小野田の物語の厚みと混濁

三浦哲哉

 本作を見る前に、未読だった小野田寛郎の体験記『わがルバン島の30年戦争』(実際は津田信による聞き書き)を手に取ったのだが、ドス黒い闇に引きずり込まれるというのか、読めば読むほど視界が不透明になっていくような、なんとも奇妙な話が展開するので、魅了されつつ一気に最後まで読まずにいられなかった。
 小野田は、陸軍中野学校二俣分校で諜報の技術を教えられる。第二次世界大戦が終結したあとも引き上げ命令を無視してルバン島に居残り、数名の部下とともに「遊撃戦」を継続する。その期間がなんとほぼ30年。その間、小野田の兄や父が何度も捜索隊を結成してルバン島を訪れ、帰還を呼びかけた。戦後の世界がどうなっているかも様々な手段で示した。けれど驚くべきことに、小野田はそれが敵国の謀略であると解釈しつづけた。当時の日本の新聞記事や雑誌の切り抜きなどの情報もすべて、敵の諜報局が作り出した現実そっくりの虚構である、と考えつづけたというのだ。そこが異様でぞっとする。
 異例にも、この体験記が出版されたあと、小説家の津田信が「ゴーストライター」は自分だったと名乗りをあげ、その「聞き書き」がどのような作業だったかを告白する書物『幻想の英雄──小野田少尉との三ヶ月』を発表している。なにそれ、という展開なのだが、この本もぞくぞくするおもしさであった。津田は書く。
「正直、私は頭をかかえた。彼に代わって手記を書く私がそもそも納得できないのだから、そのまま書けば読者はますますわけがわからなくなってしまう。このときほど私は、代筆を引き受けたことを後悔したことはない。できることなら、おりたかった。が、すでに連載がはじまっており、今更、やめるわけにはいかなかった。当時の私には、彼の矛盾だらけの話を何とかつぎはぎして、適当につじつまをあわせるより他に途はなかった。私は内心、冷汗をかきながら、もっともそうな理屈をこね、舞文曲筆を弄した。この点、まことに慙愧に堪えない」(津田『幻想の英雄』)。
 ここで書かれていることは、現代の私たちにとってもけっして無縁ではない。やばいブログ開いちゃった……というときのような、自分には到底理解できない「世界線」で生きているらしい人物の内面を覗き見てしまったときのあの感触──トランプ以降、コロナ以降、意識する機会のより多くなったこの感触が、小野田の(そして津田の)言葉にはある。津田は「つじつまをあわせるより他に途はなかった」と述べるが、津田の疑い──彼はずっと小野田が敗戦の事実を認知していたのではないかと疑いつづけている──は、『わがルバン島の30年戦争』にたしかに残存し、記述を混濁させている。この混濁こそが、じつはこの本の魅惑のコアなのだ。小野田が本当は何者なのか、誰にもわからない。

©bathysphere ‐ To Be Continued ‐ Ascent film ‐ Chipangu ‐ Frakas Productions ‐ Pandora Film Produktion ‐ Arte France Cinéma

 さて、小野田が語った物語は、いまどう映画化されたのか。
 先に結論を言うと、つじつまが合いすぎる部分と、不透明なまま残された部分とがあった。
 つじつまが合いすぎるように思えたのは、たとえば、小野田がルバン島に留まり続けた理由を、父子のドラマに落とし込んで解消する筋立てである。自分を理解してくれない実父(諏訪敦彦のまったく隙のない洋装が、父権的な圧迫感を醸し出していて、生理的に怖い)に代わり登場するのは谷口教官(誰もが愛さずにいられないイッセー尾形を若い兵士たち誰もが愛する展開になる)。この谷口が下した至上の命令──死んではならぬ、即興的に戦術を変えながら、遊撃戦を継続せよ──に最後まで忠実でいたからこそ、彼の30年間はあった。フラッシュフォワードされる、谷口と小野田の(1974年の)再会の場面に始まり、上映時間の最後にまたこの場面に戻って映画が終わるという構成が、このことを強調する。
 ちなみに、『わがルバン島の30年戦争』において、彼にスパイ教育を施す上官は横山静雄陸軍中将だと書かれており、彼を直接出迎えに行く谷口はまた別人である。小野田自身も谷口に格別思い入れがあるわけではないと言っている。映画版はこの二人を同一人物にしているということだ。
 映画を見たあと、プレス・リリースに掲載されていたアルチュール・アラリ監督のインタヴューを読むと、彼が依拠したのはもっぱらフランス語の書物『Onoda: Seul en guerre dans la jungle』(1974年刊)であって、『わがルバン島の30年戦争』の存在を知ったのは撮影の直前だったという(おいおい!)。ただ、アラリ監督は、小野田の言葉への忠実さに囚われなかったことで、「自由に人物を描くこと」ができて、結果的に良かったと述べている。映画版のある種の通りの良さは、このような姿勢の帰結の一つなのだろう。
 だが、何もかもがわかりやすくなったわけではない。肝心なところで本作が小野田の物語の謎めいたコアを謎のまま提示することに成功しえたのは、配役の賜物だ。自分のしていることが自分でも本当にはよくわかっていない、でもやる、というような、かすかな逡巡と決然とした覚悟の同居する遠藤雄弥の顔がすばらしい。そして津田寛治。サントリーBOSSのCMで、上司の着メロをそれと知らずにバカにしてしまう「何も考えていない部下」役で世に出て以来、およそわかりやすい心理を欠落させる(あるいははぐらかす)不可思議としかいいようのない存在感によって、北野武(『DOLLS』)や三池崇史(『妖怪大戦争』)の傑作も含む膨大な日本映画を支えてきた。この俳優ならば小野田役が務まるにちがいないと本作の作り手たちは判断したのだろう。そのすばらしい判断に、津田は見事に応えている。中年になった小野田のパートナーを演じた千葉哲也にも感動を覚えた。単に漠然としているというのではなく、複数の情動に揺れている、そんな両価的な表情が千葉の顔にもあった(川面を流れていったピストルを探す場面もよかった。ピストルが水に浮くということを初めて知った。浮くの?)。
 本作『ONODA』の遠藤雄弥と津田寛治と千葉哲也らの不透明な存在感に打たれた観客が、気になって『わがルバン島の30年戦争』と『幻想の英雄──小野田少尉との三ヶ月』を読みたくなる、ということは充分にありうることだろう。そのときより一層、現実の底知れなさに読者は触れられることだろう。
 余談だが、私の実家の近くに「小野田自然塾」という施設があって遊びに行ったこともあるのだが、まさに小野田寛郎財団が作ったものだということを、今回、本作を見たことをきっかけに知った。

三浦哲哉(みうら・てつや)

青山学院大学文学部教授。専門は映画研究。食についての執筆も行う。著書に『LAフード・ダイアリー』(講談社、2020年)、『食べたくなる本』(みすず書房、2019年)、『ハッピーアワー論』(羽鳥書店、2018年)、『映画とは何か──フランス映画思想史』(筑摩選書、2014年)、『サスペンス映画史』(みすず書房、2012年)。共編著に『オーバー・ザ・シネマ 映画「超」討議』(フィルム・アート社、2018年)。訳書に『ジム・ジャームッシュ・インタヴューズ──映画監督ジム・ジャームッシュの歴史』(東邦出版、2006年)。

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