『ナイトスリーパーズ ダム爆破計画』

結城秀勇

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 物語の序盤、ジョシュ(ジェシー・アイゼンバーグ)らが属する環境活動家コミュニティ内で、ドキュメンタリー映画の上映会がある。ジョシュやディーナ(ダコタ・ファニング)の表情は、彼らがその映画の内容に賛同していないことをすでに示しているが、上映後のQ&Aでの、それで私たちは結局なにをすればいいわけ?、というディーナの質問に上映作品の監督はこう答える。「ひとつの大きなプランは危険である。そうではなくて、小さなたくさんのプランが重要だ」と。
 『ナイトスリーパーズ ダム爆破計画』は「ひとつの大きなプラン」を巡る映画だ、ととりあえずは言うことができる。ジョシュら3人のアマチュアテロリストは、まるでメルヴィルの映画のプロフェッショナルたちのように完璧に「ダム爆破計画」という大きなプランを遂行する……、というわけにはまあいかないのだが、あれだけ事前の準備に不手際と予想外のアクシデントがあったわりには意外と着実に、プランは実行される。
 しかしそれではこの映画の半分しか語っていない。残りの半分は、彼らがプランを実行した後になにが残されるのかだ。すでに警告されていたように、もはやそこに「たくさんの小さなプラン」などない。だが、ここで興味深いのは、「ひとつの大きなプラン」が失敗したゆえにそうした事態をまねいたのか、あるいは成功したにもかかわらずこうした結果に至ったのかが、観客にはよくわからないことだろう。
 この作品では、ジョシュたちが「ダム爆破計画」に至った動機は、なにひとつ言語化されて語られることはない。それを推測する手がかりとなるのは、ジョシュの暮らす自給自足的なコミュニティのありようだったり、彼らが土や野菜や動物に手で触れ育てる様だったり、ディーナの働く北欧風なのか日本風なのかよくわからないエステスパだったり、ゴルフコースが乱造される中で立ち枯れてしまった水辺のかつての森だったりするのだろう。つまり、人がライカート作品について語るときに触れずにはいられない"風景"こそが彼らの動機そのものなのだ。にもかかわらず、この映画の後半、ジョシュたちが置かれる状況が「ひとつの大きなプラン」の成功のためなのか失敗によるのかがわからないと感じてしまうのは、彼らに動機がないからではなく、彼らと彼らの動機=風景との距離感がうまくつかめないからだ。  爆破計画の翌日から、見慣れた風景の中に車の走行音が響くたびに、ジョシュは身を固くして、手近な機械の動きを止め、自分を追うFBIのものかもしれない車のエンジン音に耳をすます。彼らの風景=動機はすべてが疑わしいものに変わる。物語は壊れたダムから溢れ出した水や、それによって影響を受けるかもしれない木々やそこに住む動物たちのほうには向かわず、ただただ「人」の周りを巡り始める。枯れた森も魚たちも映画のフレームからは締め出され、それまでずっと苦虫を噛み潰したような顔をしていたジョシュの震えや涙、またディーナの皮膚に広がっていく炎症として、風景はそれぞれの登場人物の内に折り畳まれていく。それはつまりひとつの大きなプランの敗北と、複数の小さなプランの勝利という帰結なのかもしれない。
 この映画の原題「Night Moves」とは、彼らがダム爆破に用いるレジャーボートの船名だが、この「夜遊び」という単語には物事の大小を測り損ねたジョシュたちへの皮肉が込められてもいるのだろう。だがその一方で、この映画は「夜が動く」というとんでもない大きなことを語ろうとしているのに、こんなことを書いている私はそれに気づいていないだけなのかもしれないという気もする。そんなことを思うのも、この映画に続く『ライフ・ゴーズ・オン 彼女たちの選択』でライカートは、距離の大小によってまったく見え方を変えるひとつの街を鮮明に描き出すからだし、また、『ナイトスリーパーズ』の爆破計画実行の前夜に、鹿の死体がたてる音があまりにもヤバかったからでもある。道にはみ出した轢かれた雌鹿ーー妊娠していて、お腹の中の胎児はまだ生きていて暖かいーーをジョシュが路面の外に引きずり出し、手を離した直後、画面からはよく見えない崖の斜面を鹿の死体は滑り落ちていく。その音は思ったよりもずっと長く響く。あの音を響かせた夜の大きさを、私は測りかねている。

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