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03.2/6

 

 ナオコさんは結婚していた。高校生の頃にお世話になった地元のセレクトショップ、その店長コヤマさんと店員ナオコさんは結婚していて、新しいお店を出している。西武とジャスコが合体した大型ショッピングセンターに人の流れを奪われた愛知県岡崎市は、かつての「ファッション地区」康生町を切り捨てたようだ。ビルで隠れない曇天空が逆に哀しさと切迫感をもたらすこの康生町で、このセレクトショップはやたらに品揃えが良い。ほとんどの客が名古屋からか、あるいはネット通販だそうだ。「マツイさん、すっかり大人になっちゃって」。「マツイさん」ですか、「さん」付けで呼ぶのは止めて下さい、ナオコさん。
 近頃は深夜を過ぎるとベッドばかりが「マツイさん、マツイさん」と呼び掛けてくるようで、別に女の子がそこにいるわけでもなく、ただこの部屋にいると思考が停止してしまいそうで、ホントに怖い。もうこの部屋からは何も生まれないのかな、と思いつつ、朝8時半からは「おまえよお、ここは3メートルって言ったじゃねえかよお、ほんとバカだなあ、おめえ」などと、土方の兄さんの声が響く。そう、うちのアパートは今、大改修中なのだ。鉄と鉄との衝撃音が、ドリルのうなりが、今この部屋に響いている。もう「マツイさん」なんて聴こえない!

松井宏