『オールド・ジョイ』

梅本健司

 決定的なことが起こったのではないか。幼い頃から友人であるふたりの男たち、マークとカートの、山奥で演じられる、緊張間に満ち、どこかすり減ったような二日間の友情譚のなかで、そんな予感がよぎる瞬間がある。ひとりが、訪れた温泉の浴槽の縁から手を離すとき。もう一方が抱えた靴と赤いリュックを草むらに放るとき。このふたつの「手放す」身振りは、順序立てて見れば、なんら不思議なことはない自然な行為なのだが、しかし、ケリー・ライカートにとって、そんな動作こそが特権的なアクションとなる。  

© 2005,Lucy is My Darling,LLC.

 ライカートは「手放すこと」についての物語を編み、「手放す」という身振りによって作品を導いてきた。『リバー・オブ・グラス』は、警官の手元から一丁の拳銃が失われることによって、物語の幕が開き、それを拾った者が再び拳銃を投げ捨てることでそれを締めくくる。また、重要な場面で、この映画が、銃声によってある男の手からこぼれ落ちる懐中電灯を捉えていることも忘れてはならない。長編三作目『ウェンディ&ルーシー』は、ウェンディがそれまで所有していたものを放棄せざるを得なくなるのを撮った映画であるし、次作『ミークス・カットオフ』に至っては、馬車をつないだ縄を手放し、坂から落としてしまうという事態によって登場人物たちの目的も目的地も人間関係もより混沌とし始めるということを改めて強調する必要はないだろう。はたまた、ジェシー・アイゼンバーグがずっと握り締めていたものを手放す瞬間を見逃して、『ナイト・スリーパーズ ダム爆破計画』を見たといえるだろうか。以前ほど「手放す」というアクションそのものが捉えられるわけではないが、『ライフ・ゴーズ・オン 彼女たちの選択』における三つの女性に関するエピソードもなんらかの放棄という主題と無縁ではない。端的に三つのエピソードを要約するならば、まず、厄介な顧客をリリースしたい弁護士について。次に、草原に埋まった砂岩を、その土地を所有する老人から譲ってもらおうとする女性について。最後は、ネイティブ・アメリカンの女性が、モグリで入った夜間学校にて、授業を受け持つ弁護士に惹かれ、親密になろうとするも、その弁護士は自宅から学校までのあまりの遠さのために、彼女に断りもなくその任からは降りてしまうというものだ。「手放す」という主題において、ケリー・ライカートの登場人物たちは、ホームレスのウェンディからローラ・ダン演じる弁護士まで、決して持たざる者ではなく、なにかを持っている者たちだ。しかし、彼女/彼たちは、そのなにかを持ち続けることはできない。そのなにかは必ずその人々の手からは離れていく。

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 そういったライカートの関心ごとを経由して、『オールド・ジョイ』のふたつの「手放す」身振りを振り返ってみる必要があるが、その前にふたりの主人公について整理したい。マークとカートは全く別の生き方をしている。父親になることに不安を抱えるマークとおそらく家がない流浪のカート。映画序盤、目的地に向かう道中で、彼らは過去を振り返りながら、会っていなかった期間に起きた出来事についてそれぞれ会話を交わす。そこで、孤独というある種の自由を享受できるカートとそうではないマークとの関係はもう以前のものとは決定的に異なるのだろうということが、ふたりの反応から容易に察せられる。のちに、カートはそのことを実際に吐露することになるだろう(「君と友達でいたいのに何か壁がある」)。だが、車内においては、彼らはそれを表面化しないよう努めている。運転席と助手席のなんの変哲もない切り返しによって、そうした言い表せない人間関係の気まずさを演出してしまうのは見事としか言いようがない。
 さて、そんなふたりの「手放す」アクションだが、これらはともに終盤、連続したふたつのシーンのなかで行われる。まず、ひとつ目のシーンは、ふたりの顔を交互に映す断片的なショットとともに構成されているが、その連鎖に割って入るようにして、浴槽の縁から離れ、湯のなかに沈んでいくマークの手のクロースアップが挿入される。その離れていく手に結婚指輪がついていることによって、家庭生活から彼がひととき解放されたのだという象徴的な意味を読み取ることもできるかもしれない。だがそれよりも、彼が浴槽の縁から手を離し、肩をマッサージしてくれているカートに身体をあずけるということこそが重要だ。一方が相手の身体に触れ、もう片方が、それまで自分を支えていたものから手を離し、相手に身を委ねるという身振りは、ふたりの間にどうしようもなくできてしまった壁を取り払おうとする営みのように見える。他者に触れられて強張った身体から徐々に力を抜いていく過程において、縁から離れていく手のクロースアップは最も重要なショットとして位置付けられるだろう。このショットのあと、お互いの顔の寄りが再び数回交換され、温泉の周囲を捉えたいくつかの実景ショットに移行する。すると温泉から彼らの姿は消えており、続くショットでは、ふたりは服を着て山道を歩いている。彼らの関係がどう変化したのかということは、先ほどの「手放す」という動作以上に示されることはない。その山道を通り、続く二番目の「手放す」身振り、カートが靴と赤いリュックを芝生に放るシーンに移る。
 これは先ほどとは違い、短いがワンシーンワンショットである。画面の中央に車が置かれ、ふたりはそれに乗り込もうとしている。それまでふたりが車を乗り降りしているシーンはいくつかあるが、基本的に彼らは協力して、車のドアを開き、荷物や犬を積んだり降ろしたりしていた。しかし、今回はマークが自身の荷物を積み、連れてきた犬・ルーシーを放置したまま、早々に車に乗り込んでしまう。そのため、脱いだ靴と赤いリュックを抱えたカートは、犬が乗り込む補助のため、抱えた荷物を草むらに一旦放らなくてはならない。直前のシーンと同じように、この「手放す」身振りは、自立した行為ではなく、相手との関係において至ったものだといえる。ところが今度は、先ほどのシーンで融解しそうにも見えた壁が、むしろより決定的なものとして感じられる。マークとカートの間にどのようなことが起きたのだろうか。あるいはふたりの心情にどのような変化があったのだろうか。『オールド・ジョイ』は、やはりふたりの動作と動作の関係から見えてくること以上に、それを明確にしようとはしない。
 それでは「手放す」というアクションは、ライカートにとって、とりわけ『オールド・ジョイ』にとってなんなのだろうか。所有され、所有する関係から解放されることのメタファーなのだろうか。たとえば、『オールド・ジョイ』の場合、それは友情の清算であり、ふたりの別れを指していると。いや、そうではないだろう。「手放すこと」に、その行為とそこからの帰結で起きる運動以上の意味を求めてしまうのなら、ライカートの映画の核心からは、ずれていってしまう。確かに、この旅が終われば、ふたりはもう会うことはないかもしれないが、その動作によって決定的な別れが描かれたかどうかは知る由もない。つながっているのかも、切れたのかもわからない関係をふたりは背負っていくしかないのだ。そこにこそ残酷ともいえるライカートの映画の真髄、魅力があるだろう。「手放すこと」は解放ではない。「手放した」ところで彼女/彼らは過去を完全に清算することができない。むしろ「手放した」もの、あるいは者たちは、手を離したところで、彼ら/彼女らの生きる世界から消えることはない。ライカート的人物はそうした「手放したもの」とともに生きなくてはならないのだ。
 マークと別れた直後なのか、いつなのかわからない宙吊りの時間のなかで、ただ街に投げ出され、なにを、あるいは誰を探しているのかも示されず、しかし見えないそれに囚われているようにさまよい歩くカートが映される。ライカートは幕切れで決まってこのような、籠から解放されたがどこへ飛び立てばいいのか戸惑っている鳥のように、不完全な別れと孤独に身を引き裂かれた人々をオープンワールドに放り出す。最後には、まさにライカート自身も、彼女の登場人物たちを「手放す」のだ。そして、彼女のどこへいくかも、誰に会い、誰と別れたのかもわからない主人公たちを見届けられないままに、暗闇に放り出されたわれわれもライカート的人物にほかならない。

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