『ミークス・カットオフ』

二井梓緒(映像制作会社勤務)

© 2010 by Thunderegg,LLC.

 ライカート作品の魅力は歩くカットだと思う。彼女の映し出す世界では、主人公たちが歩き、自分の足で移動することで映画が進んでいく。動くこと、つまり旅をすること、広義ではロードムービーとして作品が成り立つ。例えば、デビュー作である『リバー・オブ・グラス』は主人公の女性がひょんなことから―それは衝動的にといった方が良いかもしれないが―見知らぬ街へと逃避するロードムービで、『ウェンディ&ルーシー』は旅を共にしていた犬が行方不明になり、その犬(ルーシー)を見つけるまで動くことのできないロード・ムービーである。『オールド・ジョイ』も然り、歩くカットはどれも美しい。ライカート作品の多くがロードムービーであるが、どれもが違った意味合いを持って物語を織りなしていく。一貫しているのは歩くこと、そして行き先は不特定でも彼らには何らかの指針―それは独りよがりでもあるが―はあるはずなのだ。それを確信させるのが『ミークス・カットオフ』だろう。
 もとを辿れば、「ミーク・カットオフ」とは、1840年代、移民がオレゴンの砂漠を移動する際に、インディアンが入植者たちを攻撃するという噂が広がっていた。そこで、スティーブン・ミークという男が―彼は幌馬車隊のガイドとして生計を立てた罠猟師であり探検家で―オレゴン東部に精通している人物と見なされていた。ミークが移民たちに山脈を越えるための別のルートを提供したとき、多くの人が彼に従うことにしたという話がある。名付けられたのはそのままの「ミークの近道」というわけである。そこで本作は、ミークの案内に従いながら3組の移民の家族が旅をしていく物語である。彼らはミークに従うものの、一向に未開の砂漠を彷徨うばかりでだんだんとミークに不信感を抱いていく。高原の砂漠を横断し、山を目撃することさえできずにただただ歩き、そうしていくうちに、食料と水は不足していく。彼らはミークが本当は道を知らないのではないかと―あるいは故意に迷わせているのではないかと―疑い始め、どこかもわからない広大な土地で、彼らは疑心暗鬼になる。途中で捉える孤独なインディアンが果たして道標としての救世主になるのか否か…。

© 2010 by Thunderegg,LLC.

 もっともシンプルに考えるならば、これを映画化するならミークが主人公のはずだ。しかし、本作ではあえてミークの案内に従う女性が主人公となっている。そして、劇中では登場する9人の人物のうち、3人の女性だけがはっきりと映される。夫たちはもちろん、側から見れば胡散臭いミークや、しかめっ面の謎めいたインディアンでさえ、男性には決してフォーカスされないのだ。
 これはホークスやウェインなどを筆頭にしたいわゆる「西部劇」とはまた違った観点であるが、広野での土地の質感や埃っぽさは鮮明にスクリーンに映し出される。そもそもオープニングのワイドショットからこれは西部劇だと確信するに違いない。いっぽう、ライカートがこのフィルムに用いたスタンダード・サイズは、彼女たちのちっぽけな閉塞的で孤独な旅と、それとは裏腹の広大な土地のギャップを明らかにする。ライカートはこれまでの西部劇を一新しようとするのではなく、ただ淡々とその広大な平野に映る人々の小ささ―それは人間の非力さや無力さをあらわしているようにも思える―を捉えるのだ。女性が主人公になったからといって画がやさしくソフトになることはなく、過酷な様は淡々と続く。それはいわゆる「西部劇」として語られる男同士の暴力ではなく、旅、というよりも生きることそのものの単調な苦しさを提示してくるはずで、その中で、私たちにあのような場に確かに女性がいたことを強く思い起こさせてくれる作品である。そして、女は決して弱き者として表象されない。例えば主人公がインディアンの破れた靴を縫うとき、彼女は「貸をつくりたいの」という。従順で弱い立場にいるわけがなく、彼女は彼女なりの意志で、どう生き延びるのか。そのために働きかける。
 何よりこのような説話を、女性を主人公にして映画化する強さこそがライカートの魅力なのではないか。

ラストの解釈を観客に委ねるのもライカート作品の特徴だろう。彼女の作品の中で『ミークス・カットオフ』が異色な作品なのではなく、全ては一貫しているのだ。ライカート作品におけるロード・ムービーはハラハラドキドキの高揚感があるものではない。青春の煌びやかなものはなく、誰かと歩いていても一人でも、ただ淡々と、そこにある過酷さを映し出す。憂もあれば喜びもあり、しかしそんなこととは関係なくとにかく移動するのだ。移動するだけで映画は撮れるし、移動することこそ、進むことこそ、生きることなのかもしれない。
 何より私の愛すべきオレゴンの景色を何度でも捉えてくれるライカートに深い愛を!