自由の獲得

――このたびのオーディトリウムでの特集上映「濱口竜介レトロスペクティヴ ハマグチ!ハマグチ!ハマグチ!」が開催されることになった経緯からお話を伺えますか?

濱口そもそもは(東京藝大)大学院の先輩でもあるオーディトリウム渋谷のプログラム・ディレクター、杉原永純さんに「そろそろ作品溜まってるでしょ、特集上映やりませんか」と去年の夏くらいから言われていたんです。でもなかなか踏ん切りがつかなくかったんですけど、同じ時期にインディペンデント映画配信サイト「LOAD SHOW」を企画している岡本英之くんも杉原さんと連絡を取っていて、ある日「全部つながったよ」って言われたんですね。「LOAD SHOW」でネット配信をする機会とこのレトロスペクティヴを、ひとつの流れとしてやれたら面白いんじゃないかと提案されました。オーディトリウム渋谷っていう映画館は今、何か面白いことをやってやろうっていう映画館じゃないですか。 ひとりだと心許ないんですが、応援もあるし、今までの上映形態にこだわらずにやってくれるということであれば、やはり作品上映の機会がないことをスタッフやキャストにも申し訳なく思う気持ちもあったので、よし、やろうと肚をくくりました。

――昨年の震災の後、濱口監督は東京から仙台に活動拠点を移しています。その後に発表されることとなったふたつの新作、『なみのおと』(11)と『親密さ』(12)は、これまでの濱口竜介という映画作家を知るものにとって実に驚くべき作品でした。率直にお伺いしたいのは、今、どんなことを濱口監督が考えているのか、ということです。

濱口 『PASSION』(08)を撮った後、その当時はごくごく単純に、これから自分も商業映画とか撮るんじゃないか、何か新しいステージがそこに待っているんじゃないかしらと素朴に思っていたんですが、そう簡単にはものごとは進まなかったですね。そんななかで『永遠に君を愛す』(09)という作品を撮ったんです。『PASSION』と同じように自分で脚本を書いて撮るというサイクルには飽き飽きしていたので、同じ映画監督の渡辺裕子さんに脚本を書いてもらいました。映画自体は課題が残るところがありましたけど、それ以上にそれ以降の活動のヒントはあったし、この映画を撮ったことがその後の活動への明確な分岐点になった気がします。

――そのヒントとは、具体的にどういうものだったんでしょうか。

『永遠に君を愛す』

濱口 1つは、他者を積極的に迎え入れる、ということですね。『PASSION』のときから、役者さんのやろうとしていることを積極的に受け入れたいという気持ちはあったんです。『永遠に君を愛す』の頃は、そこまで自覚的ではなかったけど、その態度を製作全体に持ち込みたい、という思いはありました。実際、他の人の書いた脚本を撮ることで、風通しが良くなったようにすごく感じたんですね。自分じゃ絶対撮らないような要素が必然として入ってくるということもあるし、やっぱりどこか自分にわからないものを撮るっていうことがすごく必要なんだな、と思いました。ただ、わからないというだけではもちろん上手くいかないところもあって、この映画には河井青葉さんや岡部尚くん、杉山彦々さんといった気心の知れている役者さんたちに出てもらったんですが、短期間の撮影ということもあって、僕も含めてみんな必ずしも登場人物の気持ちを理解していない状態で撮影に臨んだところはある気がします。ただ当時、あまりそれが問題だとは思わなかったんです。必ずしも何が起きるか理解していない、ということはいつものことだったので、役者さんには「脚本にある通りに台詞を言ってください。そうしたら映画になるはずですから」という感じで演出したんです。ただ、このときは全体的に少しチグハグ感が残った気もしてるんですね。

僕はある時期から、いわゆる指示を明確に出すタイプの演出というものはほとんどしてません。脚本を渡して、「この台詞を言ってくれれば、どう動いてもいい」というのが基本的なスタンスです。『永遠に君を愛す』の撮影を通じて、こういう演出のスタイルを続けて行くには、最低限、役者さんが何かこれからやろうとしていることの「核」を掴んでいること、そういう確信を役者さん自身が持てる環境を用意することがまず必要なんだと思いました。思い返せば、『PASSION』のときにはそうやって脚本上の台詞を辿っていくことで、役者さん自身が脚本を理解していくような流れが確実にありました。

今回のレトロスペクティヴでは上映しないのですが、『PASSION』の前に撮った『SOLARIS』(07)という映画では、役者さんに「フレームのここに立って、あちらを向いて、何拍置いてから台詞言ってください」というようなガチガチの演出をしていて、結果できたものは悪い出来だとは思ってないんですが、どこか自分が映画に求めているものがなかった。自分の望んでいる映画のかたちにたどり着かなかった気がするんですね。それが出てくるためにはそれまでのやり方を捨てて、変わっていかないといけない、と思って撮ったのが『PASSION』です。そこでは何かが見えたような気がした。何とか言葉にするとすれば「自由」ということです。ただ、『永遠に君を愛す』をやってみたら、案外うまくいかなかった。ただただ「自由にやって下さい」と言うだけでは、役者さんにとって不十分なんですよね。本当は役者さんが自分で自由を獲得しなくちゃならないんだけど、それを演出側が与えることができると思う傲慢な気持ちがあったように思います。

『THE DEPTHS』

――その後、日韓共作というかたちで撮られた『THE DEPTHS』(10)では、そういったスタイルの問題はどう扱われたのでしょうか。

濱口企画の話を頂いた時点では結構不安でした。でも、やっぱり自分のものじゃないものを取り入れることにすごく惹かれたんですよ。韓国映画なんてその最たるものに思えました。実際、『THE DEPTHS』では日韓の、具体的にはキャメラマンと僕の間の映画観の違いというものが、ショットの中に混濁して残っている気がします。 制作体制自体が不思議なもので、日本のプロの助監督に入ってもらったりと現場の運営は日本のプロ式なんだけど、スタッフは藝大の言わばアマチュアで構成されていて、でもスタッフのなかのトップであるキャメラマンには韓国式のやり方を持っている人が入っていた。その折衷案として、当初絵コンテが採用されました。韓国映画では、基本的には絵コンテを描いて、そのイメージをとにかく現実化するべく撮影する。絵コンテを採用するなんて、自由からほど遠い気もしましたが、自由っていうのは、単に動きが自由であるということとは少し違う気がしていたこともあって、プリプロの段階では、僕も結構乗り気でやっていた気がします。 しかしいざ撮影となると、どうしても現場で絵コンテ通りではなく撮り方を変えたい局面があるんだけど、全然対応が効かない。そうして、だんだん絵コンテが現場から消えていく過程というのが『THE DEPTHS』にはあった。絵コンテのように撮ることを目指すんじゃなくって、リハーサルで生まれた役者の動きに何とかキャメラが対応して行くような、そういう主従関係の逆転みたいなものが『THE DEPTHS』の現場では起きてます。

こういうやり方をするとき問題になるのは、スタッフの側が無意識に発している役者への抑圧です。韓国の役者さんはその抑圧ありきでやっていて、どうやって絵コンテ的なイメージの中に自分がハマっていくかというやり方を取るのですが、単純に僕がやりたいものはそうじゃなかった。役者さんにかかっているスタッフからの抑圧というものを外す必要があったし、それ以上に役者さんが自分でかけている抑圧を外す必要があった。

――男娼を演じている石田法嗣さんはまさしく、そのようなあり方を地でいっている登場人物を演じられていますね。本当に素晴らしかった。

濱口いいでしょう(笑)。この映画、最初はどちらかというと韓国ペースで始まったんです。絵コンテのこともそうだし、キム・ミンジュンさんはそういうやり方に慣れている。確かに「ああ、何カット撮ってもぴったり同じだ」ということはあったんですが、だんだんその絵コンテの通りに僕が撮らないということにキャメラマンが気づいて、そうすると現場でのディスカッションの時間が多くなり、あるとき絵コンテに撮影がまったく追いつかなくなった。で、結局それを捨てたのが撮影の中盤くらいで、ちょうど石田くんが髪型を変え始めるくらいだったんです。『THE DEPTHS』はある種ドキュメンタリー的に実際に金髪にしたり坊主にしたりという変化を順番に撮っていかなければいけない映画だったんです。どんどん1カットで撮るようになってきて、ミンジュンさんが怪訝に思って「あれ? 切り返しで俺の顔撮らないの?」みたいな反応をすることもありました。そういう現場を石田くんが救ってくれた気がしますね。石田くんだって別に、不安定な役者さんではまったくなくて同じ演技を繰り返せる人なんですが、感性が鋭いってこういうことだなと思ったんですけど、あるときに、しかも必要なときにふっとリミットを外してありきたりではない演技ができるんですね。石田くんが本当にどんどん良くなっていって、そこが絵コンテのない現場スタッフのまとまりどころになった。役者にとってもそうで、最初は良くも悪くも何度やっても変わらなかったミンジュンさんが、石田くんがどんどん変わっていったことに感応するように、すごく感情を露にするようになった。それは物語全体とも呼応した変化で、そのことによって『THE DEPTHS』は最終的にすごくエモーションの振り幅を獲得できた気がするんです。

――石田さんは本当にこの映画を通して歳を重ねたように思います。ミンジュンさんの話について言えば、本当に役者さんってほかの人の演技に影響を受けて、そこでガラッとそこで変わる瞬間があるんだなと。本当に有機的な世界ですね。

濱口現場にいると、普通の生活以上に影響力の網の目の中にいるってビンビン感じますね。それぞれが影響力を発している。影響を受け易い人もそうでない人もいます。でも基本的には、役者さんってものすごい影響を受ける存在なんだと思うんですよね。監督や演出家は最終的にどうなるかを知ってるはずだから、役者はそれに従うんだという、ある種の信仰みたいなものがあって、現場では役者だけでなくて、時には演出家もその考えに支配されている。ただ、それは演出と役者っていう関係の宿命として、演出側はそのことに細心の注意を払う必要があると思っています。演出側の影響力が強いままだと役者さん同士の影響力は極端に弱まってしまう。

その流れで言えば、演出家が正解を持っているという思い込みをどれだけ減らせるかが、『PASSION』以降に僕が腐心しているところだという気がします。実際のところ、演出家は映画がどんなふうに流れていくか、役者よりもよく知っているかと言うとそうじゃない、というのが僕の実感です。役者さんには、こちらも何も知らないということをよくわかってもらう必要がある。ただ、「これから皆さんがとっても素晴らしいことを起こすことだけは、僕は知っています」というスタンスを示すことはします。

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