マルセル・マゼ、ミクロシステムのひと
文=須藤健太郎

Photo © François Grivelet

マルセル・マゼが2012年2月14日未明にこの世を去った。もう長いこと入退院を繰り返していたから、驚きよりも悲しみのほうが先に立つ。そして私を襲うのは、深い後悔の念である。

1971年から83年までイエール国際映画祭でのプログラムを担当した、「フランス実験映画界のゴッドファーザー」(ラファエル・バッサン)ことマルセル・マゼは、実験映画の上映を主な目的として、コレクティフ・ジューヌ・シネマ(CJC)を設立し、上映活動に長らく関わった人物である。CJCの設立には、実験映画に強い関心を持っていた批評家のラファエル・バッサンとノエル・バーチが協力し、そして早い時期から自分の製作会社を立ち上げ、マイペースに映画作りに取り組むことになるリュック・ムレが副代表に就いた。マルセル・マゼは通常の映画館ではかからない映画を人に見せることに情熱を捧げ、それに人生の喜びを感じていた。たとえばジャン・ジュネの『愛の唄』のプリントを見つけてきてフランスで初めて上映したのもマルセル・マゼである。

しかし私が彼と会うことになったのは実験映画への関心というよりも、ジャン・ユスターシュというフランスの映画作家がきっかけである。ユスターシュが1971に設立されたCJCに加入していたというほんの小さな事実から、私はCJCの活動に関心をもった。政治への無関心を公言し、「反動的であることこそ革命的である」をモットーに保守として振る舞うことを好んだ映画作家と、前衛的な実験映画を上映するための団体との出会いというこのささいな出来事に私は深く魅了されていた。このことを確認するために、私はCJCの代表であり、設立者であるマルセル・マゼに連絡し、彼のアパルトマンに向かったわけである。おしゃべり好きな彼は、ユスターシュのことよりも、自分のことを話し始めた。こちらが質問を挟む余地もなく、彼が擁護してきた映画についてマルセル・マゼは止めどなく語りつづけた。話を聞くうちに、なぜ彼がこのような活動をこれまで続けてきたのか、そしてなぜそれが可能だったのかを私はたちまち理解した。どこの馬の骨ともわからない日本人を、彼はさも当たり前のように暖かく迎え入れ、ざっくばらんに話してくれる。彼は何の偏見も先入観も持たずに、自分のところに来るものは何でも受け入れてきたに違いない。そうして多くの映画や映画作家がCJCに集まってきたのである。ユスターシュもおそらくその一人だったのだろう。

また彼の話を聞きながら、私は自分がこれまで何に関心を抱いてきたのかがわかりはじめた。

1970年代のフランス映画に必要だったのは、「ミクロシステム」という考えだとセルジュ・ダネーが断言したことがある。もともとは70年代に製作難にあえぐジャック・リヴェットが使った言葉で、インディペンデントに活動を続けるためには、映画作家は単に映画をつくることにかまけていてはいけない、製作から配給まで見届ける自分だけのシステムを作る必要があるということを彼らは主張した。むろん、彼らの頭のなかにあったのは、いわゆるヌーヴェル・ヴァーグ以後の作家の問題で、実験映画のことは念頭にない。だが、もっともマイナーな場所で活動することをみずから選択し、ミクロシステムの必要性をもっとも強く感じていたのは、実験映画と呼ばれるジャンルの人々であることは想像に難くない。映画が存在するためには、つまり見られるためには、映画作家はすべてにならなければならないとダネーは言った。マルセル・マゼは上映活動に専念することで、彼らの「ミクロシステム」の構築に手を貸すことにする。彼はさまざまな理由から上映ルートに乗らない作品を人々に見せることにその生涯を捧げることを選んだのである。彼の饒舌な自分語りに耳を傾けるうちに、私はまるで「ミクロシステムの思想」がいままさに目の前で立ち上がってくるような感覚を覚え、これから自分がどういうことをしていくべきかの指針を教えられたような気持ちを抱きながら帰路についた。ユスターシュといっても、ヌーヴェル・ヴァーグとの関係ばかり考えていては視野が狭すぎる。同時代に花開いていたもっと多様な映画のあり方に目を向けなくてはいけない。実際、ユスターシュは「長編劇映画」という商業公開のフォーマットには乗らない作品を次第に構想するようになっていく。映画は誰かに見られなければ誕生しない。だから、なんとしてでも人に見せなくてはいけない。そして生まれたばかりの作品に、言葉を与えて、その存在を人に伝えていかなくてはならない。上映活動を行う者が助産師だとすれば、批評家の喜びはいわば映画の名付け親となることである。

いまあらためて、イエール国際映画祭での上映作品・受賞作品のリストを見ていると、ここが世界中の実験映画作家の出会いの場所となっていたことはすぐに理解できるし、60~70年代の実験映画の歴史がまさにここで生まれていたことがよくわかる。たとえば1974年度は、コンペティション外で、ジョナス・メカス特集、ペーター・クーベルカ特集、マイケル・スノウ特集、ヴェルナー・ネケス特集、ポール・シャリッツ特集という5つとも見逃すことのできない垂涎のプログラムが組まれている。しかし注目すべきは、この年のコンペティションではスペインのアドルフォ・アリエタと西ドイツのベルント・シュヴァムがグランプリを獲得し、ジャン=ポール・デュピュイ(フランス)とヘルムート・コスタール(西ドイツ)に審査員賞が与えられ、ピーター・ジダル(イギリス)、ハンス・ユルゲン・ジーバーベルク(西ドイツ)、ジャン=クロード・ビエット(フランス)らにも特別賞が与えられるという、作家と作品の点で驚くべき多様性が実現されていることだ。もちろん、地理的な条件を考えてもフランスをはじめとしたヨーロッパの映画作家が多いのは当然だが、松本俊夫や寺山修司、飯村隆彦(マルセル・マゼにとって日本はイイムラの国だった)といった日本の映画作家がここで紹介されていたことも忘れてはなるまい。マルセル・マゼは、狭義の実験映画にとどまらない映画の多様性を示すために、「異色映画(cinéma différent)」という呼び方を好んだ。スタジオ・システムの外で、インディペンデントに活動する映画作家を擁護するために、彼は「異色映画」という概念を発明したのである。そして、「異色映画の女王」(パスカル・ボニツェール)としてそこに君臨したのが、マルグリット・デュラスであった。

昨年の12月にパリ異色映画祭で会ったとき、マルセル・マゼはプログラムに多量のメモをぎっしりと書きこんでいた。そうしないと、すぐ忘れちゃうからと彼は微笑んでみせたが、体調がすぐれないにもかかわらず、彼はコンペティションの作品をすべて見ていて、上映後の議論にも活発に参加していた。日程が合わないとか、いろいろと自分に言い訳をして、結局気になる作家の作品の上映にしか顔を出せない自分が恥ずかしい。体調は良好、年齢もまだまだ若いはずの私よりも、彼のほうがはるかに活力と好奇心に満ちていた。この作品は面白いから見るといいとアドバイスをしつつ、彼は上映ホールの席に深く腰掛けた。彼が新しい作品を発見することにかけがえのない喜びを覚えていることが自然と伝わってきた。疲れたから途中で帰るかもしれないと言いつつ、夜遅くまで続く上映に最後まで立ち会う彼の姿は深く胸に焼き付けられた。

おそらく誰もが彼の死期が近いことに気がついていた。その前に彼の証言を日本語で残しておかなければならないとずっと思っていたのに、何もしないまま時が流れ、訃報が先にやってきた。2月21日に行われた葬儀では、フランス実験映画に伴走してきた批評家ドミニク・ノゲーズが弔辞を読み上げ、「ケナヴゥー」と、マルセル・マゼの故郷ブルターニュ地方の言葉ブルトン語で別れを告げた。いま自分は彼にどのような別れの挨拶を送ることができるだろう。こういう人物がいたことをもっと多くの人に知ってもらうために自分にできることは何だろうと私は自問した。

ヴィヴィアンヌ・ヴァーグによるインタヴューは、CJCの40周年に際して行われたものである。しかし、彼女もまた彼が旅立つ前に最後の声を記録しようと思ったのだということが私には直感的にわかった。彼女は同時にカメラを回し、その姿を映像と音声でも記録したおいたのだという。英語で発表されたこのインタヴューではマルセル・マゼの活動がコンパクトにまとめられ、フランス以外の人に向けて彼のことを紹介しようという間口の広さをもっている。まずこれを翻訳してみようと私は考えた。

もうひとつここに訳出したのは、彼が初めて会ったときにくれた文章である。彼が「異色映画」と呼んだものが何なのか、その一端が垣間見えるテキストだと思う。

少なくとも彼は、私にとって、フランスで初めて自分を受け入れてくれた人だった。彼への感謝の気持ちをせめて何らかの形にすることが、おそらく、いまできる唯一のことなのだろう。

須藤健太郎(すどう・けんたろう) 

1980年生まれ。シネマテーク・フランセーズ招聘研究員。パリ第3大学映画・視聴覚研究科博士課程在籍。