喚起する音、そして悲しみを取り戻す

養父緒里咲

 クラリス(ヴィッキー・クリープス)は、並べた写真を神経衰弱のように合わせていると思うと、「やり直す」と何度も口走りながら、写真を叩きつける。写真には、家族や家の中が写っている。これらの写真や、「やり直す」という言葉は、今までやってきた何かが、彼女が求めるものと違っていることを思わせる。彼女は、写真に写っている何かあるいは写っていない何かに不満があるために、家族との関係をやり直すのか、過去をやり直すのか、それとも自分の人生をやり直すのか。

 彼女が家を出る直前、落とした鍵がピアノの鍵盤を叩く。その一音が鳴った瞬間、画面の中に流れる時間が変わってしまったように、誰もいないはずのダイニングからリュシー(アンヌ=ソフィ・ボーウェン=シャテ)とポール(サシャ・アルディリ)の声が聞こえ、クラリスのいない朝食が始まっている。他方でクラリスは、ひとり車に乗り「家を出た」と想像してると言い、家出をしていて、どうすれば良いのか、家族が自分についてどう思っているのかについて悩んでいる。しかし、彼女が家を出た理由が必要だと言ったことに対して、家族が話し合っている。クラリスと他の家族3人の思考が、一致しているのだ。それだけでなく、家出をしたクラリスとマルク(アリエ・ワルトアルテ)は頭の中で直接会話し、リュシーとノートを通じて会話する。正直、最初は意味がわからなかった。かと思えば、4人揃って庭で話をしていたり、ポールがママを捨てたのはパパだと言ったりする。このことから、それまで感じさせられていた違和感の正体のひとつは、クラリスの言っていることや考えていることは、何かが現実と違っているという点にあるのかもしれないと気づく。過去や現在、彼女の妄想が入り混じっている。この映画は、最初のピアノの一音から始まり、さまざまな音とともに、画面に流れる時間の性質の変化みたいなものを幾度も重ねていく。私は、この変化が起こるたび、クラリスが彼女の頭の中に流れる時間や、現実の過去、現在を行き来し、時にはそれらを複雑に絡め合わせてしまう様を、目撃しているのだと思った。

© 2021-LES FILMS DU POISSON–GAUMONT–ARTE FRANCE CINEMA–LUPA FILM

 クラリスの家族が行方不明になり、亡くなっている可能性が濃厚であることが明らかになる雪山の場面で、捜索隊員は、雪崩の影響によって遺体の捜索は春まで待つしかないと言う。クラリス以外家族の時間は、おそらくもうここで止まってしまっていることがわかる。ここでも、無線のノイズと共に再び緊張が走る。しかし、これまでの、クラリスが見てあるいは考えていると思われる家族の時間は止まっていないようにみえる。彼らは、彼女の思考から逸脱するように動き考え、クラリスの不在に苦しんだりもする。クラリスは無意識のうちにか、彼らの時間を過去に戻し、そこから妄想の未来に向けて彼らとともに自身を動かしているかのようだ。しかし彼女自身の時間は、彼女が経由するはずだった悲しみがどこかに置き去りにされたまま、進んでいる。本来であれば、突然に止められてしまった家族の時間とともに、彼女も立ち止まり、悲しみと向き合う時間があったはずである。しかし、それが春まではできないが故に、彼女は妄想の未来と過去と現在を行き来し、本当の未来に向かって動けず、停滞している。クラリスは、身体だけでも乗り物の力を借りて動かせば、何かが変わるかもしれないと考え、その何かという最後の頼みの綱を渡り歩く。まるでそれは『雨のなかの女』(1969、フランシス・フォード・コッポラ)のナタリーであり、『ドライブ・マイ・カー』(2021、濱口竜介)の家福やみさきであるように。クラリスの停滞は、ピアノの上手い少女(ジュリエット・バンヴェニスト)を成長したリュシーに重ね、その少女はピアニストのマルタ・アルゲリッチであり、自分はその母親だと思い込むまでにする。そして、成長したポール(オーレル・グルゼスィク)、マルクと共に、同じダイニングで食事をしている。

 『ドライブ・マイ・カー』の家福は「僕は深く傷ついていた。気も狂わんばかりに」と言って、自分が置き去りにして見ないふりをしていた悲しみを取り戻し、もう一度舞台に立ち、悲しみと共に生き直す。自分自身にとって、無視しなければ気が狂ってしまいそうな悲しみが降りかかってくる時が、きっと誰しもある。そんなとき、本当をやり過ごすことで自分を守り、コントロールしなければ、文字通り気が狂ってしまってもなんらおかしくない。しかし、悲しみの中には、その人にとって大き過ぎるが故に、置き去りにしてやり過ごしているうちに、その人自身の時間の進行を妨害するつっかえとなってしまうものがある。そうなってしまったとき、たとえ時間にずれがあったとしても、やはりその悲しみに向き合う必要がある。妻の音に対する怒りと悲しみをやり過ごした家福は、舞台に立つことができなくなり、悲しみを置き去りにせざるを得なかったクラリスも、やはりそのつっかえにぶち当たる。彼女は、危険なまでに現実と妄想の未来を複雑に絡め、近づけ過ぎてしまった結果、その姿にリュシーやポールを見ていた他人の少年少女は、少女の奏でるリゲティ「ムジカ・リチェルカータ」の激しい音に取り込まれるように取り乱し、彼ら自身の手でクラリスの妄想の未来を壊してしまう。さらに、クラリスは少女の現実の実技試験をもぶち壊してしまい、警察まで呼ばれかける。クラリスの人生にあったかもしれない、失われた未来の大きさを考えれば、やり過ごすことすら困難を極めるのは当然のことだともいえるのだろう。

 家福とみさきが上十二滝村に到着した時のあの全くの無音の時間を通して二人は、置き去りにしていた、あるいはされていた悲しみを取り戻す。クラリスにも、悲しみを取り戻すことができる、その瞬間が春になってやってくる。そこで鳴ったピアノの一音とともに、クラリスの中の時間がまた変化したといえるだろう。彼女は、もう一度写真を神経衰弱のようにめくっていても、「やり直す」とは言わない。「引っ越す」と言うのだ。マチュー・アマルリックはパンフレットのインタビューで、「家は第五の登場人物だ」と述べている。家とは、そのものがそこに暮らした人の時間の蓄積であり、その全てが複雑に絡み合った場所だ。クラリスがそのような場所を離れることは、停滞を、悲しみを取り戻すことで打破したが故にできる行為なのではないだろうか。

 『彼女のいない部屋』は、悲しみを置き去りにせざるを得なかった女性が、悲しみを取り戻すためのもう一つの物語を編み直す。そしてこの映画の複雑さとは、図らずも背負ってしまった大きな悲しみと相対した時に生じる表象の連鎖によって導かれている。それをこの映画は、特徴的な音や音楽の使い方によって、スクリーンを見つめる者たちの身体へと直接に訴えかけてくるのである。私は、クラリスと同じ悲しみに出会ったことはおそらくないと思う。ただ、『彼女のいない部屋』には、私自身がやり過ごしてきたのかもしれない(小さいか大きいかは計りかねるが)一つひとつの悲しみや、これから先に待ち受けるやり過ごしてしまうかもしれない悲しみについて、あるいは他者のそれらについて、その複雑さに思いを馳せなければならないと思わせられるのだ。

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