2.15

スピードスケート 女子500メートル

男子500メートルのところで、黒岩とサラエヴォについて書いた。
そのレースで黒岩は敗れたのだが、敗因の分析で、アウトスタートだったから、という解説者がいた。それほどスピードが出ていないうちに狭いコーナーを回り、4コーナーでアウトに出れば、加速が続くというのがその理由だったように思う。そして、その敗因を口にしていた解説者がひとりではなかった。確かに力学的に納得がいく説明だった。
だが、今回、ソルトレイクの解説を聞いていると(宮部保範)、バックストレートで相手を視野に収めて追うことのできるアウトスタートの方が有利だと何度も述べられている。もちろん最終的にはタイムレースなので、勝敗はふたりのレースではないが、それでも、宮部が言うこともまた納得できる気がする。おそらくサラエヴォ(84年)当時は、当時の解説で言われていたことが正しく、今は宮部の言うとおりなのかもしれない。ジャンプについても述べたが、技術とそれについての評価は日進月歩なのだ。
スピード・スケートにとって、84年のサラエヴォと88年のカルガリーの間に何か大きな変化が起きたのかもしれない。もちろん長野(98年)で始まったスラップスケートではない。それは、スピード・スケートが勝敗からタイムレースに大きく変化したことではないか。サラエヴォ当時リンクは屋外だった。僕の記憶の中のリンクに降りしきる雪の白さがそれを証明している。そしてカルガリーからそれが室内リンクになったのだ。72年の札幌でも、もちろん真駒内の屋外リンクでレースが行われていた。条件を一定に保つには屋内がよいのは当然だが、それに伴って氷の温度や質、そして室温などが、「世界記録」製造のために整えられていったのだろう。そのとき、レースは、TVのモニターの上部に出る百分の1秒計測のタイムと選手との競争に姿を変える。
アルペン・スキーも同じようにタイムレースだが、毎回、場所も条件も異なるので、「世界記録」は存在しないのだ。マラソンも一応「世界記録」はあるが、たとえば東京やバルセロナの起伏に富んだコースでは最初から「世界記録」は出ない。ロッテルダムや北京の平坦で風の影響を受けにくいコースが記録製造用のコースということになるだろう。たとえばアルペン・スキーのワールドカップは、「世界記録」とは無関係だが、レースが行われる場所の「風景」によってTVに映える。マラソンもそうだろう。僕らはキッツビューエルやシャモニやコルチナのスキー場の景色を見るように、福岡や別 府や琵琶湖や東京の景色を見ているのだ。

スピード・スケートはその意味で極めて抽象的なスポーツといえるかもしれない。バックストレートで「追い」、4コーナーで「ふくらまない」という解説が反復するだけであり、僕らが見るのは、モニターの上部にあるディジタル表示の時計と、レースの後の「朋美スマイル」だけということになる。

 

男子フィギュア フリー

夕方ラジオを聴いていたら、ペアの採点が話題になっていた。
もちろんカナダ・ペアがロシア・ペアに敗れ、その採点をめぐってフランスの審判員が圧力があったと告白したことに端を発している。「だからフィギュアはいやなんだ」とも言いたくなるが、ラジオの話題は、中波だったせいもあって、もっと世俗的なものだ。
日本スケート連盟の審判員が電話出演し、聴取者たちの質問に答えるというもの。
「綺麗な人に点が甘くならないか?」
「足の長い人の方が最初から有利だ」
「衣装は採点に含まれるか?」
といった「素朴な疑問」に審判員はもっぱらルールの解説を繰り返していた。そこへ乱入したのが渡辺絵美だ。「素朴な疑問」にyesと答え続けていた。
髪の毛や眉までしっかり整え、足の長さを強調したズボンを身にまとい、ホストクラブの面 々よりもセンスのない衣装──あれはフィギュア以外のどこで着られるのか──を着た奇妙な男たちが中空を回転している。同様の採点競技である体操にも、フィギュアの衣装を採用したらどうだろうか、などと想像し、思わず口許が弛んだ。