みなし子の「自然塾」

相澤虎之助

 地平線というものを生まれて初めて観たのはブラジルだったと思う。今から30年ほど前に高校生だった私は、夏休みを利用してブラジルの中西部の街カンポグランデの郊外にある街の教会にホームステイさせてもらっていた。そこから日系移民の子供たちを教える学校まで行ってボランティアをしながら小学生に絵を教えたり、中学生に英語と日本語を教えたりしていた。実際は子供たちと一緒に絵を描いたり、中学生たちに逆に英語を教えられたりしながら一緒にビリヤードをして遊んでいただけだったのだが、日本の学校と違ったのは校門の前には麻薬の売人がいて生徒にコカインを売っていたことだ。日本からブラジルに派遣されている神父さんと共に、山に住むインディオたちの村まで行ってミサをあげる手伝いもした。インディオの村には教会が無かったから茅葺きの集会場に椅子を運んだり、カンタンな祭壇を作ったりして定期的にミサを行っていたのだった。
 村からの帰り道、南米大陸のどこまでも続く広陵の一本道を走る車に揺られながら、その果ての地平線に沈んでゆく夕陽に感動しているとハンドルを握っている神父さんが「ほら、見てごらん。トラックのドライバーが銃の試し撃ちをするから、みんなこうなっちゃうんだよ」とロードサイドの穴だらけになった道路標識を指差して笑った。しばらくして、とある牧場の前を通り過ぎながら「ここはあの小野田少尉の牧場だよ、フィリピンの」と神父さんが言った。「え、最後の日本兵の?あの小野田さんですか?」と高校生の私は聞き返した。80年代も終わろうとしていた当時でも小野田さん生還のニュースは年に1回ぐらいはなんらかのカタチで報道されていたし、確か歴史の教科書にも記事が既に載っていたように記憶している。小野田さんはフィリピンから日本に戻ってその後ブラジルに渡って牧場をはじめていたのだった。

©bathysphere ‐ To Be Continued ‐ Ascent film ‐ Chipangu ‐ Frakas Productions ‐ Pandora Film Produktion ‐ Arte France Cinéma

 アルチュール・アラリ監督による映画『ONODA』は、仲野太賀演じるバックパッカー、鈴木紀夫が映画の舞台となるフィリピン・ルバング島に到着するシーンから始まる。私自身が青春時代にアジアを旅していたこともあって、映画の冒頭から高校生の時にブラジルに行った記憶が私の中に蘇り、ちっぽけな旅であったかもしれないがひとりで海外の見知らぬ土地を踏む瞬間の不安と高揚感を思い出した。だが同じように“たったひとり”で、と太平洋戦争末期のルバング島に来た小野田少尉の語る言葉が、逆にバックパッカー鈴木紀夫や私とは決定的に異なる部分を際立たせている。当然である、彼は自らの意志で行ったのではなく“たったひとり”で派遣されて行ったのだから。
 小野田少尉が一般の他の将兵とは異なり、陸軍中野学校出身であったことは案外知られていないのかも知れない。中野学校は設立当初に諜報、謀略をはじめとしたスパイ養成訓練所から始まって、その後戦争が続くなかで破壊工作、ゲリラ戦など秘密戦を専門とした特殊部隊員を養成する機関へと変貌していった。増村保造監督作品である『陸軍中野学校』(1966)は主人公が軍服の着用を禁じられ、スーツ姿で市井に溶け込むスパイへと変身する様が描かれており、同じく市川雷蔵が主演した現代版『忍びの者』(1962、山本薩夫)であったが、実際の中野学校においても訓練カリキュラムに“忍術”の授業が設けられていたという。そして『ONODA』で描かれる中野学校は戦争後期であるため、スパイ養成所というよりは映画でいうと『地獄の黙示録』(1979、フランシス・フォード・コッポラ)のカーツ大佐の所属したグリーン・ベレーなどの対ゲリラ戦特殊部隊と考えて間違い無いと思う。
『ONODA』で描かれる中野学校でのシーンでは遠藤雄弥演ずる小野田少尉が最初から最後までたったひとりで生きざるを得ない宿命を背負った人物であることが描かれる。破壊された教室に、みなし子として横たわる小野田少尉。中野学校自体がそのようなみなし子達を選抜して意識的に集められた機関であり、だからこそイッセー尾形演ずる上官の谷口がみなし子たちの“父”として、いかに生きるべきかを指し示すことができる。大島渚監督作品にも見られるこのような儀式~イニシエーションの構図は天皇制を持つ日本の宿痾でもあり、父権的な近代国家において繰り返されてきた戦争を駆動しているシステムのひとつでもある。「自由に生きて生き延びろ、父の名においてこの戦争を遂行する限りは」ジャングルに入って撤退戦を続ける日本軍の中においても小野田少尉は常にたったひとりで父親を探している。あるいは探し求める父親を自ら演じている。
 だが『ONODA』において丹念に描こうと試みられているのは小野田少尉がそのような観念の“父”とはもう二度と出会えない代わりに出会い、共に生きざるを得ないただの人間の現実、ジャングルという名の自然である。故に小野田少尉の行為は「危機的状況においては少数精鋭を選抜してつくれ」と指揮上の最小単位であるたった4人の小野田分隊となってからは、常に滑稽とも思える空回りに終始しつつも、その中で小野田少尉自身が少しずつ変化していくのである。井之脇海演ずる赤津勇一はおおよそ兵隊には向いていない臆病でナイーブなただの青年として描かれ、カトウシンスケ演ずる島田庄一は家族を残して村から徴用された百姓そのものだ。ある晩に島田が赤津に対してとる行為は、軍隊における同性愛というよりはむしろ村という共同体の持つ母性的な行為の顕われを描いているように思える。小野田少尉と最後まで共にいた松浦裕也演ずる小塚は、農家の三男で特に取り柄も無い穀潰しで軍隊に入るしかなく、持ち前のノンキな性格とコス狡さでなんとか生き抜いている典型的なヘイタイサンを想像させる。崇高な理念も強靭な意志もなにも無い、美しくも残酷なジャングルの中でじゃれ合い、醜くもあわれな人間をただ生きている。だがそこでは小野田少尉はすくなくとも孤独ではなかった。あるいはそこではじめて小野田少尉は自分が今まで“たったひとり”だったということに気付きはじめる。ジャングルから海へと辿り着いた時に分隊は既にたった2人でしかなかったが、小野田少尉は観念の“父”から遠く離れ、浜辺で水平線を眺めながらはじめて自分の家族というものを感じたのかもしれない。小野田少尉と小塚金七が成年期となり津田寛治と千葉哲也によって演じられてからは兄弟のような夫婦のような、あるいは山里の爺さん婆さんのような暮らしの中で以後すでに死んでしまった家族たちを「忘れない」と悼むことが彼らの人生となったのだ。
 しかしそんな楽園もまた一発の銃声によって終わりを迎える。戦争は否応なく家族を殺し合わせ続ける。花と実の下には常に死体が埋まっている。ジャングルから出た小野田少尉の前に降り立ったのは、かつてあんなにも探し求めた“父”ではなかった。それは戦争から忘却、そしてまた戦争へと向かうシステムの成れの果てだ。30年の歳月を経てふたりの立場は逆転している。もはやシステムから用済みになった谷口こそ“みなし子”であり、小野田少尉はジャングルの中で生き、歌い、死んでいった家族を悼み弔いながら、ただ涙する“父”となっていた。

 

 ブラジルでのホームステイも落ち着いた頃に、神父さんと共にカンポグランデの小野田牧場を訪れた。多くの牛が放牧されている牧場の柵の前の、木でつくられた看板に「FAZENDA HIROO ONODA 」とある。下にはポルトガル語で家畜を意味する言葉が見える。用務員のおじさんに聞くと小野田さんはその時たまたま日本に帰国していて牧場には居ないんだよと答えてくれた。神父さんが「小野田さん、やっぱり日本に馴染めなかったみたいだね。あんなビルだらけの世界よりも自然がいいってブラジルに来たんだよ。大変な苦労をして牧場を開いて。今じゃ名士なんだけど日本でもスクールをやるみたいだよ」と言った。高校生の私は広大な牧場で寝そべる牛たちを見ながらなんとなく納得してしまったのを覚えている。その後小野田さんは子供たちにキャンプやアウトドアを教える「自然塾」活動を日本でも続け、小野田さん亡きあと自然塾は今も続いている。

相澤虎之助(あいざわ・とらのすけ)

1974年埼玉県生まれ。映画監督、脚本家。早稲田大学シネマ研究会を経て空族(https://www.kuzoku.com/)に参加。『国道20号線』(2007)『サウダーヂ』(2011)『チェンライの娘』(2012)『バンコクナイツ』(2016)『典座 ―TENZO―』(2019)など富田克也監督作品の共同脚本を務めている。監督作に、『バビロン2 THE OZAWA』(2012)など。瀬々敬久監督と共同脚本を務めた『菊とギロチン』(2018)で、キネマ旬報ベスト・テン日本映画脚本賞を受賞。

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