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2005年5月15日

コンペディション部門 『Last Days』ガス・ヴァン・サント

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カート・コバーンをモデルとした主人公、マイケル・ピットが演じる彼はブレイクと名づけられているが、他の登場人物はみな役者の名前、ファーストネームがそのまま劇中で使われている。当時のバンドメンバーや友人たちの名前をそのまま劇中に用いることは可能だろうが、ガス・ヴァン・サントはこのようにしてあっさりとこの映画が、現在、製作されたこと、つまり当時の再現ではなく過去と現在が明確に違うということを宣言し、語り始める。役者はみな、現在、当時の彼らと、同年代の役者が選ばれている。これがひとつ目の「ずれ」。
マイケル・ピットだけ役名がつけられているのは、彼が劇中でおかれる立場を示している。過去に現在を導入するこの映画の主人公が現在、すでに死んでいることはこの映画を観る者ならばみなすでに知っている。劇中で麻薬更正施設からの脱走者で森の中で友人と自閉的な生活を送っている彼は、つまり生(麻薬からの更正)と死(ひどい中毒症状を捨て置くこと)との間に立っている。若さを謳歌する友人たちにつねに混ざろうとせず、ほとんど意味のある言葉を発することもできないブレイクは登場人物中ひとりだけ決定的に老いて見えるのはこのためだ。ふたつ目の「ずれ」。
3つ目は撮影である。カメラのフォーカスは常に1点に絞られ、画面上の人物が移動しようと徹底して無関心である。このフォーカスの「ずれ」はガスの好む柔らかい光の中で端的に美しい。そしてその美しさが提出するのは当然「カメラ」の存在、これは劇映画であるというアナウンスであろう。
4つ目の「ずれ」は『エレファント』に顕著にみられた彼の話法である。ひとつの現象が違った話者の視点から、なんのサスペンスを明かすでもなく繰り返される。観客は時系列の整理のために推理するのではなく、一度の時間の流れでは語られなかったこと、語りきれなかったことに耳を、目を澄ますことになる。パラレルにわずかにきしみながら横滑りを続けるひとつの事象。関係ないが、カート・コバーンのために「How long, how long will I slide?」と歌ったアンソニー・キーディスを思い出した。
5つ目。マイケル・ピットの演奏、シャウトをサーストン・ムーアが文字通り「ずらして」ループを組み、劇中ではブレイクひとりだけでその音楽を創造する。つまりこの音楽はブレイクの頭の中と、映画を観る者だけが体験できる。どこでループを組んだのか聞き逃してしまうほどにこの演奏のシークエンスは滑らかで、その滑らかさがかえってそのわずかな「ずれ」の存在を浮かび上がらせる。
いくつもの「ずれ」。ひとつひとつがかすかに立てるきしみの音は、徐々に、徐々に大きく共振して「大きな」音、音楽となり、その音楽は死の直前、ブレイクの手によってなる。その瞬間、彼は「ずれ」から起こる軋みのたてるかすかな音を拾いその振動を増幅させる共鳴体、純粋に音楽装置となっているように見える。
ラスト。彼はまさに「抜け殻」となるのだが、天上へ窓枠に足をかけて上っていくもうひとりの彼をわれわれは目撃する。彼は誰だったか。唐突だが、私はソングライターとしてのカートではなかったかと思ってしまう。ヴァセリンズを誰より尊敬していた彼。かつて彼のパフォーマンスにはやはり心奪われたが、好きな「歌」もたくさんあったことを思い出した。
鈴木淳哉

投稿者 nobodymag : 2005年5月15日 12:48