『リバー・オブ・グラス』

橋爪大輔(大学院生)

© 1995 COZY PRODUCTIONS

 病院の絵とそこで1962年に生まれたコージー(リサ・ボウマン)によるモノローグからこの映画は始まる。続けて彼女の独白とともに、写真を含む映像が断片的に映し出される。これらの音と映像は、タイトルクレジット前のショットで捉えられた浴槽に浮かぶコージーの声と過去なのだが、もちろん観客のひとりである「私」にも共有される。しかし私は、コージーが体験した視聴覚、もしくは彼女の想像をそのまま経験することはできない。コージーが “I” と発話したまさにその瞬間に、彼女の母の写真に向かってズームが開始されることで、つまり独白と映像というふたつの要素が彼女独自のリズムで同期されることによって、それを見て聞く私は彼女と異なる身体であるということを驚きを伴って実感する。 
 三児の母コージーは、ある夜、子供を家においてひとり街にくりだす。薄暗がりの中、草原を抜けて道路を横断するとき、彼女は気づけばその中央線をゆうに越えている。その後コージーは、たどり着いたバーで出会った銃を持つ男リー(ラリー・フェセンデン)と共に、民家のプールに忍び込む。そしてそこで、誤って引き金が引かれるのだが、ここで私は、先ほどの中央線がコージーの父の言う「法」であり、彼女はそれを跨ぎ越してしまっていたということを理解する。ふたりの逃亡は、この誤射から始まる。
 リーの「身体」には文字が刻み込まれている。右足の靴に「LEE」、右腕に「mom」。リーは彼自身でありながら、同時に母なるものを抱えている。この右腕に入れられたタトゥーを母への愛情の印として見てはならない。あくまでそれは、彼自身を分裂させるため、あるいはその母と対をなす「父」を想起させるためにある。ではリーにとって、父とは誰か。細部ではあるが、父が酔っ払い服を着たまま海に入り、死んだという彼のエピソードを思い出してほしい。服を着たまま水に飛び込むという行為は、コージーがバーを出た後の行為と同様のものである。また、死者であるリーの父と今リーの目の前にいる彼女の身振りは、偶然にも重なっている。コージーとは、リーにおける「父」の面影としての存在なのだろうか。いや、より正確に言えば、死者でありながらも視覚的に認識可能な存在、つまり幽霊であるかのようだ(「幽霊でも見たって顔よ」というコージーの台詞にもあるように)。ただし、ここで彼女を幽霊として認識することができるのは、目の前のリーと私だけである。
 さらに、あるショットにおけるコージーの存在様態を、本作に登場する他の幽霊が別のショットで反復することによって、彼女の幽霊性は否定し難いものとなる。他の幽霊とは、つねに座って登場する謎の男、キッパのような帽子をかぶり酒瓶を左手で掴む人物である。
 三度目の夜、ベッドで眠るコージーの傍で、モーテルの地べたに座るリーが右手で掴んでいる酒瓶を取り戻そうとする。すると突如画面の外から現れた男の左手は、その空間にもうひとり別の誰かが存在していたことを示す。だがすでに、帰属先が判然とせず宙吊りにされた左手は、発砲後、リーの車の後部座席にいるコージーを仰角で捉えたショットにも映っていたはずだ。思い出そう。車内にいるコージーの髪と画面右側はともに黒く、画面上でなめらかに繋がりひとつの形をなしている。それを背景に、時折現れる街灯の青い光によって、左手は浮かび上がる。このときその手は、彼女の身体から切り離されている。以上から、幽霊としてのコージーを、「mom」としてのリーや謎の男の左手との関係から確認できたはずだ。
 画面外から左手が伸びた直後、カメラはモーテルの一室を俯瞰で捉え、そこにいる三者を収める。だが、そもそも、ほんらい異なる時制に属する生者と幽霊である死者とが画面内で同居しうるのはなぜだろうか。これは、本作が逃亡をその日数で区切り、一見するとふつうの時系列で展開されていることを思い起こせば奇妙な事態だ。だが、音と映像によく注意すれば、それはなんら不思議なことではない。モーテルという閉じた空間において、時制は失効しているのだから。
 黒塗りの画面に表示された「1」という数字とともに最初の夜が明け、コージーとリーが身を隠すモーテルの部屋番号は、カメラをわずかに移動させることで―5―であることが明かされる。本作を区切る「1」から「4」の数字を除き、このモーテルの部屋番号以外にひとつの数字がはっきりと映されることはない。またこの日、私は確かにラジオから流れる電話番号を聞くことになるが、その数字とは当然ながらランダムに配置された数字にほかならない。また「1」に続く「2」が画面に大きく映し出された直後、遠くからリーを捉えたショットに配置された看板に至っては、店の電話番号や営業時間がはっきりと示されており、ここでもランダムに並べられた数字を私は見ることになる。「3」回目の夜を越して朝になる。私が初めに聞くのはモーテルのオーナーの声「11 o’clock」だった。以上から、1→2→3→4 と順序だった規則性を持つなか、ランダムな数字による配列を挿入することによって、映画の中の数字がもたらす撹乱の意図が随所にはたらいていることを理解できる。
 「1」の中にあるモーテルの部屋番号「5」、「2」の中の5、「3」の中の5、「4」の中の5(車内で朝を迎えたこの日でも、車窓越しにはっきりと、あのモーテルが映されている)。ほんらい五度目の朝の直前に映されるべき「5」は、コージーとリーが泊まるモーテルの一室に属された5として、1~4の全ての数字と拮抗している。それゆえ、5号室は特定の時制を確定できない空間であり、あのモーテルの一室とは現在の時制に属していない死者が、私に見える死者=幽霊となって現れる場所であることを示唆している。そして最後にコージーがリーを殺すのを見た私は、事後的に、あの部屋で起こっていたことを理解する。三人はあのとき皆、幽霊だったのだと。

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