一般の家庭で過ごすには十分な広さのベランダでも、撮影となればやはり狭く感じるものである。非常に穏やかであるが、しかし確かな緊張感のなか段取りが始まり、万田さんは入念に俳優の動きを繰り返し確認される。本シーンはシナリオ尺で3分ほどとはいえ今作で最も長いシーンであり、本作の芝居のリズム、ひいては映画のトーンを決める重要なシーンである。森田さんと祐介さんの動きの流れを見ながら、「いや、違うな」と芝居を付け直しては固めていく。段取りを繰り返し芝居を固めていく中で、ごく自然に万田さんは自らの手でフレームを切りながら、カメラポジションとアングル、そしてサイズを決定していく。

 万田さんがフレームを確認するときのポーズは、アイドルのWinkが「Heart on wave〜 」と唄いながら腕を開くのと似ている。水平にした両腕を顔の前で開く形だ。Winkは拳を握っているが、万田さんは手を開いているのがちょっと違う。人はいろいろな姿勢で世界への窓を開く。ブレッソンのその姿勢はイラストになっている。いろいろな監督の窓の違いを検証した写真集が見てみたいと思う。因に、この姿はちょっと恥ずかしいのであまりやらないと万田さんから聞いた思い出がある。
 万田さんは俳優さんに一連の動きをつけていき、大まかなことが決りそうになると、さらにもう一度一連の動きをしてもらい、その際、俳優さんの周りを駆け回りながらフレームを決めていく。俳優さんの周りを万田さんが動き回り、位置を決め、Winkのポーズをとるように世界の窓を開いたらそこがカメラポジションだ。カット割りを説明せずとも、走る→止まる→Winkがあれば、そこがひとカット。また走り→止まり→Winkがあれば、ひとカットと明確にわかる。
 因に、万田さんの撮影開始の合図は「よーい、はい」だ。俳優さんとの距離が遠くなると「よーい、はぁぁい」となる。さらに遠くなると「よーい、はぁぁぁぁぁい」だ。助手として、監督の声を俳優さんに届けるように大きな声で復唱するのだが、今回万田さんは自分の声を伝えたかったらしい。自ら大声で合図を出した。世界の窓の写真集の付録はこの合図の声を収録したCDがいい。

 この万田さんの動きを見るにつけ、カメラ=万年筆論などとは言わないが、万田さんの映画はカメラと万田さんの肉体が一体となってあの類稀なる強靭な文体を構築しているのだと感じる。カメラマンが介在しない本作ではそれが顕著に感じられ、わたしは、カメラが文字通り万田さんの「目」となって、俳優たち被写体を素描しているように錯覚した。
 9時過ぎ。俳優の動きが決まり芝居が固まってくると、いよいよ万田さんはカメラをセッティングし、順撮りで1カットずつ撮影を始める。『う・み・め』以降、『接吻』に至るまで現在は2台以上のカメラを駆使している万田さんであるが(昨年撮影された美学校コラボレーション作品である『×4』では2カメの在り方が一つの沸点にまで高められていたように思う)、本作は1カメで厳密なフレーミングが施されていく。

 今回1カメということで、糊代を多く撮ることにより編集点をいくつも作っておくのかと思いきや、カット内の始まりと終わりには余分がなかった。

 今回万田さんのフレーミングを側で見ていて改めて感じたことは、1ショットでドラマを喚起するショットの強さであった。ベランダで目覚めた葉子と拓也が語らう本シーンにおいても、椅子に座った拓也が葉子の手を取って言葉を交わしていくだけの芝居であるにもかかわらず、万田さんのカメラを通して見ると、見るものに情動を喚起させる表現力のとても強いショットとして立ち上がってくる。重要なのは、それがこれ見よがしの強いショットとして撮られているわけではなく、あくまで登場人物たちのドラマをより強く喚起させるためのショットとして撮られていることだ。わたしは、なんとか現場の流れを掴むべく四苦八苦しながらそんなことを考えた。のは、撮影は全て終わってからの話である。現場は万田さんのリズムに乗ってあくまで静かに淡々と、そして驚くほどスムーズに進んでいく。

 ドラマを喚起させているのかどうかわからないが、緊張感は漲っている。情動かどうかわからないが何かが喚起される。この何かを定着できる映画とそうでない映画がある。 
 現場が静かでスムーズなのは、万田さんの指示が明確だったからだと思う。そもそもなぜ現場が騒々しくなってしまうのか、わたしにはわからない。 騒々しい現場を見ると、学級崩壊した小学校のクラスを思う。

 わたしたちの考えていた予定を大きく上回るペースで撮影は進みベランダのシーンの撮影を12時過ぎには全て終え、皆でゆったりとしたお昼を取った。午後はお宅の目の前にある河原での撮影である。

 午前(9時〜12時30分)の撮影分は、台本上約5分。つまり、42分間で1分のOKテイクを撮影している。90分の長編映画を撮影するとすると、一日8時間しか撮影しないとしても、たったの8日で終えてしまうペースだ。
 カット数でいうと、20カット撮ったので、1hで約6 カット撮影している。

 目的とする河原を知っているのが万田さんのみということもあるが、それにしても万田さんの足取りは軽く、誰よりも若々しく現場へ向かう。現場に到着した万田さんは芝居場を決定すると、リュックサックから小型のHDVカメラを撮りだし三脚に据える。小出さんがマイクをセッティングし、わたしはカメラ向こうのコンディションを整え、万田さんの次の動きを待つ。
 自宅周辺で2、3人のスタッフと撮影を行い、傑作を生み出していくその様はこの場ではあまり考えたくはないある固有名を嫌でも思い起こさせる。ジャン=リュック・ゴダール。何かもっと別の切り口はないのか、と皆様が思われるのはまったくもってよく分かるのだが、残念ながら出てきた固有名はやはりゴダールだった。それにしてもまったくもってこんな現場に参加できて本当に光栄だ、と思ったのはもちろん撮影がすべて済んで後のことである。現場はまだ続く。

 『接吻』の際のロケハンも万田さんの歩きは早かった。ひとりでいろいろ赴き、フレームを考えていた。仲村トヲルさんや、豊川悦司さんの代わりにスタンドインするのが大変だった。しかし、わたしの身長ではふたりのスタンドインとして機能していなかったかもしれない。

 葉子と拓也が河原の斜面で手を取り合って降りていく回想シーンの撮影。斜面のロケーションといい、男女2人が手を取り合って斜面を降りていく演出といい、またしても見るものの情動を強く喚起するショットが撮影され、思わずアンソニー・マンなどと呟きそうになったのは内緒である。この現場中、そんなことを考えている余裕などわたしにはない。
 言うまでもなく、手を取り合う男女の演出では万田さんのもっとも明瞭な作家の署名である手のアップが厳密なフレーミングで撮影されたのだが、時折現場の動きを止め、頭の中で時間の出し引きを含めたコンテの整理をしている万田さんの姿がとても印象に残っている。もちろん万田さんが、頭でコンテが繋がった上で撮影のできるマキノ雅弘の系譜に属する監督であることに間違いはない。
 河原での撮影も極めてスムーズに進み、15時には本日のラストシーンを迎える。葉子と拓也が河原でたたずみつつ会話を交わす回想シーン。芝居を1カットでしっかりと切り取ったショットと、それを受ける余韻のバックからのロングショットを撮影し、予定の撮影は全て終了。あまりに撮影が早く終わったので、急遽葉子と拓也が歩いているシーンを撮影することになる。スタンドインではわたしと小出さんが仲良く手をつないで歩き、フレームを覗いていた万田さんの「クックッ」という笑い声が忘れがたい。16時前には撮影を終え、われわれは帰途についた。

 わたしは二日目の撮影の後半(13時)から参加した。午前の万田さんらは雨にも負けず、河原での撮影をしていた。玄関に入り泥だらけの靴を見た。ベランダにみんなの靴下が干していた。撮影は順調に進み終わった。その後中華を馳走になった。中華料理屋では紹興酒を呑んだ。それと、珠実さんは撮影には参加しなかった。一緒に撮影できたらさぞ愉しかろうと思ったていたので残念だ。珠実さんは遠慮深い人だった。

写真=鈴木淳哉