——率直に『ラブバトル』がフィジカルな映画だったことに驚きました。これまでの監督の作品では、言葉のやり取りや視線のやりとりで人間同士の関係が変わる、そうした印象があったからです。以前から、こうしたフィジカルな映画をつくろうという考えがあったのでしょうか。

ジャック・ドワイヨン(以下、JD):その点について明確なお答えを出すのは難しいですが、いずれにしろ私の映画はエリック・ロメールの映画とは違います。ロメールの映画では登場人物たちがお互いに話し合って議論するだけです、しかし、私の映画では絶えずバトルが起こると思うんです。人間は言葉を通じて話をしますが、その内容は身体にも必ず響いています。つまり、感情は頭や脳髄、すなわち身体を通っているのです。私が他の人の映画を見て驚くのは、台詞を発しているのに身体の方は死んだような状態でまったく変化をしていないことです。いつもおかしいと感じていました。『ラブバトル』もまたこれまでの私の作品の延長線上にあると言えるでしょう。これまでの映画でも、バトルとまでは言わないまでも、身体がどのようにそうした感情を生き、感じ、そして力を持っているかを描いてきたつもりです。たしかに私の作品は台詞が多いです。多すぎるかもしれない。しかし同時に、台詞だけではたいした解決策にはならないといつも考えてきました。ときには台詞の中にアイロニーや皮肉があり、かえって人を遠ざけるような場合もあります。『ラブバトル』の場合、イニシアティヴを取るサラ・フォレスティエが、ある瞬間から苛立ちによって、あるいは戯れとしてジェームズ・ティエレに身体でぶつかることを始めます。肉体的な部分を動かして喧嘩するようになり、映画の途中から台詞はだんだんと重要性を失っていきます。そして、最後のシーンには台詞がまったくなくなってしまうのです。

−−『ラブバトル』の着想はどうやって生まれたのでしょうか。

JD:どこから映画が生まれてくるのか。それを説明することは難しいことです。頭の中から生まれてくるのでしょうけど、その経過は複雑すぎてうまく説明ができません。昔から私は絵画が、それも画集として複製されたものを見るのがとても好きでした。ある日、セザンヌのとある絵に心惹かれました。それは「愛の戦い」というタイトルで、複数の異なるバージョンがあります。その絵では4組の男女がほとんど裸で組み合っていて、それぞれがバトルをしているように見えます。私はハサミでその絵を切り抜き、自分の机の前にそれを貼り付けました。そのときから、この映画の脚本を書き始めました。だからすべてはセザンヌのせいであるとも言えますね。この映画の男女も愛のための戦いをしています。恥じらいによるものなのか、なぜかお互いに好きだと言葉でいうことができません。だから、あのように暴力的なバトルに訴えるのです。自分たちの感情を表現するのには、ああして身体をこすり合わせることしかできない。そのバトルはひとつの儀式のようになっていきます。

−−身体をぶつけあったり、こすりつけあったりする形のようなものは、監督が直接指示をしたものだったのですか。

JD:身体の動き、振り付けのようなものは俳優と協力してつくったものです。特に男優のジェームズ・ティエレにはサーカスの技術があり、私が考えつかないような身体の使い方を知っています。毎回ふたりで相談しながら振り付けを決めました。まずジェームズの方から「こういう動きはどうか」と提案があり、私がそれを採択するか決めます。たとえばジェームズはサラを拘束するシーンで、彼女を絨毯に巻きつけることを提案してきました。私はそれをいいアイディアだと思い、さらに絨毯を引きはがし彼女がずり落ちる動きを加えたらどうかとも提案しました。こうして振り付けを決めていくとき非常に気を使ったのは、俳優たちが疲れきってもいけないし、けががあってもいけないということでした。私はひとりも俳優を殺さないで映画を撮り終えたかったのです。この撮影はとても楽しいものでしたが、怪我をさせてしまうのが恐かったので、ふたりが完全に動きを覚えるまで何度もリハーサルをしました。しかし単に覚えたことを機械的にやるのでは、暗記した文章を朗読するのを聞くようで面白くありません。だから彼らが完全に動きを身につけて、そのうえで自由に動けるようにしたのです。

−−ふたりがバトルをしているときの迫力には本当に驚かされました。まるで格闘技でもしているように本気で闘っているようにも見えました。

JD:このバトルについて、ふたつ付け加えたいのですけれど、まずひとつはふたりの身体的なことです。サラ・フォレスティエは小さくて脆弱ですが、ものすごくエネルギーがあります。それに対してジェームズは力強く屈強で、ほとんどロダンの彫刻のような筋骨隆々とした身体をしています。こういう肉体的なギャップ、様相の違いがふたりの関係を描くのに使えると思いました。ふたりの間にあるのは、お互いを殺すための戦いではなく、愛のための戦いです。男性と同じように、ものすごい筋肉がある女性を選んでいたら、そこにあるのはたんなるレスリングかボクシングの試合になってしまいます。試合に勝つことだけが重要になってしまっていたでしょう。

もうひとつは、この映画には18のシークエンスがありますが、それらはすべてシークエンスの途中で中断することなくひと繋がりで撮影されているということです。2台のカメラで撮影していたので、編集するとそう見えなくなりますが、実際に動いているカメラはいつも1台でした。重要なのはそれぞれのシークエンスを途中で止めずに最後までやり遂げることです。たとえばふたりのバトルが、客間から始まって、台所を通り、それから階段を昇って寝室まで移動するとします。このワンシークエンスを一度で撮影するためには、まず1台のカメラが客間で撮影をしています。その間にもう一台のカメラはこっそり台所に移動しふたりが来るのを待ち構えておく必要があります。そして、撮影が台所のシーンに移行すると、今度は初めに客間にいたカメラが音をたてないように階段を昇って寝室に向かう。そういうふうに、2台のカメラが交互に撮影しワンシークエンスをひと繋ぎに撮っていったのです。こんなことをするのはもちろん演技のためでもありますが、すべてのシーンをひと繋ぎにすることで、全体の音がどのように動いていくのかを知るという目的もありました。全体を見ることで、初めてそのシーンの持っているテンポがつかめるんです。どこで台詞を早口で言うか。どこで台詞をもう少し長く言うか。声を小さくするか、大きくするか。あるいは沈黙をどの部分に置いてその沈黙をどのくらいの長さにするのか。そうしたシーン全体の音楽性は、すべてを続けて見聞きしないと決めることができません。俳優に対して出す指示にしても、シーン全体に対して行わなければならないのです。

−−それでは、そのときシナリオというのはどのような役割を担っているのでしょうか。

JD:シナリオを書くときは台詞だけを書き、そのシーンがどういうものになるかはまったく考えていません。撮影現場に着いたとき、今日これから撮るシーンがどういうものになるのか、私にはまったく分からない状態なのです。私はとても心配症なので不安な状態に慣れています。だから、そのことに耐えられるのだと思います。撮影現場でいつもひとつだけ確信を持っていることがあります。それはこれから撮影するシーンの台詞を、俳優たちは完璧に覚えている状態でやってくるということです。これは大きな安心材料となります。

−−ドワイヨン監督は何度もテイクを重ねると聞いています。そのときOKとなる判断の基準は何なのでしょう。

JD:私は何度も同じことを繰り返してテイクを重ねているわけではありません。これはうまくいった、あれは失敗したということではないのです。テイクを重ねるのはひとつの探求の道です。あるテイクでうまくいったことがあればそれは残しておき、次のテイクではうまくいかなかったところを変えてみるというふうに、だんだんと前に向かって探求を進めます。シーンに対するそうした探求を行うことが、テイクを重ねる理由です。テイクを重ねていくうちに、そのシーンが本当の意味でだんだんに高まってきて、「来た!」という感覚がわかる瞬間が訪れます。さきほども述べましたが、私は映画を音楽的につくるように考えている部分があるので、まさに文字通り「シーンが聞こえてくる瞬間」があります。ひとつのシーンができたことが耳によってわかるのです。そのためには俳優が予め覚えてきた台詞だけでなく、動きや状況、自分の位置、それから肉体的な関係などすべてを把握し、身体の中に消化してまったく心配がなくなる状態までもっていかなければなりません。それは俳優の演技の質の高さにもよりますが、俳優の持っているファンタジーが現れているときです。

それは飛行機が離陸するようなものかもしれません。滑走路をずっと走っている飛行機が、ある瞬間に離陸します。最初からポンと飛び上がるのではありません。同じように、ひとつのシーンは最初の方のテイクではまったくかたちになっていません。何度もテイクを重ねて、最後になってやっと離陸できるようにまで達するのです。今回は撮影期間がちょうど1ヶ月でした。理想をいえば11週間はかけたかったところなので、きわめて短い時間で撮影を行ったことになります。けれども才能があり大胆で野心的な俳優と、なるべく早くなるべく良い形で仕事をすることができたように思います。だいたい3~4時間の撮影で、ひとつのシーンが何とか満足できる水準へと到達していましたから。

−−最後の質問なのですが、映画監督は演出をするときにスクリーンの範囲を捉えるため指で長方形のフレームをつくると思います。たとえば、ロベール・ブレッソンが指で四角を作っている有名な写真があります。ドワイヨン監督の場合は、どのようにフレームを作っていますか。

JD:私はそんなこと絶対にしません。「アクション!」と言ったことも一度もないです。というのも、アクション映画でもないのに、アクションというのはひどいと思うからです。「さぁ、いつでも」と言うことはありますけどね。

取材・構成:渡辺進也、伊藤丈紘
写真:鈴木淳哉

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