窓はいつも開け放たれている

荒井南

 亡くなった人は私がどう見えているのだろうか。もうそこにはいない人がどのようにみつめていても、私たちには分かりようもない。『春原さんのうた』は、この途方もない問いを静かに考察する時間を与えてくれる。120分というランニングタイムはあっという間に過ぎた。それはこの映画が、冗長さとはほど遠い時間を内包していることの表れである。人が生きながらに感じる、それぞれの時間。それにぴたりと寄り添っている。人物たちの心の機微は饒舌に語られないが、エピソードの端々からこぼれおちる余韻は、この映画がいかに多弁であるかを物語っている。これは他者への想像力によって作られたフィルムだ。

 この映画には、カメラが中心的に追う沙知という女性がいるが、彼女を主人公というありきたりな言葉で表現したくはない。杉田協士と飯岡幸子カメラマンは、カメラを被写体との距離を明確には決めず、映っていないところも加味したうえで回しており、その中にたまたま登場人物が映り込むという印象である。時として登場人物同士がショットの中で重なり合い、表情が見えなくなる瞬間もある。カメラが与えてくれる喜ばしい偶然を享受するかのようである。杉田は前作『ひかりの歌』のインタビューで、「映画の撮影とは、まず出来事を起こし、その出来事に続くようにカメラで映しとる撮影方法を取っている」と話した。杉田協士という映画作家の、しなやかな観察眼のもとに、ふいに出来事が立ち現れる。たとえば、沙知がアイスを食べるシーンで、口に運ぶ瞬間をスマホのカメラに収める女性がマスクを外す瞬間は、予想だにしないものだった。こうした意外さを目にしたときのときめきに似たような気持ちは何にも代え難い。
 映画は現実とフィクションのあわいを浮遊するように進んでいく。「転居先不明の判を見つめつつ春原さんの吹くリコーダー」の沙知はパートナーを何らかの形で(おそらくは永遠に)失っているのだが、その相手が女性であることは、沙知の周囲の誰も気に留めておらず、ほとんど前景化されていない。本作をレズビアン映画として明確にジャンルの定義をすることに些かためらいがあるのは、あまりに自然で、現実に未だ存在する社会的軋轢すらも感じられないからなのだ。その当たり前さは、杉田による何らかの態度表明でもあるのだろうが、無限の世界観と、行間からいくらでも匂い立つ詩を内包する短歌という芸術を題材にしたことで、物語そのものにあえて作り込まれていないあいまいさが生まれたと見てもいいのかもしれない。スタンダードサイズにフレーミングされた空間は、こうしてフィクションとしての強度を保つ。音響監督である黄永昌の音響では、川のせせらぎのような現場の音もきちんととらえられながら、それとシームレスにスカンク/SKANKによる電子的楽曲も組み込まれていて、とするとどこか遠いところへ来たような錯覚をおぼえる。このことは沙知が道案内をするシーンで顕著だったが、目にしている光景はたしかにカフェのすぐ外であるはずなのに、まるで違う場所を見ているような現実感覚のなさに陥ってしまう。しかし、そのズレは何か「映画を観ている」という手応えとして私たちを引き込むものがあるのだ。そうしたリアリティから浮く演出がありながら、本作が唯一現実と分かち難く結びついてしまうのが、マスクや頻繁なうがい・手洗いの描写である。映画という世界は現実に向かっていて、そのまま変容したことを表すことが、現時点で映画作家としてのアクチュアルな姿勢だと示したいのだろう。これが杉田協士のバランス感覚の証左なのかもしれない。
 多くが沙知のショットにはなるが、人物たちはフレームで隔てられた空間を身体や視線が往還する。キッチンと居室の間にある四角い仕切り。スマートフォンやポラロイドカメラ。特に沙知は、相対する者の持つカメラに姿を幾度もフレーミングされ、終盤には自身が働くカフェの手製スクリーンに映し出される。先に述べた通り、本作はカメラを置いたところから映ったものがショットとして連なることで作品として完成しているわけで、作り手が意識的に映しているわけではないのだろう。しかし、意図せず画に映り込んでしまうことによって、『春原さんのうた』という映画それ自体のフレームと、劇中に施されるフレームの二重化が起こるのだ。
 映画の中でも、カフェの窓や沙知の家の窓などが印象的に使われており、『春原さんのうた』はいわば「窓/フレームの映画」と言っても良い。そのフレームはしかし、人物同士を隔てる壁ではない。少々面喰ってしまうほどの親戚の世話焼き具合を、沙知はすんなりと受け入れている。いや彼らだけではなく、たとえばカフェの店主の息子から食事風景を撮らせてほしいとか、客のひとりとして来ている女性が演劇台本の読み合わせに付き合ってほしいとか、葬式帰りの二人客に習字で一筆書いてほしいとか、そうした他者からの唐突な要望も、沙知は引き受けている。日髙の以前のパートナーらしき幸子の突然の訪問も拒まない。他者と沙知の境界のあいまいさ。劇中で窓/フレームが意識されることによって、私たちはそこを何かが通り抜けていく瞬間を目撃する。沙知が日髙から譲り受けるアパートの一室は、風がよく通り抜けることが利点という触れ込みであるが、沙知と周囲の人間との関係は、感情の通気性の良さと言い換えてもいいのかもしれない。無論、それは沙知が深い喪失を経験したことも無関係ではない。おじの剛やおばの妙子だけでなく、入れ替わり立ち替わり、知人も他人も含めて沙知のもとを訪れるのは、常に誰かが「見ている」という態度を示すことが、悲しみの底にいる人を救い上げる唯一の方法だからだ。そして『春原さんのうた』には、その失われた者の視点も確実に存在している。カフェの外で道に迷った人を沙知が案内するとき。沙知が剛とバイクに二人乗りしているとき。後ろから彼女たちをとらえるカメラは、その失われた誰かによる眼差しに重なり、希望が差し込む。いつでもこうして、この角度で、この姿勢で、あなたを見ているのだと。

 失われた人へ手紙を送り、読まれないまま返ってくるのを待つということは、喪失の実感を否が応でも手にすることと同じである。しかし沙知はそれを恐れず、常に自身の窓を開放することによって失われた人との時間を埋めていくのだ。この2年間、コロナ禍で不在と喪失を繰り返してきた私たちに、杉田協士は癒しのための空間を作り上げてくれた。不条理な現実に向かって果敢に船出を試みていくための一本になり得る作品である。

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