 「カラビニエ」の冒頭は、何故車内からフロントガラスを覗いたような、ただ真っ直ぐ延びる道路の映像から始まる必要があったのか。冒頭を除く、このフィルムで映されるのは何も無い更地だったり、今にも崩れてしまいそうな小屋だったり、林の中だったりするので、冒頭の綺麗に舗装された道路の映像はこれだけが「カラビニエ」というフィルムからは切り離された、宙に浮いているような感覚を覚えさせるのだが、しかしだからこそこの道路の前方へと真っ直ぐに伸びる視線は結局誰のものでも構わなかったし、その道路の先にあるものは何であっても構わなかったのではないかとも思わせるのである。例えばそれは「ビキニ!ビキニ!」と叫びながら走り出した車に駆け寄る女の運動とも、映画館でスクリーンによじ登る男の運動とも同質で有り得るし、視線の先にあるものは“王様の敵”でも“ピサの斜塔”でも結局大差はなかったのであり、「カラビニエ」というフィルムで私が見ていたのは対象へと向けられる動物的な“欲望”であり、その単純な欲望が実物ではなく虚像へと凝縮されていく運動であったような気がするのである。
  現実的な軍事行動以前に、敵側の軍事体制を把握した“映像”をどれだけ数多く手に入れるかが即ち勝利となった現代の機械化された戦争においてであれば、戦場へ行って敵の姿を欲望の対象へと凝縮させた絵葉書をあんなにもたくさん持って帰ってきた2人の男はその意味で立派に兵士としての任務を果 たしてきたと言えるだろう。「カラビニエ」を見た後では、“映画”を見た、と言うよりも“戦争映画”を見た、と言うよりもは、“戦争”を見たと言うのが最も近いように思う。

(澤田陽子)


 

7月12日(木)

『レクイエム・フォー・ドリーム』 ダーレン・アロノフスキー

 昨年のカンヌでコンペティション部門に出品されていたこのフィルムを、ようやく目にする事が出来た。
前作『π』がほとんどインディーズで制作されたにも関わらず、全米でヒットし、サンダンスを始め数々の賞を受賞してしまった、ダーレン・アロノフスキーというおよそアメリカにルーツの無さそうな名を持つN.Yの男が、監督である。
 前作は、タイトルの通り円周率を操作する事により株価の予測をしている青年と、その背後にあるユダヤ的なるものとのサスペンスと言われればそうでもあり、ホラーと言われればそうでもあり、どこか星新一のSFのように、SFなのかSFでないのか分からないところもあり、斎藤環さんなんかに言わせれば、即座に「パラノイアック」だということになるであろうフィルムであった。確かに、音の使い方に類い稀なテクニックを持っている監督ではあるという印象は少なからずあった前作から、今回の作品に期待するところと言えば、正直、そのフィルムの出来云々ではなく、インディペンデントなスタイルで制作したフィルムである前作と、ハリウッドの俳優(『エクソシスト』の母親役エレン・バースティンなど)を使って、つまりハリウッドの金を浴びて制作したフィルムである今作とが如何にして差異を生産し、かつ確固たるダーレン・アロノフスキーたり得ているのか、その1点のみであると言っても過言ではない。如何にして映画作家が、差異と反復との折り合いにケリをつけ、勇敢に作家であり続けるかという実践を新作『月の砂漠』でしてみせた青山真治ほどの英気を彼に期待してはいないが、他ならぬ ハリウッドという困難な土地において制作された『レクイエム・フォー・ドリーム』は、ひとまず、3本目のフィルムへの関心を抱かせるに十分なフィルムとして僕には感じられた。ちなみに3本目は、「バッドマン」シリーズらしいが。
 前作『π』は、まさにその分裂しているがしかし連続の情報である円周率の数字がスクリーンに散乱しているような映像に、クリント・マンセルの音楽が絶えず鳴り、短いカット割りの応酬という、情報過多の環境をスクリーンの周辺に生み出すフィルムであった。監督が「時代にあっていたのだ」というのも、そういった意味ではおそらく間違っていなかったのだろうし、東京である程度の支持を得たのも、その上映館がシネマライズであり、ユーロスペースではなかったからと言っても差し支えないだろう。
 今作『レクイエム・フォー・ドリーム』は、同じく、クリント・マンセルの音楽がスピーカーを裂くように鳴り(KEN ISHIIもmixerとしてクレジットされていた)、短いどころか画面をもカットする映像がスクリーンに散逸し、極め付けとして、モノクロではなくより情報の多いカラーの映像が重なるというものであった。これは、もはや僕らが一度に許容する「量 」を遥かに超えた、情報過多の状況下に暫し拘束されているような状況である。そして、スクリーンの中に現れる人物も確かにそうした状況に共生し、情報過多への反動からか、ドラッグ、セックス、自己愛と、極めて衝動的な唯一の欲望を満たす為の情報をのみ得ようと邁進する。そして、その多様な衝動の行着く果 てには、それぞれに衝動に対して空虚になってしまったベッドの上で、同じ姿勢をして横たわる4人の人間の姿が映されるという、極めてシンプルな情報への収束が用意されている。そこには、登場人物にとってのみならず、そこに居合わせている僕らにとっても情報は何も要求されていないように感じられた。
 『π』が情報の飽和をスクリーンの周辺に作り出したとすれば、『レクイエム・フォー・ドリーム』は、人間の欲望が本質的にマルチでないことに反してそこかしこにあるそうした情報過多の状況を俳優の身体を通 して採取し、スクリーンの周辺に再構築して見せた。それらは、同じであり、且つ別 の方法論であり、その変容がハリウッドで撮ることの彼なりの方法論の発露である。
 だが繰り返すが、真価を問うべきは、次の作品である。

(酒井航介)


 

7月12日(木)

『I bring you down to underground 』 LABCRY

 この暑い中、クーラーの無い狭い部屋でパソコンの前に座り続けていると、頭の中が飽和状 態になっているような気がして疼く。
暑い空気が立ち篭めた狭い空間の中で身体をじっとさせ た状態を、無意識のうちに自身の頭の中にまで投影させてしまっているのだろうか。
 LABCRYの『I bring you down to underground』は夏のアルバムだ。何しろ「my life, your life, it's a summer time blues」で始まり「SUMMER WALTZ」で終わる。澄んだキーボードの 音色と乾いたギターが、率直にポップと言ってしまいそうなメロディを奏で、それで「海へ出 かけよう」なんて歌われれば、さぞや開放的な気分になれそうなものだが、どういうわけか逆 にさらに頭がぼんやりして、室内温度が2度は上がったような気がしてくる。その原因の1つ は全編に渡ってエフェクトがかけられていることだろう。分かりやすいほど音が揺れて、響き 、まるで浴室で録音したかのように聴こえる。そのためにそれを聴く自分自身が狭く暑い浴室 にいるような感覚に陥るのかもしれない、が、それならばエフェクトを多様したダブ・ミュー ジックが与える開放感との差は何だろうか?という話になってくる。
 もしかしたら単に音楽を聴く個人がいる空間の問題なのかもしれない。だが確実に言えるの は、前述したエフェクトの問題とは別に、ヴォーカル・三沢洋紀の声もその要因の1つである ということだ。LABCRYの前作『平凡』(これまたじめじめした雨の日の部屋を思わせるアルバ ムだ)を聴いてると、全然違う音楽なのに何故か『THE VELVET UNDERGROUND & NICO』のニコが リード・ヴォーカルをとった「FEMME FATALE」を思い出す。この曲のニコのボーカルは力強い 声なのだが、同時に脆い。これは録音のせいもあるだろうが、声が微妙に震え、自分の出す息 に音が包まれているかのように聴こえるのだ。三沢は決して歌が上手いわけでもなく、良く通 る声でもない。彼の声は吐き出す息に包まれているようで、高い音を出してもその声は拡散し ていかず、逆に閉じていくようなのだ。そしてその声自体にも楽器の音と共に時折エフェクト がかけられると、脆いまま声が揺れ、さらに閉じた空間、まるで本当に脆い小宇宙のような空 間が形成される。これは、彼が『I bring you down to underground』とこのアルバムを名付け たのと無関係ではないはずだ。

(黒岩幹子)


 

7月12日(木)

『リトアニアへの旅の追憶』 ジョナス・メカス

 このフィルムは火事で幕を閉じる。ウィーンの何処だか、とにかく古くからある地 域(多分「市場」だったと思うが)で、行政が老朽を理由に取り壊しを考えていたら しい地域、そこが火事になった。メカスの友人がその火事は実は放火で、犯人はその 行政だったのではないだろうか、と訝しんだと、メカスのナレーションによって伝え られる。火事は遠くで起こっている。カメラはただそれを呆然と見つめるしかない距 離にある。ところで、この印象的な火事のラストシーンの前に、メカスは力強く確信 していたように記憶している。何千年も残ったもの(ここでは修道院)は、きっと 「私たちがいなくなっても残る」ものなのだ、と。だからこの火事のシーンはより一 層感傷的になる。そんな「残るはずだったもの」が、焼尽していく。
 ふと中上健次の『地の果て 至上の時』のラストを思い出す。もちろん、二つの火 事のシーンがもたらすものは対照的である。(一言でいってそれは「熱さ」である。 メカスのフィルムには「火」の「熱さ」など微塵もないが、中上の小説のそれはすべ てを溶かすような温度を持っている)。だが、同時に、古くからある場所が灰となっ ていくのを立ちすくみ、目にする、という共通性は無視できない。今までそこにあっ たものがまさに消えていき、近い将来それが完全に消えてしまうだろう。その眩暈。 今はまだこの皮膚や瞳が鮮明に覚えている感覚は、次の瞬間には「もはやどこにもな いもの」として「追憶」するしかなくなるのだろう、という実感のわかない予感。  『リトアニアへの旅の追憶』は二重の意味で「追憶」なのである。一つは二十数年 ぶりに故郷に訪れたメカスの故郷に対する「追憶」。そしてそれ以上にその旅の記録 (「追憶」)を「今」見る、という「追憶」。「追憶」の「追憶」。それはどうせど のうちに「追憶」の「追憶」の「追憶」になり、「追憶」の「追憶」の「追憶」の 「追憶」になるだろう。市場の火事は、結局その市場も「追憶」の対象となってしま うだろう、と予感する現場なのだ。それは、「私たちは追憶し続けるしかない」とい うマニフェストなのか。全く想像できないが、非情な確実さで、今あるものは(近い にせよ遠いにせよ)将来消えてなくなり、「追憶」するしかなくなる。だがしかし、 メカスの映像が力強いのは、その「追憶し続けるしかない」というその行為そのもの のうちに「現在」を浮かび上がらせようとするところである。なぜなら「追憶し続け る」という行為そのものが成立するのは現在以外にありえないではないか。
 その力こ そが、いくらメランコリックな音楽を流そうとも、「追憶」に常に囚われていようと も、メカスのフィルムが「現在」と結びつく契機となっているのだ。

(新垣一平)