やつめうなぎ的思考

木下千花

 濱口竜介の『ドライブ・マイ・カー』は、やわらかく青みがかった大きな窓を背景に、ぬらりと身を起こしたまま語る女の黒いシルエットで始まる。女は言う。「続き、気になる?」
 本作が村上春樹の同名作品ばかりではなく、短編集『女のいない男たち』(文春文庫、2016年)にいっしょに納められた他の短編からも想を得ていることを知っている者なら、すぐに思い当たるはずだ。「ああ、「シェエラザード」だ」と。シェエラザードは、同名の短編小説において、ある秘密組織の「ハウス」に滞在している語り手の男性の元に1、家事と性的サーヴィスを提供するため週に2回ほどやってくる30代の主婦であるが、性行為のあと、あたかも『千夜一夜物語』の美妃のように面白い話を語って聞かせるのだ。
 しかし、類似はすぐに疑問を招き寄せる。なぜこの女、おと(霧島れいか)は、ベッドの上に半身を起こして語っているのか。夫であり、この映画の主人公である家福悠介(西島秀俊)が裸身をベッドに横たえて耳を傾けているさまが、すぐにミディアムクロースアップで続くというのに。Postcoitusの寝物語というものは、親密なけだるさに身を任せて水平姿勢で行うものであり、「シェエラザード」でもそうなっているではないか。なお、ここで問うているのは、「原作」や現実世界における慣習との当然ありうべき些末な差異ではなく、身体と演出をめぐる主題系である。取り急ぎこう答えることで本論を語り起こそう——だって、音はやつめうなぎだから。
『ドライブ・マイ・カー』の設定は以下のようなものだ。舞台演出家で俳優の家福は、ロマンチックな性関係においても、芸術的創造をめぐっても、脚本家の音とパートナーとして深い愛情と理解で結ばれていたはずだった。一方で家福は、音が仕事でいっしょになった何人かの男と寝ていたのを知っている。音は謎を残したまま急死してしまう。二年後、家福は広島市で開催される演劇祭に招かれてアジアの多言語・他民族キャストにより『ワーニャ伯父さん』の演出を行うことになり、愛車サーブの運転手として渡利みさき(三浦透子)をあてがわれた。そのオーディションに、音の最後の情事の相手だった若手俳優・高槻耕史(岡田将生)が応募してくる。
 この物語のなかで「やつめうなぎ」のエピソードは、2回、特権的な重要性をもって現れる。まず、家福と音の二人が、19年前に4歳で亡くなった娘の命日の法要を執り行って帰宅し、喪服を脱いでセックスした後、暗がりのなかやはり上半身を起こした音が、語りだすのだ——「前世は高貴なやつめうなぎだったの」と。ここの台詞はかなり村上春樹の「シェエラザード」の会話と重なっていた気がするので、そちらを引用してみる。

「小学生の頃、水族館で初めてやつめうなぎを見て、その生態の説明文を読んだとき、私の前世はこれだったんだって、はっと気づいたの」とシェエラザードは言った。「というのは、私にははっきりとした記憶があるの。水底で石に吸い付いて、水草にまぎれてゆらゆら揺れていたり、上を通り過ぎていく太った鱒を眺めたりしていた記憶が」(Kindle版、loc. 2062)。

© 2021 『ドライブ・マイ・カー』製作委員会

 やつめうなぎは、ウナギとは関係なく、魚類ですらない、いわゆる「生きている化石」である。体全体が長い円筒形(ただし片端は閉じている)になっており、口にある吸盤で蛭のように水底の石や捕食対象に吸い付く。捕食の際には、吸盤の内側にある歯の生えた舌状の器官を使って対象の体に穴を開けてじわじわと食べてゆくのである。もし興味があれば、ぜひYoutubeなどで検索してその恐るべき生態を捉えた動画を見ていただきたい——次の朝、何の話をしたかまったく覚えていないという妻に隠れて、家福がしたように。おわかりだろうか。やつめうなぎとは、一見すると男根に似ていながら、その実、ヴァギナ・デンタタ(歯の生えた女性器)であるという、類い希なる生物なのである2
 本論が音はやつめうなぎであると主張するのは、彼女が寝物語においても性交においても、上半身を起こし、自らの身体をさながら一本の管に——包み込んで捕食し、さらに喉を震わせて声を出し物語を生み出して語る管に——変えているからだ。フライトがキャンセルになったため成田空港から自宅に帰った家福が、音と高槻の性交を目撃するシーンを思い出してみよう。マンションに帰ってきた家福の姿は姿見に映っており、居間のソファの上、坐位で行為する二人が同一フレームのなかに捉えられる。高槻は背中をこちらに向けており、その肩越しに音の顔がはっきりと見える。この部分は『女のいない男たち』の別の短編「木野」の類似のシチュエーションから取られている。「妻がしゃがみ込むような格好で上になっていたので、ドアを開けた木野は、彼女と顔を合わせることになった。(中略)木野は顔を伏せ、寝室のドアを閉め、一週間分の洗濯物が詰まった旅行バッグを肩にかけたまま家を出て、二度と戻らなかった」(loc. 2540)。しかし、映画『ドライブ・マイ・カー』では夫と妻の視線が合うことはない。家福は気づかれず足早に車で自宅を後にする。濱口は音の人物像を立体的にするために「シェエラザード」と「木野」のエピソードを加えたという。まさにこのモンタージュ的翻案によって、どちらの短編にも内在しなかった意味が生み出され、映画の音は文字通り、やつめうなぎとして立ち上がったのだ。
 やつめうなぎの話がもう一度、映画のなかに現れるのは、みさきが運転する車のバックシートで、家福と高槻が語り合うこの映画の一つのクライマックスにおいてである。そもそも濱口が短編「ドライブ・マイ・カー」を映画にしたいと願ったきっかけとなったくだり——死んだ妻が関係を持っていたつまらぬ男が、「僕の知る限り、家福さんの奥さんは本当に素敵な女性でした」で始まる長台詞を述べ、それを語り手が「高槻という人間の中にあるどこか深い特別な場所から、それらの言葉は浮かび出てきたようだった。ほんの僅かなあいだかもしれないが、その隠された扉が開いたのだ。彼の言葉は曇りのない、心からのものとして響いた」(loc. 611)と形容するくだり——であり、バーから車中へと見事に転換されている。目を潤ませて語る岡田将生は素晴らしく、今後もおそらくこのシーンにおける演出と演技、編集については正当な賛辞が重ねられてゆくことだろう。
 しかし、ここで家福と高槻のやりとりが急速に密度を増してゆくのは、高槻が、生前の音から聞いた「前世がやつめうなぎだった」女についての不思議な物語を開示し始めるからだ。つまり、音は、言葉と物語がセックスとオーガズムと密接に結びついて彼女の中に立ち上がってくる、「やつめうなぎメソッド」とも呼べよう独自の脚本生成プロセスを、家福だけではなくこの「中身がからっぽ」の若者とも実践していたことになる(なお、私が家福だったらこれは死ぬほどショックだが)。しかも高槻は、家福と違い、「シェエラザード」の物語内物語をさらに発展させた、ひねりの効いたホラー映画のような話の結末まで聞かされていた。
『ドライブ・マイ・カー』は、音をやつめうなぎとして——男性器を捕食し、快楽から声と言葉を得る、物語る女として——具体的に画面のうえに立ち上げることで、家福と高槻についての設定が容易に滑り落ちえた陥穽を回避している。あるいは、まったく別のものに変えている。つまり、二人の関係は、高槻の年齢が原作の40代前半から20代へと引き下げられ、さらに演出家と俳優という明確な公的役割、いわば象徴秩序におけるポジションを与えられ、そのなかで家福が「高槻」と苗字を呼び捨てにすることによって、父と息子へと限りなく近づいている。この映画の設定は、父と息子が謎めいた女を共有することで男同士の絆を結ぶという物語にもなり得たわけだ。そうならなかったのは、もちろん、高槻が『寝ても覚めても』の串橋(瀬戸康史)や『ハッピーアワー』の鵜飼(柴田修兵)らの系譜に連なる挑発的なトリックスターとして造型されているからでもあるが、音が安穏に所有され交換され想起されうるモノではなく、恐るべきやつめうなぎだったことの意味は大きい。
 音のやつめうなぎ性は、さらに、この映画における他の女性たちの物語との接続を可能にする。『ワーニャ伯父さん』で韓国手話を使ってソーニャを演じるイ・ユナ(パク・ユリム)は、ドラマトゥルクのコンさん(ジン・デヨン)の妻でもあることが明らかになるが、ダンサーであったのが妊娠を機に踊るのをやめ、流産して復帰の道を模索していたところ、この企画のオーディションがあったという。彼女の「動き出すと、テキストが体の中に入ってくる」という言葉は極めて示唆的だ。ここにも、やつめうなぎメソッドと手法は異なるとはいえ、性化された身体を基盤とした女性による語りの創造がある。
 この映画の終盤、家福はみさきの運転するサーブで、彼女が出生から17歳までを過ごした北海道の寒村を訪れる。土砂崩れで崩壊した生家の跡を前にしたツーショットの長回しなかで、みさきは、そこに埋もれて死んだ母について語る。彼女は水商売を生業とするシングルマザーであり、酒に溺れ娘を虐待するいわゆる毒母であった。ところが、みさきが14歳のころから、暴力振るったあとで母が「サチ」という8歳の少女になるという現象がおき、みさきにとって「サチ」は唯一の友達だったという。みさきは家福と音の死んだ娘と同じ年齢であり、まったく異なった社会的・経済的・文化的な境遇を生きた音とこの母は、明らかに重ねられている。二人とも、それぞれの理由から規範的な母になり損ね、密室でのセッションのなかで一種のトランス状態に陥って語るからだ。さらに、みさきと家福は母や妻を「殺した」という罪悪感——もっと早く助けを呼んでいれば、帰宅して発見していれば——に苛まれ、それを語ることで結びつきを強めている。
 だが、『ドライブ・マイ・カー』はここでも自ら設置したかに見える罠を解体する。上述のツーショットにおいて、みさきは音が残したという「謎」について、そんなものは謎ではなかったと言う。奥さんは家福さんのことを愛していて、でも他の男の人ともセックスしていた、そこには何の嘘も矛盾もなかったんだと思います、と。伊藤洋司がいみじくも指摘するとおり、ここでみさきが覆すのは、女性は子どもの死なり何なりによる欠如を埋めるために他の対象を欲望したり、あるいは物語を紡いだりするという、本質的に男根的ファリックな解釈の枠組みそのものである3。家福自身も、そしてひょっとするとある時点までは映画作家たちも従ってきたかも知れない、保守的であるが故に広く受容されやすい男根的な物語の呪縛が解けるとき、生き残った二人ははじめて同一フレーム内で距離を無化し、触れあうことになる。
 この映画の最後に開ける新しい地平では、あくまで男根的なるものに対する抵抗として組織されるやつめうなぎ的実践もまた、威力を失うことになるのだろうか。しかし、私としては、まだ少しの間、ようやく日本映画のスクリーンに現れたやつめうなぎたちを言祝ぐことにしたい。

1 この短編のなかで組織や「ハウス」の役割について説明は与えられないが、戦前の日本共産党の所謂「ハウスキーパー制度」に想を得たものと思われる。
2 例えばヴァギナ・デンタタを主題とした良質のホラー映画『女性鬼』(ミッチェル・リキテンシュタイン監督、2007)では、指を切断された産婦人科医の傷跡検分のシーンにおいて、残された歯のやつめうなぎ(lamprey)との類似が指摘される。
3 伊藤洋司「映画時評<8月>」『週刊 読書人』8月13日号。ここで伊藤は、煙草と座席のポジションに着目して家福とみさきの距離の演出を見事に分析している。

木下千花(きのした・ちか)

京都大学大学院人間・環境学研究科教授。専門は日本映画史、表象文化論。シカゴ大学博士(映画メディア学・東アジア言語文明学)。著書に『溝口健二論——映画の美学と政治学』(法政大学出版局、2016年)、ジェンダー+セクシュアリティと映画、検閲と自主規制などのテーマで日本語・英語の論文多数。商業誌での論考として、「女こどもの闘争―蓮實重彦の映画批評における観客性について」『ユリイカ』2017年10月臨時増刊号(蓮實重彦特集)、「『ハッピーアワー』と妊娠」、同2018年9月号(濱口竜介特集)、「母の褒め殺し——現代日本映画における“毒母”など」『世界』2021年6月号、などがある。科研費プロジェクト「日本映画における女性パイオニア」研究代表。

←戻る