昨日、一昨日と立続けにデジタルビデオによって撮られた3本の映画を観た。第3回東京フィルメックスにおける『エルミタージュ幻想』(アレクサンドル・ソクーロフ)『アカルイミライ』(黒沢清)『青の稲妻』(ジャ・ジャンクー)である。それら3本の監督とプロデューサーによる「映画における新しいメディアを考える」というトークイベントが有楽町朝日ホールの一角で行われた。
冒頭で「デジタルビデオによって」とひとくくりにしたものの、ハイビジョンかそうでないかなど様々な違いがあるようなので、それが正しい言い方なのかはよくわからない。ただ黒沢清とジャ・ジャンクーが口をそろえて言っていたことに、全くと言っていいほど照明を用いる必要がないということと、ビデオであることの機動性がある。こういうふうに書くと、デジタルビデオで映画を撮るのは簡単だ、というだけになりそうだが無論そんなわけはない。ビデオでの撮影によって音と映像がぴったりと符合した素材がはじめからある状態からスタートする編集は、慣れてないせいもあってか時間がかかったと黒沢は語るし、『青の稲妻』はキネコの作業に時間を多く費やした。
「デジタルビデオの技術が進化したからといってフィルムのクオリティに近付けたいとは思わない、どうせやるならビデオでしかできないことをやる」。これも両人が共に発言していたことである。『アカルイミライ』も『青の稲妻』も、同じ監督の前作までの作品よりも、実際に撮影する場所を含んだ「都市」というより大きな場所にダイレクトな視線を投げているように思えたのだが、それをデジタルビデオという手法にわずかなりとも影響があるのではないかと考えるのは、いささか短絡的すぎるだろうか。
結城秀勇