「ヴェルマ、ヴェルマ、ヴェルマ」三宅唱

エンドロールがはじまるや否や「もう1度みたい!」と強烈に思う。シャニン・ソサモン演じるローレル・グラハム=ヴェルマ・デュランがとにかく魅力的でたまらない。彼女を通して、わたしたちは「演技をみる」「俳優をみる」ことが即ち「映画をみる」ことになるような時間をたしかに経験する。ただただ純粋に、彼女をもう1度みたい。

「キャスティングこそ映画の命」と、主役のヴェルマ役を決められずにいる若い映画監督。ヴェルマとは、映画化の題材とする事件の終わりに自殺した女の名だ。ある日、監督がオーディション用のDVD素材をみながら思わず一言「わお、驚いたな。まさにヴェルマだ」。モニター画面には、ゆっくりと顔をあげ鏡に映った自分をみつめる女。どうやら無名の女優らしい。すぐさま、彼女に会いにローマへ飛ぶ監督。

ふたりの出会いのシーンがいい。カフェで待ち合わせをし、はじめまして、とハグ。
 「先に話をきいて。実はわたし、女優じゃないの」
 「そうか。でも……君はヴェルマそのものだ」
 「ちっともわかってないのね! 演技なんてできないわ」
  と、はにかんだ顔を両手で隠してみせる、そのあまりにキュートな仕草。
  案の定、ぼうと彼女をみつめる監督。でもすぐに姿勢を正してこうキメる、
 「こんな話がある。サミュエル・フラーは俳優にこう助言したんだ。たった一言、……ってね」

カット変わって音楽フェードイン、ローマの名跡観光するふたり、アイスを食べるふたり、路地を歩くふたり、カプチーノの砂糖を嘗めるふたり。日が暮れ、そっと肩を寄せ合うふたり。そのバックに、問答無用の噴水&光の陰影。  

そもそもヴェルマという名前がいい。声に出して発音したい名前、ヴェルマ(チャンドラー『さらば愛しき女よ』で、大鹿マロイが惚れ込んだ女の名前もヴェルマだ)。

そして、ヴェルマがキャメラの前ではじめて演じるシーン。トンネルの入り口を背に、逆光で捉えられた立ち姿がいい。トンネルに反響する、ささやくような声の震えがいい。

あるいは、撮影後の晩にヴェルマが監督とベッドで寝そべりながら『レディ・イブ』(41、プレストン・スタージェス)を一緒にみているシーン(そんなシチュエーションで、このセレクト……)。エンドマークが出た瞬間、やっぱ傑作だぜ……と呟く彼を、正しく茶化す彼女のスマートな戯けっぷり、その若々しさがいい。そうしてまんまと惚れこんでいく監督の間のヌケ方が、より一層ヴェルマの軽やかさを引き立てる。あくる晩、また別の映画(このセレクト……)を前にヴェルマの頬を濡らす涙。

あるいは、カットをかけた監督が大満足でその場を引き上げようとするとき、もう一度やりたいの、とヴェルマが主張するシーン。彼女みずからが咄嗟に動いたような、要するにまるでインプロヴィゼーションのような不意打ちがいい。彼女の手の動きに誰もが足をとめる、ヴェルマがつくったそんな時間がいい。

あるいは、ヴェルマが共演の俳優と読み合わせをするシーン。夕暮れのベランダで向かい合って腰を掛け、台本を手に同じ箇所を3度、声に出して練習するふたり。1度目はヴェルマのバックショット、2度目はヴェルマの正面アップ、3度目はふたりの切り返し。その度ごとに立ち現れる、ため息がでるほどフレッシュな変化。

(C) 2011 ROAD TO NOWHERE LLC

ヴェルマをみつめるのはしかし、「彼女こそヴェルマだ」と信じて疑わない映画監督の、愛に満ちた信頼だけではない。

いつのまにか監督の傍らに立つ怪しい男・保険調査員ブルーノが、原作者らしい女ナタリーが、彼女はいったい何者なのか?と追い続ける。「信頼の目」と「疑惑の目」の間で宙づりにされ、引き裂かれ、よりいっそう興味の対象へと駆り立てられるヴェルマ。

ようやく彼女が彼らの目を離れてやっとひとりになった姿を、なおも捉え続けようとするキャメラ。ひとりメイク室でふとどこかを静かにみつめ、やがて頭を抱えるヴェルマ。ひとりひっそりとした森の奥へと歩き、小さな墓の前に無言で花を沿えるヴェルマ……。演じること、ただそこに在ること、たったそれだけのはずのことが、かくも逃れがたいのかという非情。  

なんて理不尽なんだろう。1度でも『果てなき路』をみてしまったいま、「ヴェルマ!」と欲し続けるその果てしなさをあっさり無視していいのだろうか?

疑いを確信へと変えたブルーノの滑稽な末路。キャメラを手にした途端「その武器をおろせ!」と命じられてしまう映画監督の白けた諧謔。さらにその後の真相を追おうとするナタリーの無力。映画をみること、撮ることがこんなにも理不尽な経験であるとは、とも思うような陥穽に、行き場を失ったような感覚を覚える。いったいいつの間に、ひとりの魅力的な女優をみつめることの心地よさから遠く離れたところにやってきたのだろう? 死んだ女を再び何度も演じ続けること……シジフォスの不条理……フィルム・ノワールの形式で語られる呆気ない運命……映画という「業」=ROAD TO NOWHEREとして?……  

……などなど、一応日々映画を撮ろうと生きている者のひとりとして思いあたるようなこともあったりして、恥ずかしげもなくいろいろ考えたけれど、でも、一度は映画を撮ったことのある者として同時に、映画は映画でしかなかった、というようなかすかな実感を思い出しもした。  

実際、たとえ劇中の物語だとしても信じられないような、馬鹿げた、あまりにふざけた偶然がきっかけとなり、彼女はヴェルマになる。でも、彼女は「なんて理不尽なんだろう」などと決して言わず、ただひたすらにヴェルマで在り続けようとしたことを思い出そう。その理由や正しさの審級よりも、そんなヴェルマの健気な意思、野蛮な生々しさこそが画面に漲っていた。

「映画は映画でしかない、だからどうした、とどこかに決着するものではないが……」という今にも消えてなくなりそうな堂々巡りの中心に、ヴェルマが君臨していること。俳優という奇妙な存在へのおおらかな肯定が、こんなにも風とおしの良いものだとは。  

ヴェルマの顔に「風」があたり続けるその持続を、その「風」がふっと止む一瞬を、わたしたちは何度でもみることができてしまう、そのシンプルな可能性。そんな、ただひたすらに映画であろうとする映画がいままさに同時代にある。ここに、ヴェルマへの、『果てなき路』への、モンテ・ヘルマンへの、あまりにも抗いがたい強烈な感動がある。  

三宅唱(みやけ・しょう)

1984年札幌生まれ。映画美学校フィクション・コース修了。短編『スパイの舌』(08)が 第5回CO2エキシビジョン・オープンコンペ部門最優秀賞を受賞。2010年、同映画祭助成作品として初長編『やくたたず』を製作・監督。現在、新作長編の公開準備中。