第3回 ディアゴナルと「1970年代フランス映画」(下)

「ディアゴナル映画」の定義に向けて

ロメール、レオン、ボゾンと三人の論者によるディアゴナル論を紹介したが、ここで筆者なりの視点からディアゴナル映画についてまとめておこう。もちろん、ディアゴナルはそれぞれ個性的な映画作家たちを擁しており、その諸作品はヴァラエティ豊かだが、それでも共通する要素はある。ヌーヴェル・ヴァーグ、あるいはポスト・ヌーヴェル・ヴァーグの有名監督たちの映画と比べながら定義を試みたい。

1. ディアゴナル的被造物

1950年代末から60年代のヌーヴェル・ヴァーグの映画には、監督自身の肉体的あるいは精神的分身とも言える俳優が登場する。例えば、ゴダールにおけるジャン=ポール・ベルモンド、トリュフォーにおけるジャン=ピエール・レオー、シャブロルの最初の2作品(『美しきセルジュ』[1958]、『いとこ同志』[1959])におけるジェラール・ブランやジャン=クロード・ブリアリである。また、1970年代以降のポスト・ヌーヴェル・ヴァーグ映画には監督の、しばしば特異な個人的経験を題材とした作品が少なくない。例えば、ユスターシュやガレル、ドワイヨン、作風は異なるがピアラも或る程度まではそうである。時にナルシシズムを感じさせる「私小説」的な物語は、映画のなかで監督自身によって演じられる場合も多い。

一方ディアゴナルの作品で、同性の役者が監督自身を思わせたり、物語に監督の私生活が滲み出るということは稀である。あえて例外的とも言えるヴェッキアリの『ワンス・モア』(1988)を取り上げよう。確かに、主演のジャン=ルイ・ロランは監督のヴェッキアリに容貌は近似している。そして、主人公が映画で体験する冒険、すなわち、40歳を過ぎた妻子ある男性が「中年の危機」に襲われ、同性愛に目覚めるものの恋人に振られ、最後はエイズで死んでいくというストーリーに、バイセクシャルであることを公言している監督自身の実人生からの反響を読み取ることはできなくもない。しかし、この映画の叙述形式、すなわち、主人公の9年間を、同じ日付の一日の出来事を時間的省略を交えつつ9個の長廻しで語る緊張感と、突然挿入されるミュージカル・シーンの異化効果によって、観客の期待する私小説的読み込みは妨げられてしまう。ストーリーの似た『野生の夜に』(1992、シリル・コラール監督)とは対照的である。

『階段の上へ』ポール・ヴェッキアリ

ヴェッキアリの幼少時の体験に基づく『階段の上へ』(1983)も同様である。ここでは監督の母親役を、敬愛する大女優ダニエル・ダリューが演じるのだが、現在と過去、及びありうべき未来を行き来する複雑な──ヴェッキアリが自作を評する際によく使う言葉で言えば、「異種混交的(hétérogène)」な──構成が、レトロスペクティヴな感興を望む感傷的な観客を裏切る。ダリューが得意の歌を披露することは言うまでもない。ヴェッキアリの最新作『劣等生』(2016)も同様である。

ディアゴナル映画の被造物(クリーチャー、英語でcreature)としての人物(personnage)=俳優は、創造者(クリエイター、creator)としての演出家のプライヴェートな世界に帰属することも、ピアラ的自然主義における生々しさを発揮することもなく、「不確かな場所」を幽霊のように、寄る辺なく彷徨う。誰かのものでも、また彼/彼女自身でもない人物=俳優たちに観客は戸惑い、初めは感情移入できないが、それでも奇妙な懐かしさ、「親しみのある違和感」を覚える。問題は、映画における人物と俳優の関係に関わる。難しいテーマだが深入りはせず、要点だけを述べる。

映画の観客は通常、画面上にまず俳優を見て、徐々に人物を見出していく。最初の、もしかすると最大の改革者はジャン・ルノワール。そこでは俳優と人物の関係が映画と観客の関係に置き換えられる。すなわち、作品内における俳優と人物の自由な入れ替わりが、観客に、虚構的な物語世界と自分の生きる世界の入れ替わりを期待させる。これがルノワールについて言われてきたリアリズムの本質。次に、両者の関係に革命をもたらしたのが、例えばロメール。「ロメールは(おそらくベルイマンとともに)、私たちが作品において俳優を見る前にまず人物を見てしまう、世界で唯一の映画作家である」(註1)。一方、ディアゴナルの人物=俳優の見え方は、通常の映画とも、ロメール作品とも異なる。パゾリーニ以後の再帰的演劇性によって、人物と俳優の間に新たに何者かを浮上させるのがディアゴナル。それは歴史を遡れば、ヴェッキアリやギゲが敬愛し、ビエットが「フランス映画史上最も偉大な演技指導者」と呼んだジャン・グレミヨンの演出法に由来する。

2.「調子の変化」

ディアゴナルの継承者を自認する「ラ・レットル・デュ・シネマ」の批評家たちは、映画における「調子の変化(rupture de ton)」を重んじる。それは一種の不意打ちである。話のリズム、場の雰囲気、人物のイメージ、会話の意味等々のレヴェルで、観客の予想が裏切られたり、急に新たな意味が加わったりすることが、ディアゴナル映画ではよく起こる。例えば、ヴェッキアリの『女たち、女たち』や『身体から心へ』では、映画のクライマックスに向けて楽観と悲観、真実と嘘ががらりと反転し、見る者を唖然とさせる。劇的なヴェッキアリに対し、ジェラール=フロ・クターズの『晴れのち夕方は荒れ模様』では、まるでシューベルトのピアノ曲のように淡々とした歩みが中断し、闇が広がる。『シモーヌ・バルべス、あるいは淑徳』では、ミシェル・ドラーエ演じるナンパ師の意外な側面が明らかにされる。

なかでも印象的なのは、ビエットの映画である。そこでは、本来ならば重要な人物がごくわずかな時間しか登場しなかったり、観客が期待した次の画面が来なかったり、画面上で或る人物だと思ったのが別の人物だったりする。こうした微かな違和感、ピエール・レオンの言葉で言えば「食い違い(malentendu)」を積み上げ、ヒッチコック的サスペンスとは対比的なジャック・ターナー的ミステリーを作り出すのがビエットの演出である。

彼が好む言葉遊びも「調子の変化」の一種と言える。『物質の演劇』で観客が初めてソニア・サヴィアンジュを見るのは、舞台裏で眠る姿である。彼女は演出家ヘルマン(ハワード・ヴァーノン)に発見され、その劇団に加わる。ドロテ(Dorothée)と名乗るその女性は、紅茶を飲むと眠くなるのだと言う。「dort au thé」の駄洒落だが、一人の女性の名前が、ゲーテの叙事詩(『ヘルマンとドロテーア』)を想起させたかと思えば、突然彼女の行為を説明するという転換が脱力的ユーモアを生む。

笑いは「調子の変化」の重要な役割である。日本では、桂枝雀が提唱し、立川談志や松本人志らも繰り返し言及した「緊張と緩和」の理論として知られていよう。それは、映画に「笑いや涙」を求める観客の通俗的欲求を満たすためというより、物語世界の構造を脱臼させ、その内部に切れ目を生じさせることを目的とする。ヴェッキアリなら、それをやはり「異種混交性」と呼ぶだろう。彼によれば、一本のフィルムは様々な不純物を含んだ河の流れにたとえられる。「調子の変化」とは、映画のなかに「他者」を招き入れる方法である。

1970年代の有名ポスト・ヌーヴェル・ヴァーグ映画には、まさにそれが欠けている。ガレルやドワイヨン、あるいは、フランス映画ではないがヴィム・ヴェンダースの作品が、見事な構図と被写体の美しさで魅了するにもかかわらず、どことなく独善的な印象を与えるのだとしたら、理由はまさにその点にある。例えば、ヴェンダースの映画を見て私たちは笑ったことがあっただろうか。ヴェッキアリはガレルを「芸術の押し売り」、ヴェンダースを「自分、自分、自分しかない映画」と批判する。言い換えれば、彼らの作品における形式や構図の偏重に対し、話の面白さ、あるいは台詞や会話の妙を押し出すのがディアゴナル映画であり、この基本線は現代のフランス映画、例えば、ディアゴナル直系とも言えるセルジュ・ボゾンだけでなく、(日本で比較的紹介が進んでいる作家のなかでは)アラン・ギロディやラリユー兄弟の諸作品に確実に受け継がれている。

【註】

  • 1. Pierre Léon, « Rohmer éducateur », Cinéma, n°9, printemps 2005, p.31.

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