先週は次の雑誌の準備をあせあせとやりながら、いろいろな方々と会う機会に恵まれた週でもあった。日曜に初めてお会いした、カイエ・デュ・シネマの共同編集長であるラランヌさんも昨日帰国されたとのこと(インタヴュ−が次号に掲載されるので、ぜひ読んでみて下さい)。いろいろな方々とお話していると、それぞれ困難なものに立ち向かわれていることもわかるわけで、「いやあー、大変だー」とついばかみたいに連発してしまったのだが、そもそも私たち自身も、こんなことをやり始めた時点から、困難な道を敢えて選択したということにもなるのだからと、さらに気を張り詰めた状態に自分達を追い込まなければならないものだと、改めて思ったりして。
一方で、この一週間は「映画芸術」の最新号での特集(インタヴュ−、座談会、大寺氏の評論)、boid.netのインタヴュ−、「ユリイカ」の蓮實氏の評論と、『アカルイミライ』についての重要な言説、論考を目にする機会にも恵まれた。私自身、まだ『アカルイミライ』に対して、これは今後撮られる映画にとって(いや、たぶん映画に限らず)、いろんな意味で最も重要な作品であることは間違いないと思いつつも、どこか混乱した状態だったので、今週目にした記事をきっかけに遅ればせながら冷静に考えていきたいと思っている。
特に「映画芸術」座談会での青山監督の発言は、我々にとってもちゃんと考えていかなければならない問題であるはずだ。読んですぐは少し驚きを覚えたのだが、よくよく考えると青山監督が『アカルイミライ』に対してあのような齟齬を表明するのは当然のことなのだ。あるいは、誰よりも青山真治という映画作家こそがとるべき態度だと言えるかもしれない。
そう言えば、『アカルイミライ』のエンドロールを見ながら私が瞬時に思ったのは、『EUREKA』あるいは『月の砂漠』という作品がなければこの映画は生まれなかったのではないか、ということだった。まだうまくは言えないが、たぶんそれはただの思い込みでもないだろう。
黒岩幹子