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2005年5月15日

コンペディション部門 『Kilometre Zero』ハイナー・サラーム

主人公のクルド人アコは望まず参加したフセイン・イラク陸軍の兵隊として最前線に配属される。戦死者を郷土に帰す任務を帯び、戦地から離れるが、その間ドライバーや検問のイラク軍上官とのやり取りのうち、被差別民族としてのクルド人の立場を知る。映画は戦地からの移動のシーンでロードムービーの様相を帯び始め、その間次第に寓話化が加速する。節々で軽妙な笑いが差し挟まれ、そこで扱われるギャグは、この監督の語り手としてのスタンス(笑ってしまうもの・笑うべきもの・笑うしかないもの)が見て取れ、共感できる部分も多かった。その中でひとつ、牛が絶好のタイミングでくそをするシーンがある。ひとつの映画を製作するのならば、撮影中に不測の事態をフィルムに定着する(してしまう)ことは、確かに起こりうるだろう。ギャグとしてはもちろん採用であるが、問題はそのシーンを採用することが映画全体に及ぼす影響である。
イラン・イラク戦争を題材に、戦争を寓話として語るのがこの映画の勘所であるが、物語の寓話化と、撮影中に起こる不測の事態を編集に残す/削る決断は無関係ではありえない。寓話として物語を語る態度とは、映画の詳細描写から「リアリティ」を排除し、現実世界とは切れた場所、「映画」の中で、ある種の題材、この映画の場合は「戦争」のエレメントをより高純度で抽出する作業と言える。フィルムに不測の事態を定着し、そこから新たな撮影の着想を得ることはあるだろうし、そうした事態を歓迎すべき映画ももちろんあるが、この映画で持ち込まれるそれは、違ったレベルではあるがこの映画が「現実」と地続きであることを、ひいてはこれはひとりの人間が監督した「映画」であることを観客に意識させる方向に働き、寓話としての強度がぐらついてしまっているように思う。
そのぐらつきのせいか、冒頭の最前線のシーンでたびたび見られる砂漠で主人公と戦友の3人が話すシーン——砂塵がレフ版の役目を果たすのか、逆光(カメラは常に「西側」の方向を向いている)で撮られる夕景は不思議とシャドウ部が明るく、美しいコントラストをみせる——を繰り返されると、その前に見た、3人があまりに無邪気にヨーロッパを礼賛するシーンを私はくつくつと笑ってしまったのだが、その無邪気さがどこまで演出されたものなのか、どこまでイラクの「現実」をひきずっているのか、判断がつかなくなってしまった。

鈴木淳哉

投稿者 nobodymag : 2005年5月15日 12:45