ジャッキー・レイナル インタビュー
Entretien avec Jackie Raynal

――あなたが編集技師として働きはじめるまでのことをお話していただけますか? 

ジャッキー・レイナル(以下、JR)私はまず写真からはじめたの。私はヴォージラールの学校で教鞭をとっていた素晴らしい写真家、パトリス・ヴィエルスと当時、付き合っていた。彼が私にキャメラの手ほどきをしたのよ。20歳のときメキシコに行き、ルポルタージュを撮ったわ。パリに戻ってきたとき、彼はアレックス・ジョフェの『Tracassin ou les plaisirs de la ville』のアシスタント・キャメラマンとして仕事をしていた。映画のスタッフたちは私に「あなたは若くて、美しいんだから、映画にどうして出演しないのか」って提案をしてきた(笑)。そこで重要な役をあたえられた。その現場で、演出のアシスタントをしていたフランソワ・ブショーに出会い、すぐに仲良くなったの。彼は編集の仕事も手伝っていて、その仕事を見にいったわ。アラン・レネの『去年マリエンバードで』を編集していたのだけど、彼はどうやってフィルムを繋ぎ合わせるのか私に見せてくれた。その作業は私が自分の洋服を作っているときのことを思い起こさせた。私の両親はあまりお金がなくて、私は手縫いで洋服を作っていたから。少しの接着剤でふたつのイメージを張り合わせ、つなぎ合わせる才能があったのね。彼は私を見習いとして雇ってくれたけど、給料はすごく悪かったわ。

――どのようにエリック・ロメールとの仕事を始めたんでしょうか?

ダニエル・ポムルール、『Vite』

JRフランシュ・ブショーがバルベ・シュロデールを紹介してくれて、ちょうど編集しなければならない作品があるという話になった。それが、ロメールの『シュザンヌの生き方』と『モンソーのパン屋の娘』だったの! ロメールはワンショットしか撮っていなくて、一方で音は全然上手く録れていなかった。バルベの声は、ベルトラン・タヴェルニエが吹き替えしてたわね。私が編集を担当した『コレクションする女』も、冒頭のダニエルとアラン・ジュフロワとの会話以外は吹き替えなのよ。

――ロメールにとって編集は女性の仕事だったとヤン・ドゥデが話していました(小誌37号インタヴューより)。あなたとの仕事のあと、彼はセシル・ドゥキュギ、リザ・エレディア、マリー・ステファン……ずっと女性の編集技師ですね。

JR彼は女性を愛していたから(笑)! ロメールは若くして結婚したから、現実的に青春時代はなかったのよ。彼は自身の作品を介して、その時代を生き直していたんじゃないかしら。ロメールの作品の編集で私がしたことはそんなにたいしたことじゃなかった。だっていつもワンショットしかないんだもの。

――あなたがニューヨークに旅立ったあとも、彼との交流は続いたんですか?

JRパリを離れてからも、私と彼との交流は続いた。私はしばらく前からパリとニューヨークを行き来しながら生活しているんだけど、パリにいるときはロメールとときどき会っていたわ。彼が亡くなる前、彼に関するドキュメンタリーを撮った(『Ma dernière interview avec Eric』[2010])。結局、それが彼を映した最後の映像になってしまった。私は、ヌーヴェルヴァーグについてのドキュメンタリー作品も準備してるの。前の世代について語るのはつねに次の世代の仕事なのよ(笑)。

――60年代から70年代にかけてのロメールはヌーヴェルヴァーグの作家の中でも特異な位置にあるような気がしています。ロメールはヌーヴェルヴァーグ以後の映画作家とも深い親交がありました。彼がユスターシュとガレル、そしてビュル・オジエにとっての先生だったことは有名ですね。

JRそうね。60年代、ゴダールはもちろんのこと、ロメールはヌーヴェルヴァーグの中でもとりわけ実験的な作品に強い興味を持っていた。処女長編『獅子座』は、1951年、レトリストのイジドール・イズーによって撮られた『涎と永遠のための概論』のオマージュね。彼は本当に偉大な作家よ。でも当時カイエは、実験的な映画には向ってはいかなかった。とりわけリヴェットは極度に政治的な立場をとっていて、ロメールはカイエから離れなければならなくなったほどだった。たとえばガレルの作品はほとんど取り上げられることはなかったし、シャンタル・アケルマンもそうね。カイエは10年後、セルジュ・ダネーやルイ・スコレッキとともに、ザンジバールやヌーヴェルヴェーグ以後の作家たちついて語り始めた。私たちザンジバールは“映画の死”を望み、そしてダンディであることを選択した。だから同時代には、ヌーヴェルヴァーグの作家のように、カイエとの関係を持つことは難しかったのかもしれないわね。ロメールはかなり例外的な人物だと思う。

――ーーセルジュ・ダネーとあなたはとても親しかったそうですね。

JRええ、彼は私にとって兄弟のような存在だった。カイエで初めて私の作品についての記事を書いてくれたのはセルジュだった。彼とニューヨーク、サンフランシスコを一緒に旅行したこともあるの。彼と知り合ったのは1967年の夏だったと思う。ジョン・フォードの映画から飛び出してきたようなエレガンスさを持っていたわ。彼と政治、映画、スポーツ……色んな話をした。セルジュは旅行が好きだったけど、それは当時のシネフィルの中では珍しいことだった。旅行先からカードを送ってきてくれるのをいつも楽しみにしてたわ。彼と出会ってからちょうど10年後、1977年に、ニューヨークにある私の劇場で最初の「カイエ・デュ・シネマ」週間を企画した。大成功だった。毎夜、映画館は沢山の人であふれていて、セルジュは上映された作品についてそれぞれに話をした。ブノワ・ジャコ、シャンタル・アケルマン、マルグリット・デュラス、ジャック・リヴェット、そしてゴダール……私がよく知り、ともに仕事をしてきた映画作家たちの作品をプログラムした。セルジュはとても親密で個人的なコメントをひとつひとつの作品に与えてくれた。彼は観客を魅了する術を心得ていた。その後も、機会があると私はアメリカにセルジュを招待した。彼は私の申し出にいつも情熱を持って答えてくれたわ。

ーー正確にはザンジバールで撮られた作品ではありませんが、1968年の4月、イエールの映画祭でグランプリを獲得したフィリップ・ガレル『記憶すべきマリー』はザンジバールにとって重要な作品ですね。

パトリック・デュヴァル『Acéphale』

JR当時の私たちにとって、『記憶すべきマリー』は衝撃的だった。ガレルは私たちに“映画の別の在り方”を見せてくれた。私たちはそこから指針を得たのね。そして私たちは、この映画祭を介して出会い、ザンジバールを組織することになった。そこにはアラン・ジュフロワ、ダニエル・ポムルール、ベルナデット・ラフォン、パトリック・デュバル、ミシェル・フルニエ、エドゥアルド・ニエルマン、パスカル・オビエ……ザンジバールの作品に関わることになるであろう、多くの人物が集っていた。ザンジバールとしての処女作品『自滅しなさいDétruisez-vous』を監督したセルジュ・バールも、『記憶すべきマリー』に映画制作への情熱を掻立てられたのよ。

ーーどうやってダニエル・ポムルールと知り合ったんでしょうか? 彼が俳優として出演し、あなたが編集を担当した、ロメール『コレクションする女』を介してだったんでしょうか?

JRいいえ、そのずっと前からダニエルのことは知っていたのよ。私の彼氏だったパトリスはダニエルと一緒にオデオンのカフェでフリッパーをしていたの。ダニエルはカッコ良かったんだけど、気難しい人だったわ。アンチ絵画の画家、ミシェル・パルエンティーともすごく仲が良かったわね。同じ画家であるオリヴィエ・モセットとは68年に知り合った。私たちはボザールの近くにある「パレット Palette」 によく集まったわ。彼は芸術とともに政治的なマニフェストを掲げることを欲望していた。詩人であるジャン=ジャック・ラベルとともに“ハプニング”を実践していたこともあった。フレデリック・パルドも参加していた。本当に熱っぽい時代だった。ダニエルは、マーロン・ブランドとも親しくて、ロサンゼルスの彼の自宅に連れてってもらった思い出がある。私がシルヴィナ(・ボワソナ)の話をした時、ダニエルはそれなら自分も映画を撮りたいといい、彼女に30000ドルを要求した。68年に撮られた『ヴィット Vite』のキャメラマンを担当したのは私の彼、パトリスだった。彼らはマラケシュの砂漠に行った。ダニエルはNASAからキャメラのレンズを買ったの。だからあの驚くべき月のクローズアップを撮ることが出来たのよ。パトリスは『ヴィット Vite』の撮影すべてを担当した。これはまさに、アンチフィルムだった。主演もしているダニエルはレンズに向って痰を吐き続ける。彼はすべてに“反対”した。彼はそれをテロリズムの画家として実現しようとしたの。すべての演出はインプロヴィゼーションだったわね。当時、この作品はすぐに現像に出されることはなきて、長い間、ラボに残されたままになっていた。ダニエルですらその存在を忘れていたのよ(笑)。それからダニエルは、私がパリを離れてからもニューヨークによく私に会いに来てくれた。

ーーガレルの妻のキャロリーヌによれば、『灼熱の肌』でヴァンサン・マケーニュ演じる、アシルは、ダニエル・ポムルールをモデルとしているそうです。

セルジュ・バール作品撮影時のキャロリーヌ・ドゥ・バンデルヌ

JR見た目は似てないけど(笑)、俳優としての在り方は似ているわね。ダニエルもまさに“侵入者”で、いくつかの作品に出演していたけど、彼はつねに彼自身だった。その空間に馴染む俳優というより、彼の存在自体を映画作家たちは必要としたのね。ゴダールはマルク・Oの作品を見て、ダニエルを発見したのよ。実はダニエルを起用したのは、ロメールじゃないの。バルベが推薦したのよ。

ーー1964年の『コレクションする女』はそれ以後のロメール作品とは異質のように思えます。後にザンジバールのメンバーとなる、ダニエル・ポムルール、アラン・ジュフロワとのコラボレーションですね。

JRこの作品はその後のロメールを考えるとたしかにちょっと変よね。誘惑者としての女性の存在はもちろんあるけど、冒頭は、ダニエルとアランの“空虚さ vite”を巡る会話からはじまり、ほとんどが男たちのやり取りで成り立っている。ダニエルの撮った『Vite』は、『コレクションする女』における議論へのある種の返答だと思うわ。

ーーあなたの監督作品である『Deux fois』も『Vite』のように、ほとんどインプロヴィゼーションで撮られた作品なんでしょうか? 

JRそうよ。『Deux fois』にはシナリオはなかった。私は、パリの外で映画を撮りたいと思っていた。大好きだったバルセロナでね。ある日、私は彼氏と別れることを決めたの。彼が私を裏切ったから、私も同じようにしようと思ったのね(笑) シルヴィナは必要な資金はいくらかと聞いてきた。だいたいの50000ユーロと見積もりはしたけど、それ以外のことは何も考えてなかったわ。完璧なユートピアの中で撮られた作品だった。私と一緒にちょっとした物語を語るための俳優を偶然見つけた。でも、現地で見つけたスペイン人のキャメラマンは私のしたいことを何も理解できなかったのよ!シネフィルじゃなかったし。私は急いでフィリップ(・ガレル)に電話して、いいキャメラマンをよこすように話した。駆けつけてくれたのは、『記憶すべきマリー』で撮影を担当した素晴らしいキャメラマン、アンドレ・ウェインフェルドだった。

ーージャン・ユスターシュの『不愉快な話』の主題、繰り返しというテーマは、『Deux Fois』にとても近いところにあるような気がします。

JRユスターシュのことは良く知っているわ。彼は私たちの作品(ザンジバール作品)にとても興味を持っていた。実験的な作品に引かれていたのね。でも彼が私の作品を見ていたかどうかは知らないの。ある時代に同時多発的に似た作品が登場することはそんなに珍しいことじゃないわ。たとえば、シャンタル・アケルマンの『ブリュッセル1080、コルメス3番街のジャンヌ・ディエルマン Jeanne Dielman, 23 Quai de Commerce, 1080 Bruxelles』を見たとき、彼女が『Deux fois』をコピーしたと思ったもの(笑)。

ーー当時、女性監督は珍しかったのではないですか?

JRヌーヴェルヴァーグにはアニエス・ヴァルダがいたけど、女性が映画を撮ることは難しかったと思う。ザンジバールの庇護者であったシルヴィナは進歩的な女性だった。映画を撮るように私に勧めてくれたのは彼女だったけど、彼女自身も作品を制作した。シルヴィナは、70年代以後ザンジバールを捨てて、フェミニストとしての活動をはじめたわ。そしてレズビアンになったの(笑)。ビックリしたわよ。 ところで、どうして女性の編集技師が多いか知ってるかしら? 私がアメリカに到着した時、デデ・アレンを除けば、女性の編集技師は存在しなかったの。彼女はアーサー・ペンやロバート・ロッセン、エリア・カザンと仕事をしていた。でも、ほとんど男の世界だったのよ! じゃあ、どうしてフランスには女性の編集技師が多いのか? それは戦争があったことと、キャメラがとても重かったことが関係しているわね。私たちの力じゃ到底無理なのよ! 編集は、女性の小さな手でも出来る仕事ね。だから編集を担当することになったんだと思うわ。それにしても、本当に今でも映画の世界には女性が希少ね。たとえば、批評家なんて男ばっかりじゃない! これはスキャンダルよ! 私は最近、ピップ・チョードロフの、アヴァンギャルドに関する作品『Free Radicals』の編集を手伝ったの。アメリカ、オーストラリア、イギリス、日本…多くの作家が出演、あるいは取り上げられていたにも関わらず、女性が一人もいなかったのよ。シャーリー・クラークも、マヤ・デレンですらね! 信じられない。

ーーザンジバールの作品における共通点はなんだと思いますか?

JR私たちはお互いに影響を受けあっていたと思う。ザンジバールは、ジガ・ヴェルトフ集団のように政治的ではなかった。オリヴィエ・モセットの家で、彼がスーパー8で撮影したアンディウォーホルのファクトリーの映像を一緒に見た、一つのグループだったのよ。私たちは、長い髪で、エクセントリックな服装をしている若者だった。当時、素晴らしい“場”が存在した。それがイエールの映画祭だった。まだ今のように映画祭があまりなかった時代ね。みんな、そこでフィリップを発見し、ザンジバールのメンバーは知り合った。そうね、今はそういう場が、そういう出会いが失われてしまっているのかもしれないわね。偉大な庇護者であったシルビアのおかげで、私たちは完全なユートピアの中で映画制作をすることが出来た。そう、私たちの作品の共通点、それは自由ね。誰もが、喜びのために映画を作れる自由、それが存在した最後の場所がザンジバールだったのかもしれない。

聞き手・構成=槻舘南菜子