愛の発明

秦宗平

 私たちが生きる時間は、一人きりでいる時間と、誰かと一緒にいる時間の二つに分けられる。そして、一人でいる時間とは文字どおりの意味だけでなく、いつだって、私にとってだけの誰か(何か)がそばにいない時間、というものを措定している。いてもいなくても、誰かという存在が、私たちが生きるすべての時間に横たわっている。
 映画作りをああでもないこうでもないと、もがき楽しんできた映画作家、マチュー・アマルリックの新作『彼女のいない部屋』は、家出をした女性の物語、のようである。一人で車を走らせているクラリスは、夫のマルク、娘のリュシー、息子のポールがそこにいない時間から逃避し、そこにいる時間をいつくしむ。彼女は、すべての時間を懸命に生きている。

 クラリスたちの家に一枚の絵がかかっている。屋外のスタンドで若い母親と娘、息子の三人がアイスクリームを食べている。遠くから見えたときはじめ写真と見まちがう、フォトリアリズムの方法で制作されたロバート・ベクトルの“Fosters Freeze, Escalon”は、カリフォルニア・エスカロンのファーストフード店での、作家個人が目にした光景が絵画になったものである。写真を用いた画法による平面性の冷たさへの誤解からか、はたまた画家自身の姿が描かれていないからかわからないが、この絵画は物語性の不在を指摘されることがあるらしい。絵画の手前、机の上にぽつんと配されたサングラスをリュシーはつまむふりをしてふっとほほ笑み、アイスをほおばる母親の腕を静かになぞる。ベクトルの否定されかけた物語が、リュシーが一枚の平面と指先でたわむれることで再生したかに見える瞬間は、私を次の場面に立ち戻らせた。
 リュシーのピアノを聞いて、音階の練習だけではなく、曲を弾いてほしいとクラリスは呼びかけた。リュシーはドビュッシーを弾いてリクエストに応え、クラリスはそれをほめる。それに対してリュシーは、映画の主な語り手となるクラリスに、「それらしい物語」を考えるように求めた。「それらしい物語」とは何だろうか。“私”にも話して説明のできる物語? つじつまの合う物語? さまざまな時間と場所を行ったり来たりする『彼女のいない部屋』におとずれる涙の源とは、謎が解きほぐされ、すべての映像が一つの物語につながる鮮やかさではなく、映画が進むにつれてクラリスたちに何が起こるのかがしだいに理解されるにせよ、一つひとつの映像がどこにあったのか、いつにあったのかを鈍らせるたしかさの欠如のなかで、現実につかみ取ることのできる、愛の手ざわりである。

© 2021-LES FILMS DU POISSON–GAUMONT–ARTE FRANCE CINEMA–LUPA FILM

 クラリスはディスコにおいて、ほとんど初めて出会ったらしいマルクと、同じ銘柄の煙草を持っていることに気づき、同じ箱から一本ずつ煙草を取り出し、差し出し合う。ささいな出来事がこれほど忘れられない場面として何度もよみがえるのは、それに続くダンスと抱擁、車に乗り込むまでの、唯一、家族のすべての始まりに位置した時間といえる、美しい出会いを描いたことばかりが理由ではない。愛の、感情の萌芽を、小さな事物の交換に見出したからだ。(アメリカのショー・ダンサーたちと巡業公演を行う、興行師のジョアキムを監督のアマルリック自身が演じた『さすらいの女神たち』でも、ジョアキムがやがて愛に至るミミに初めて正面から向き合い、彼女に触れたのは、ミミのつけまつげを剝がしてあげたときだった。つけまつげのお礼に、ミミは滑稽なやり方でジョアキムの口髭にお返しをしたことを思い出す。)
 そんなときにふと頭をよぎるのは、クラリスがうつ伏せのマルクに近づくと、彼は左腕を伸ばし、手のひらを上にして眠っていたときのことだ。ほとんど全身がタオルケットに覆われている薄暗闇のベッドでは、不自然に外に開いた白い手のひらがことさらに光って見える。ここで私はまったく独りよがりの戯れ言として、強く握りしめさえしなくても、目の前の相手をいつくしんで、あるいは思わず、その手のひらに自分の手のひらを重ねはしないかとつぶやいた。クラリスはそれをしなかったからだ。家族の不在への悲しみとして、クラリス、リュシー、ポールには慟哭が声になってあらわれるが、マルクにはそれがなかったことも、取り逃がした大きな存在を思い浮かばせる。

 愛はかたちのないもの。時として世の中で聞かれるそんな言い草に納得もしなければ反駁もせず、先人が試みてきた定義も知らぬままに、ふと考える。愛は頭の中にあるものである。それでは、私たちが知っているつもりでもやっぱりのぞき見できない他人の頭の中が、〈かたち〉として目に見えうる場所はどこか。それが映画だと言うことは許されるだろうか。
 クラリスの頭の中の物語は、クラリスたち家族にとって、ヴィッキー・クリープスやマチュー・アマルリックにとって、納得できる物語(「それらしい物語」?)に離れては近づき、近づいては離れていく。彼らにとって、また観客にとっても、手の施しようのない悲劇だけが残るかもしれない。しかし、クラリスたちにも私たち観客にも、みじめで無謀かもれない過去をもがく現在があり、それらを確認した先に、未来がありつづける。
 クラリスの頭の中を一つ二つでもたしかな映像として「見えた!」と実感できたとき、私たちはこれからの人生を生きることが楽しみだと思う。軽薄な発言が過ぎるだろうか。クラリスと家族の間にある、言葉の応酬。スクリーンと観客の間にある、信じる気持ちの往来。車、ライター、魔よけのドリームキャッチャー、二本の煙草…数えられるものが画面と画面で一対一につながっていく自然な営為をとおして、アマルリックが私たちの信頼を待ち望んでいる。「きみを永遠に愛するよ、きみは愛してくれる?」「きみが必要だ、きみは必要としてくれる?」と映画のなかで繰り返し聞こえてくる、J・J・ケイルの“Cherry”のように、一に対して一を追求する過程に、私たちは純粋にうなずくことができるだろうか。撮影によって絶対の過去だけが記録された映画が、はるかな隔たりを超えて、観客の限りない未来に開かれているために、マチュー・アマルリックは愛の発明を試みつづける。

←戻る