喪に服し、エロティシズムに満ちた長い精神の旅

ティエリー・ジュス

© 2021 『ドライブ・マイ・カー』製作委員会

 村上春樹の短編を原作とする『ドライブ・マイ・カー』は、濱口竜介の説話技法が驚くべきものであることを証明する。それはすでに、濱口の以前の諸作品、とりわけ『寝ても覚めても』で明らかだったが、本作においてこの映画作家はそれをさらに洗練させ、物語の深さに一層磨きをかけ、飛躍を見せた。数年間の出来事を3時間で描くなかで、『ドライブ・マイ・カー』は『ワーニャ伯父さん』を上演しようとする劇作家・家福に焦点を当てる。
 濱口の世界において単純なことはなく、物語は主人公と彼の周囲の人物たちの混沌とした実存のなかへ入り込んでいく。さらに語りの筋は、物語を複雑化する複数のエピソード、人物たちとともに交差していく。『ドライブ・マイ・カー』はかなり長いプロローグで幕を開け、ここで喪と心を揺さぶるエロティシズムが刻まれた精神的な冒険の基盤を築いてみせる。それは、淀みなく素晴らしい最初のシーンで表現される。セックスの後のベッドにほとんどささやくような声が響き渡る場面に観客は浮遊させられるだろう。そこから、濱口はゆっくりとわれわれを驚きに満ちた迷宮に誘う。だが、この日本の映画作家は物語を捻ることに関心があるわけではない。むしろ、あるいくつかの分岐点によって、魅力的な物語をほとんどの登場人物が抱えるトラウマに到達させることを可能にしている。
 このフィルムの多くが広島で展開していくのは、濱口がカタストロフィを生き抜いた人物たちを捉えているからかもしれない。以後の世界には、以前の世界の記憶、秘密や謎が残っている。このことの大部分は車が絶え間なく往来することで演じられる。その運動は身体的というよりは精神的である旅を結晶化させる。主人公家福と彼を毎朝広島の劇場まで乗せ、毎晩島の宿泊地まで送り届けるみさきはともに長い旅をすることになるだろう。ふたりの奇妙な関係は徐々にフィルムの中心になっていく。ふたりの関係は遠回りをすることで、逆によりこの作品の核心へとより戻っていく。
 濱口の演出は洗練され、緻密であり、捉えがたい。まるで、僅かな細部がパズルの全体を絶えず参照するかのようであり、滑らかな語りで客観的現実と夢の要素を混ぜ合わせるかのようである。こうしてフィルムは、昼のなかに漂う暗い夜の雰囲気のなかを進み、最後の白雪に覆われた丘の頂上に到達する。
 これ以上さきは書くべきではないだろう。少なくとも、『ドライブ・マイ・カー』は、映画にとって普段とは異なる奇妙な年において偉大なフィルムの一本となることは確かだろう。『ドライブ・マイ・カー』は、各々の真に親密な経験と時間をかけて共鳴し、われわれの揺らめく無意識の暗い夜闇のなかで、長い間輝き続ける可能性を秘めている。(「レザンロキュプティーブル」2021年7/8月号/訳出:梅本健司)

ティエリー・ジュス(Thierry Jousse)

1961年フランス、ナント生まれ。元『カイエ・デュ・シネマ』編集長、映画批評家、映画監督。
1991年から1996年まで映画雑誌『カイエ・デュ・シネマ』の編集長を務める。1998年から映画監督としても活躍し始め、ミュージシャンのノエル・アクショテを主演に迎えた『ノエルの一日』(1998年)、やはりミュージシャンのフィリップ・カトリーヌ、アンナ・カリーナが共演する『コードネムはサシャ』(2001年)といった短編を発表、初長編作品『見えないものたち』(2005年)、『ノーマンズランドの住人たち』(2011年)、『ジャン・ドウーシェ、あるいは愛する技術』(2011年)を撮る。主な著作に『ジャン・カサヴェテス』(1989年)、『ウォン・カーウァイ』(2006年)、『デヴィッド・リンチ』(2007年)(いずれもカイエ・デュ・シネマ出版社)がある。2017年よりフランス国営公共ラジオ放送局フランス・ミュージックの映画音楽番組『シネ・テンポ』の司会者兼プロデューサーを務めるほか、テレビ局アルテのネット音楽&映画番組『Blow up』や、カルチャー雑誌『レザンロキュプティーブル』で映画、音楽について批評活動を行っている。

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