うたを見ること

隈元博樹

さっちゃん 青い服 笑った顔 似合います 俺は知ってます そのやさしさを
さっちゃん 朝靄も 夕暮れも 似合います 俺は知ってます そのさみしさを

 これは沙知(荒木知佳)の自宅を訪れた幸子(能島瑞穂)が、ミニギターを抱えて歌う「幸子の歌」の歌詞(作詞:杉田協士、作曲:スカンク/SKANK)の一部である。このうたは彼女のパートナーであった日髙(日髙啓介)によってつくられたものであり、幸子は沙知のリクエストに応じる形で歌うことになる。しかし現在は、彼の知人であった沙知がこの家に住んでおり、宮崎へ帰郷した「俺」である日髙の姿はない。どのタイミングで別れてしまったのかは定かでないが、日髙とともに過ごしたであろうこの家で、彼からもらったギターを不慣れに爪弾きながら、青い服を着た「さっちゃん」は意を決したように歌う。そんな「幸子の歌」を通じて日髙と幸子との時間が提示されたとき、沙知も幸子に合わせてその歌詞とメロディを真似て口ずさむ。歌い終えたふたりは笑顔で見つめ合い、この場面は幕を閉じる。
『春原さんのうた』、いや思えば、杉田協士の映画にはいくつもの「うた」が存在する。当然ながら『ひとつの歌』(2011)、『ひかりの歌』(2017)といったタイトルはもちろんだが、劇伴から原作の短歌、また既成曲に至るまで、うたはさまざまな場面において散りばめられている。しかし最も重要なのは、多くのうたがそこにあることではない。ある特定の人物たちの個々の記憶として位置付けられていたものが、やがて第三者である誰かの記憶に還元されていくためのうたであるということだ。例えば『ひとつの歌』において、電車の人身事故で亡くなった母親の妙子(天光眞弓)がいつも口ずさんでいたうたは、ラストシーンの娘の桐子(石坂友里)を通じて歌われる。彼女の目の前でそれを聴いた剛(金子岳憲)は、妙子が亡くなる直前にポラロイドカメラで彼女の写真を撮っており、その時もこのうたを歌っていたのだと桐子に告げる。つまり母親と娘の記憶を繋ぐためのうたは、剛の記憶さえも喚起させることになるのだ(英語題のタイトル「A Song I Remember」とは、まさにそのことを物語っている)。また『ひかりの歌』の中でとりわけ顕著なのは、第4章「100円の傘を通してこの街の看板すべてぼんやり光る」において、失踪していた夫の「かっちゃん」こと勝彦(松本勝)が再会を果たした妻の幸子(並木愛枝)へと歌うブルース「あめのうた」(作詞:杉田協士、作曲:スカンク/SKANK)だ。馴染みの定食屋に集う皆の前で披露されたあと、このうたは次のドライブ中の車内の場面にてもう一度歌われることになる。ふたりの過去をともに遡りながら、助手席の幸子は「教えて、さっきの歌。わたし歌うまいんだよ」と運転席のかっちゃんに請い、幸子は彼の声と歌詞に倣って歌い始める。しかしその歌詞がかつての彼女へ向けたものであることを悟ったとき、幸子は戸惑い、歌うことを止めてしまう。なぜならそれは、あの時の彼女へ向けた彼のうたが、あの時ではない今の彼女へと響いたからだ。つまりかっちゃんのうたとは、過去の幸子への想いを歌ったうたであり、そのうたを現在のもうひとりの幸子が口ずさむことで、言わば彼女は第三者としての記憶を新たに呼び起こすことになる。また「あめのうた」は、デュエットという形で、雨の中を歩いていくふたりのラストシーンにおいても流れる。定食屋、車内、そして雨の中といった3つの場面を通して、うたはふたりの記憶を呼び起こし、再生させるのだ。
 このように杉田が描く映画の中の「うた」とは、単にうたそのものが存在しているのではなく、誰かと誰かとの記憶の一部として繋がれていたものが、そこに親密さを携えた目の前の誰かにとっての記憶となる瞬間をささやかに掬い取る。だから『春原さんのうた』の「幸子の歌」は、日髙と幸子との記憶の渦に留まることなく、目の前の沙知が耳にし、口にすることで彼女自身のうたとなり、同時に彼女の記憶や想像を呼び起こす。つまりはAとBとを関係づけるうたから、AとBを知るC(もしくはA”)のうたへと変わっていくことを示唆している。ただし『春原さんのうた』に引き寄せられるのは、それだけではない。うたが導く効果と同じように、個々の関係性を記憶する写真や映像だったものが、やがて個々の関係性を存ずる多数の誰かの元へと一気に拡がっていく点にあるからだ。
 何かを撮ることは、『ひとつの歌』においても繰り返されている。つねにポラロイドカメラを持ち歩く剛は、歩いている時も、またビッグスクーターに跨がって信号を待っている時も、ふと何かを思いついたようにしてあらゆる場所や人々へ向けてシャッターを切る。やがて彼が撮った写真は、シャッター街でストリートダンスを踊る若者たち、そして写真屋で働く桐子との交流を通して、言わば自分とは別の誰かに見せるものとなっていく。また撮られたものを辿っていくことは、『ひかりの歌』の第3章「始発待つ光のなかでピーナツは未来の車みたいなかたち」において、亡くなった父親が撮影した写真の場所を辿る雪子(笠島智)の道程からも明瞭だ。剛や雪子は、撮影者もしくはその代理人として目の前の記憶を焼き付けるとともに、残された記憶を辿っていく。しかし『春原さんのうた』が『ひとつの歌』や『ひかりの歌』とやや異なるのは、記録として撮られたものを記憶するだけでなく、撮られた写真や動画そのものが過去よりも先の、「今ここにいる」ことの証明を前提として撮られているように感じられるからだ。沙知は時に大学の課題として、また時に近況報告を目的として写真や動画へと収められる。食事の様子や習字の光景をじっと捉える学生、元気な姿を他の仲間へ知らせる元職場の同僚は、今ここに生きている沙知の姿をスマートフォンで撮っていく。また『春原さんのうた』では、道案内の中で出会った女性から「自分を撮ってほしい」とポラロイドカメラを渡される沙知の姿も見受けられる。加えて本作は、母親らしき女性が画面を覆う桜をバックに、ふたりの子どもをスマートフォンで写真を撮っているファーストショットから始まっていたことを思い出したい。それは何かを撮ることが単に撮影者の主体に委ねられているのではなく、ここではあくまで撮影される側(沙知、道案内の中で出会った女性、桜)の存在証明として写真や映像があるということなのだろう。そのことは、カフェ「キノコヤ」の2階の窓に映し出された沙知の姿を、皆で静かに見つめる場面にも繋がっていく。  キノコヤの「窓シアター」の場面は、これまで徹底して自分の撮られた姿を拒んでいた沙知が、初めて自分の生きている姿と出会う瞬間でもある。つまりカメラを介して導かれた沙知の生の証明は、窓に映されることで個々の記憶を呼び起こすだけでなく、沙知を知る複数の人々とそれを見ることで彼女の新たな生の証明へと結実する。個々の記憶として存在していたうたが、その記憶と親密な第三者に歌われることでひとつの記憶を形成していくように、沙知を知っている人々は、本人と一緒に窓に映る彼女の姿を見つめ続ける。彼女が今ここに生きていることを決定付ける、白眉な瞬間だと言えるだろう。
 うたはともに歌われることで、また写真や映像はともに見られることで誰かの記憶を呼び覚まし、同時に誰かの生の証明を決定付ける。このように『春原さんのうた』を巡るうた、写真、映像がいずれも交換可能な記録と記憶の装置であるならば、最後にうたを「見る」ことにも触れたいと思う。原作短歌である東直子の『春原さんのリコーダー』の表題歌「転居先不明の判を見つつ春原さんの吹くリコーダー」の裏には、単行本と文庫本のいずれの版にも最後の一首が印刷されている。だからどの体裁であれ、『春原さんのリコーダー』を読むならば、最後の二首となる表から裏の一首へと向かうために、私たちは手元の1ページをめくらなければならない。当然ながら表の一首と裏の一首のあいだには行間が跨がり、他の首以上にその1ページをめくる特別な行為の中で、目の前の行間に注視することとなるだろう。その時二首に書かれた言葉や意味の他に、両者を結びつけるための何かが行間に眠っているのかもしれない。そのような思考を巡らせたならば、読み手の私たちは、ともにうたを歌い、ともに写真や映像を見つめた『春原さんのうた』の登場人物にちがいない。うたは歌われるだけでなく、また読まれるだけでもない。その行間にあるべき「うた」を見ることで、私たちの記憶や生の証明となるのではないかと思うのだ。

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