ペドロ・コスタ インタビュー

取材・構成 田中竜輔、宮一紀
通訳 土田環
2008年4月3日16:30〜、イメージフォーラム3Fにて収録

 3月末にアテネ・フランセ文化センターにて行われた「ペドロ・コスタ監督特集2008」は大盛況のうちに幕を閉じた。『血』や『骨』といった初期の作品群は私たちの目にノワール的にもSF的にも映った。『ヴァンダの部屋』に漲っていた持続する緊張感に多くの日本の観客は戦慄した。そしてストローブ=ユイレとの出逢いを経て、『タラファル』や『うさぎ狩り』といったあまりにも豊かな〈バガテル〉が生み出された。特集上映ではそうしたペドロ・コスタの変わり続ける姿が明瞭に示されていたと思う。かつて彼は「映画とは古いものが新しくなる瞬間だ」と私たちに語ってくれたが、『コロッサル・ユース』ではアフリカ系移民たちがまさに新しい集合住宅へと移り住む過程が描かれている。子供たちの遊ぶ声があたりに響き渡る親密な空間で、しかし人々は緩やかに遮断され、孤絶へと追いやられる。そのような現在に再びDVキャメラが向けられている。いま、もっとも孤高の映画作家と呼んでもいいかもしれないペドロ・コスタが、連日のプロモーション(彼は数日間で東京、大阪、広島と日本中を飛び回っていた)の疲れも見せることなく、自作について穏やかに語ってくれた。

写真:鈴木淳哉

——前回のインタヴューでコントラコスタという制作会社は「コスタに反対する」という面白い名前だと伺いましたが、今回の制作会社には「ヴェントゥーラ」の名前が入っています。

ペドロ・コスタ(以下P.C.):ヴェントゥーラ・フィルムは前作でも制作に関わっていたんだけど、たしかにイッツ・ア・スモール・ビューティフル・ワールドだね(笑)。

——でははじめに『ヴァンダの部屋』以降の作品の変遷について伺いたいと思います。『ヴァンダの部屋』にたどり着く際、コスタ監督は制作に関わる様々な事柄に対する嫌悪感を表明していらっしゃいましたが、『コロッサル・ユース』や新しい短編作品を見ると、そこには〈おおらかさ〉〈おかしみ〉〈軽さ〉といったものが際立って見えるように思います。

P.C:『ヴァンダの部屋』に引き続き『コロッサル・ユース』でもスタッフは少数で、設備も最小限、キャメラはDVキャメラですし、録音技師もひとりです。だいたい自然光による撮影で、たったひとつのレフ板と鏡がありました。『ヴァンダの部屋』に比べてより完全なものにするために、まず長い期間を同じスタッフで働くということが必要でした。撮影に際して厳しいルールのようなものをつくり、なるべくそれに従うようにしました。小さいチームですが、ある意味では古典的な映画を撮影するシステムとあまり変わりません。ただ撮影所などのシステムと違うのは、休むことなく撮影を続けるようにしたことです。もう一点は、実際は3、4人で撮影をしていたのですが、光、あるいは照明にもうちょっと手を加えて人工的なものにしようとしたことです。役者がいるということもありますが、映画自体が『ヴァンダの部屋』とは他の目的を持っていたと思います。それはあえて自分たちの身を危険に晒すということでもあったと思います。

——撮影期間が2年間で、使用したDVテープは320時間分にも及んだと聞いています。小誌11号のインタヴューで『ヴァンダの部屋』について「ある種のメカニゼーションが必要だ」とおっしゃっていましたが、『コロッサル・ユース』はそのメカニゼーションを深めていくような作業だったのでしょうか。

P.C:メカニゼ−ションというのは私が『ヴァンダの部屋』を撮影しながら見つけた方法です。『ヴァンダの部屋』を撮影をしながらその方法が気に入って、『コロッサル・ユース』でそれを発展させたということができると思います。ただ同時に、自分の考えていたことの矛盾に突き当たったということもできるかもしれません。つまりこのやり方はルーティン作業の中でヴァリエーションを持たせることを企図していますが、映画を撮るときにはパッション、ある種の熱狂も必要なのです。たとえば月曜日に愛のシーンを撮って、次の日にアクションを撮る。また次の日には別のものを撮る。そこにはある種のリズムがあるのです。朝起きて仕事に出掛け、仕事をこなし、そして遅く寝ることになる。毎日バスや電車に乗らなければならない。そうして各人が持っているルーティンの中で、自分を驚かせるようなものに出会えるのではないか。そう考えてこうした方法を取っているのです。ただひとつ言っておきたいのは、毎日そうしたことを繰り返していても、いつもうまくいって素晴らしく詩的なものを得ることができるというわけではありません。現実というのはそうではなく、毎日繰り返されることにそう変化はありません。その中でほんのちょっとだけいいものがあるのなら、それを見つけたいと私は思います。
 毎日同じことを繰り返すというメカニゼーションのなかで、ほんの少しだけ変わったもの、新しいものは出てきます。しかし私はそれを期待してやっていたわけではありません。そうしたものは繰り返すことによって偶然出てくるものなのです。

——現在、東京ではジャック・リヴェットのレトロスペクティヴが開催されていますが、ある意味ではコスタ監督にもリヴェットに似たところがあるのではないでしょうか。もちろん出来上がった作品はまったく違うものだと思いますが、リヴェットはルノワールについての作品を撮った後に明瞭にスタイルが変化しました。コスタ監督もストローブ=ユイレを通過した後にフィクション・物語を生成するような作品『コロッサル・ユース』を撮影していますね。

P.C:私はリヴェットの撮影に参加したことも見学したこともありませんが、彼の書いたものは読んでいますし、あるいは私が知っている幾人かのスタッフから話を聞いたこともあります。「毎日働く」というある種の伝説も聞いています。リヴェットのやり方というのは私よりも映画そのものにやや介入しているのではないでしょうか。役者、あるいはスタッフに考えさせるというやり方をしていると思います。私はあまりそういうやり方が好きではありません。どちらかといえばクラシックな方法、同時にいい意味でのアマチュアの手法を取っています。アマチュアの手法というのは、映画や演劇の経験がない人々とともに働くということです。リヴェットの役者たちは職業的俳優であり、彼らの精神とリヴェットは共犯関係にあります。私はそういうものから離れていたいと思います。離れた上で、別の集団作業を築こうと考えています。私はリヴェットの作品をすべて見ていないので、共通点がその中にあるかどうかはわかりません。ただ、リヴェットと私に共通点があるとすれば、ストローブ=ユイレの作品に対するパッションであり、彼らと友情を分かち合っているということでしょうか。実際にリヴェットはジャン=マリー・ストローブの親友ですね。私もストローブ=ユイレについての映画を撮って、それは唯物的な映画だったと思うのですが、撮影中に闇や幽霊といったもののことを考えていました。リヴェットの映画にも謎やマジックというものがあります。それは超現実的な空間に何かが現れるのを信仰するということです。私もリヴェットも身体、あるいは実際の人間を撮るという実践的な方法を好むという合理的な側面で共通点があるかもしれません。ナイーヴな側面ですが、映画における謎めいたものへの信仰も共有しているでしょう。リヴェットの映画には亡霊が出てきますので、それはホラー映画と呼んでもいいかもしれません。私もまたジャック・ターナーのような映画作家に惹かれているわけです。

——『コロッサル・ユース』ではコスタ監督がこれまでかたくなに拒絶していたかに見えた空や自然といったものが映し出されていますね。

P.C:たしかに『コロッサル・ユース』では部屋の外に出るシーンが多い分、そのようにお考えになったのかもしれませんが、私自身は「自然」という言葉に違和感を覚えます。『ヴァンダの部屋』に比べてショットそのものは引きの広角で撮っているので、部屋以外の空間が映り込むことはあるかもしれません。しかしそれが自然の環境であると考えたことはありません。『ヴァンダの部屋』というのはある種の刑務所であったと私は考えていますが、もし自然というものがそれに対峙することができるものだとすれば、『コロッサル・ユース』にもそうした風景は出てきていないと思います。バラック、白いアパート、階段といったものは刑務所のヴァリエーションに過ぎません。それらはフレームの中に存在しているのです。
 ヴェントゥーラのような登場人物には想像力というものがあります。彼を通していくつかのイメージが出てきます。彼が手紙を読むシーンは空間や時間といったものを「逆に開く」のです。彼が美術館を指差し、「あそこで働いていた、足場から落ちた」と言うのですが、そのことがイメージを開くのです。彼の過去は実際に見られることはありませんが、提起されるのです。このやり方はジャック・ターナーやストローブが好んでいたものかもしれません。つまり埋没してしまった何かを掘り起こすという作業です。想起させるというのは閉じられた空間を開くということなのです。

——今、フレームという言葉が出ましたが、『コロッサル・ユース』はたくさんのフレーム、窓が出てくる映画ですね。ヴァンダが移り住む集合住宅の部屋には背後にカーテンのかかった窓があり、手前左手にはその画面は決して映されることがありませんがテレビが置いてあります。そういったフレーム、窓からは決して外部のものが入ってきませんね。その一方で美術館の絵画は真正面から捉えられ、装飾された額に縁取られています。
 また、少し気になったのですがこの作品はスタンダード・サイズで撮影されていると思うのですが、画面の両端をテープか何かで覆っているでしょうか?

P.C:ご指摘いただいた黒いマスキングですが、これは単に技術的なことです。いわゆるスタンダードのフォーマット、アメリカン・アカデミーと呼ばれている1:1.33のものですが、40年代に小津やフォード、ムルナウの映画を当時の人々はこのサイズで見ていました。その後、映画は1.66、あるいはスコープ、また1.85というサイズを生み出してきましたが、現在ではDVDヴィデオの出現によって4:3になっています。DVキャメラの4:3というサイズで撮影されたものを35ミリフィルムにテレシネする際に、我々としては1:1.33、つまり古典映画のサイズを企図したのですが、これは実際には映画館でかけられないサイズです。シネマテークではおそらくできるでしょうが、普通の映画館では上下左右を切るか、マスキングしなければいけません。そうしたときに1.1.66でフィルムを上映する映画館で自分たちの撮ったものすべてが映るサイズをつくるため、画面の両端をテープでマスキングしたわけです。実際の上映では画面の両端は映画館のカーテンで隠れるはずです。
 フレームや窓に関してですが、実は自分で理論化したことはありません。たしかにこの映画は室内撮影が多いですし、映画の主題として家、あるいは家にどのように住むかということを扱っていますので、必然的にフレームというものを思い浮かべたのでしょう。また、ヴェントゥーラがどのようにドアを開け、閉めるかというのは映さなければなりませんので、そこにドアが出てくるわけです。しかし自分としては窓やドアについて理論的なものを持っているわけではありません。それが有効かどうか、演出に必要かどうか、他のオブジェとの関係から必要かどうか、そうした実践的な理由から窓やドアがあるのだと思います。美術館のシーンでも特別にフレームについて考えたことはありません。むしろ私たちが試みたのは原始的な、あるいは野蛮なやり方でそこにキャメラを持ち込んだことです。つまりルーベンスのような偉大な芸術を前にして安っぽい小さなDVキャメラをそこに置いたのです。フランス語で「高尚な」という意味を持つオート・ディフィニッションと名のつくキャメラですが、高尚さはむしろルーベンスの側にあって、こちらにはないのです。

——もともとコスタ監督の映画では音というものが外部とつながるものとして機能しています。最後に音についてお聞かせください。また『コロッサル・ユース』では終始子供の声が聞こえているのですが、最後のシーンでかすかに聞こえる爆発音のようなものは何だったのでしょうか?

P.C:最後のシーンにはヴァンダの娘とヴェントゥーラの声、そしてタイトルはわかりませんが日本で一番有名なアニメの中の音声が入っています。おそらく爆発音か雷鳴でしょう。
 『ヴァンダの部屋』に比べると『コロッサル・ユース』は「非音響化」された映画だと考えています。『ヴァンダの部屋』で描かれたフォンタイーニャス地区のアパートは空間そのものがかつて彼らが住んでいた地域(編註・カーポヴェルデ)に比べて閉ざされています。人々が窓から出入りしている光景をご覧になったと思います。音もまたそこから入ってきて、循環していたと思います。あそこではすべての人々が知り合いで、秘密もなく、皆で何かを共有することができました。しかし『コロッサル・ユース』で彼らが移住させられた場所ではそういうものがなくなっています。つまり自由な出入りが止まったのです。そこでは音も遮断されています。この映画の中では音が普通の、「社会的な」ものになってしまっていると思います、彼らは隣人についてよく知らないし、新しいアパートの中で隔離されている状況です。それに対してヴェントゥーラが読み上げる手紙は彼の声、あるいは話し方によってイメージを想起させるものとなっています。それが孤立している状況に対峙していると思います。彼らは新しいアパートに移されたことで多くのものを失ってしまいました。音が循環し、飛び交っていた状況もそのひとつです。善し悪しは別として、隣家を訪ね、ドアをノックすることによってしか隣人を知ることができなくなったのです。この状況は視覚的・音響的に示されていると思います。

ペドロ・コスタ監督作品 コロッサル・ユース
5月24より[シアター]イメージフォーラムにてロードショー
公式HP:http://www.cinematrix.jp/colossalyouth/
[シアター]イメージフォーラム:http://www.imageforum.co.jp/theatre/index.html