夢から醒めるために、一度は夢を見なければならない

鈴木史

 アイコの左頬にはアザがある。彼女は他者に眼差しを向けられることを恐れるあまり、ありきたりの恋愛などというものからは身を引いている。しかし、映画監督・飛坂は彼女を見初め、アイコを題材にした映画を撮りたいとまで思う。そうして二人の恋がはじまる。
 飛坂が初めてアイコを見ることになるのは、公園でアイコが自身の半生に取材した本の表紙となる写真を撮影されている時だった。昼のまばゆい陽光の中で、アイコを照らすレフ板の光が街路を歩く飛坂に反射し、彼はふとその光源の先に眼差しを向ける。飛坂は目を細めながらアイコを見ようとするのだが、彼女の姿をはっきりととらえることがすぐにはできない。そのシーンにおいて観客の目を引くのは、画面に入り込むレンズフレアだ。レンズフレアとは、画面の中に明るい光がある場合やカメラに明るい光が当てられた時に、レンズ内部で光が反射することで、画面内に靄や光の粒のようなものが映り込む現象のことだ。一般的にレンズフレアはカメラレンズの構造状発生してしまうマイナスの特性とされ、レンズに傷や汚れがある場合は特にレンズフレアが現れやすくなる。レンズフレアを避けるためにカメラにはレンズフードが備えられており、それでもレンズフレアが入り込んでしまう場合、撮影現場では黒色の厚紙などをカメラ前にかざすことで、“ハレ切り”というレンズフレアを消す作業が行われる。

© 島本理生/集英社 ©2021映画「よだかの片想い」製作委員会

 アイコは実人生においてもこの“ハレ切り”を行われてきたと言えるだろう。幼少期に彼女は、真昼の日光が差し込む明るい教室で、アザを琵琶湖のようだと同級生たちに指摘される。教師は彼女のアザをからかう生徒たちを叱責し、その瞬間、教室に満ちていた光は失われ、彼女は陰に入っていく。教師の叱責により、アザのある顔は「マイナスの特性」なのだと知らされることで、アイコにも社会的な規範意識が内面化され、自身が周縁的な存在であることを意識せざるを得なくなる。彼女は自身に光が当たることを避け、陰の中を「よだか」として生きていくことになる。その「よだか」を光の中に引き戻すのは、映画監督である飛坂だ。暗い路地で二人がスマートフォンを出し連絡先を交換するシーンでは、街灯の光が生み出すまばゆいばかりのレンズフレアが、恋愛関係をそこに作り出そうとする二人を祝福する。だが、レンズフレアが古典的な映画においては多くの場合避けられ、排除されてきたように、彼女が模倣し、反復しようとする「ありきたりの恋愛」そのものも、顔にアザのある彼女のような存在を排除してきたものだ。そしておそらく彼女自身もそのことに気付いている。

 ライターの高島鈴はルッキズムにまつわる問題を解く糸口を探る中で、『そもそも「客観的」な視線など存在しえないことを前提として、現在支配的な「美醜」がただの一視点として縮小され、理解できない・分節不可能な像を結ぶ視界が対等に現れるような社会状況にこそ、筆者は希望を見出したい』と述べている*1
 映画監督の飛坂は観客の美醜の観念すらも操ってしまう映像というメディアの担い手である。映像作家は視覚的イメージを作り上げるという点で、まさに縮小された一視点を提示してしまう存在でもあるが、その一方で本作のアイコというアザのある女性は、飛坂に対して分節不可能な像を結ばせるプリズムの役目を担ってもいる。プリズムに向けられた飛坂の眼差しはアイコの中で乱反射し、彼女を一視点として縮小する彼の試みに綻びが生じ始める。社会的な規範による障壁があろうとも恋を成就させよとする二人の姿は、観客にメロドラマ的快楽を与え、わたしたちの眼差しを悦ばせもするのだが、その眼差しすらも拒絶するかのように、アイコはただ一本の電話によって、自らの決断でその恋を終結させることになる。その恋なるものは、アイコが「夢みたいでした」と告げるように、実態のない夢であったことが互いに了解されるのだ。別れのシーン、それまでアイコを眼差していたはずの飛坂は後景に遠のいていき、声も朧になる。それを最後に、彼は映画から姿を消す。映画監督・飛坂の眼差しを受けることで、それまで陰の中にいたアイコは他の誰よりも強く光を浴びる存在へと変化していったが、その強い光を携えた彼女がついに自分の眼差しを持って彼自身を見つめ返した瞬間、恋の夢が醒めていく。ではその夢には何の意味もなかったのか?
 アイコは飛坂との別れに際して涙を流し、ことによるとわたしたち観客の眼差しからも涙が流されることになるが、映画学者リンダ・ウィリアムズがメロドラマ映画と涙の関係について、「未来の力の源泉である」*2と述べ、「涙はほとんど未来への投資であり、過ぎ去ったものや元に戻らないものに対する単なる思慕ではない」*3と語った通りに、それまでアイコを陰に追いやってきた「ありきたりの恋愛」が夢に過ぎないと気付くために、彼女は一度その夢を見なければならなかったのだ。夢から醒めるために、一度は夢を見なければならない。

© 島本理生/集英社 ©2021映画「よだかの片想い」製作委員会

 飛坂が姿を消した後、本作監督の安川有果は、かつての恋愛映画が用意してきた観客を夢見心地にするハッピーエンドとは異なるラストシーンを用意している。陽光を浴びてダンスを踊る二人の女性。彼女たちはこれからどのようなドラマ/夢を見せ、人々の眼差しを作り上げていくのだろうか。傾きつつある太陽の光が降り注ぎ、レンズフレアがスクリーンいっぱいに広がる。かつては避けられたレンズフレアも映画表現の変化とともに、観客の眼差しは慣れ、今や視覚的な効果として人々の目を楽しませてもいる。映画は変化し、眼差しも変化する。古い夢から醒めた後も、また新たな夢の中を漂っているのかもしれない。
 隠された傷。彼女たちのキス。それらのものが映画を宙吊りにする。彼女たちは、沈みゆく太陽の日差しを浴びながら、昼と夜の境界で、観客の眼差しをかわしてゆく。

*1 高島鈴「都市の骨を拾え」(『現代思想』2021 vol.49-13|特集|ルッキズムを考える、p.88)
*2 ジョン・マーサー+マーティン・シングラー『メロドラマ映画を学ぶ ジャンル・スタイル・感性』中村秀之+河野真理江・訳、p.193
*3 同上、p.193

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