2005年10月 8日
初めての山形。いきなりであるが、思うのはやはり「衣・食・住」の「食」と「住」が重要なのである。いかに快適にやってくるか、いかに良いところに滞在するか、そしていかに現地で美味しいものを食べるかが大事なのだといたく実感する。とはいってもどれもおろそかにしてしまっている。知人のところに居候のように滞在し、いまだたいしたものは食べていない。いまだ山形に来ているという感じはしていない。いまいちまだモチベーションがあがってこないのも映画だけの問題ではないような気がする。
この日見た映画は偶然であろうか、多くが「家」についての映画であった。スウェーデンの映画『老いた猫のお引越し』(ヨハン・ルンドボーグ)も、その後見た「特集「全景」の試み」のなかの1本『天下第一の家』(ウー・イフォン)も、コンペ部門『水没の前に』(リ・イーファン、イェン・ユィ)もすべて家についての物語であった。そこでは年老いたひとり暮らしの男女が老人ホームに入るかどうかの判断に揺れ(『老いた猫のお引越し』)、地震によって家を失った人々が(『天下第一の家』)、あるいはダムで水没してしまう街の人々(『水没の前に』)が自分たちが今後生活する場所を探し求める姿が語られる。彼らは国の用意した住居に満足せず、ある者はいつまでも劣悪な環境にとどまり続け、またある者はその環境を受け入れ引越していくのだった。たとえばドキュメンタリー映画において、人や街を対象とする場合、そこでは生活が重要なものとなり、それゆえに「家」が対象になるというのはいたく当然なことなのだと改めて気づかされた。
この日、一番の目玉はコンペ部門の『水没の前に』だった。前評判がとても高い作品。この映画はダムが建設されるために水の中に沈んでしまう街を描く。水揚げされた魚を運ぶ男たち。ふたり一組になって、樽に入れられた桶を担いで街の中心にある階段を上っていく。カメラはその姿を追っていく。男たちが走り出せばカメラも走り出し、男たちが暗がりの中に入っていけばカメラもその後をついて行く。カメラに何も写っていなかろうがお構いなしだ。その代りに多くの音がそこに溢れている。男たちの話し声や、魚の飛び跳ねる音、街の騒音。映像が語る以上に音が多くのことを語っている。たとえば、お金について語っている人々の横で「パチッ、パチッ」という音が聞こえてくる。画面に映りもしないそろばんと思わしき音がやけに印象に残り隣の話し声を打ち消してしまっている。そうした最初の、落ち着きのなさと言ったらいいのだろうか、バタついているところは見ていて楽しかった。だがその後、カメラは映す対象を限定し物語が安定しだすと同時に、味気ないものに感じられるような気がした。現在多くのドキュメンタリー映画が3年、5年といった期間に渡って同じ対象を取材し続けるということが普通に見られる。そうしたことはいまではぜんぜん珍しいものではなくなっている。この作品に関して言えば、そうした時間を経て画面に映るものよりも最初にある、起こっていることをとり逃さないぞといった意思の感じられるバタバタとした感じが個人的には好きだったので、後半はちょっと残念だった。(渡辺)
投稿者 nobodymag : 2005年10月 8日 10:59