新しい映画への旅

© 2025『旅と日々』製作委員会

 雪国にやってきた李が、昼頃に立ち寄るうどん屋では、長年夫婦で店をやってきたらしき老齢の男女が、無言で意思を伝えあいつつ、一方が自動点火式ではない古い型のガスコンロでうどんを調理し、一方が丼に盛りつける作業を手際よくこなす。出てきた湯気の立つうどんを、なぜか眼鏡をかけたまますする李の席に面した窓には、古びた蒸気機関車の写真のポスターが貼られている。ポスターの機関車は、リュミエール・シネマトグラフの『列車の到着』とだいたい同じ角度で李に向かってくるように見え、ポスターの下の隙間から、窓外の道路を行き交う車の気配が伝わってくる。
 昼のうどん屋には「日々」のひとかたならぬ厚みが確実に存在していたのに対し、夕暮れ時に李が辿りつく、雪に埋もれた一軒宿は、丹精して作り込まれた古めかしい外観内装にもかかわらず、幾多の「日々」の紆余曲折を経てきた気配は不思議と薄い。宿の主人のべん造(堤真一)は「みんないねぐなった」という喪失を抱え、李は宿の中を見回して、いなくなった者たちの痕跡に気づくが、こちらも李につられて宿の中を見回してみると、李が目を留める学習机を改造したらしき巣箱に子どもの字でクレヨン書きされた「ピョンちゃん」の名や、つげ義春「枯野の宿」と同じ図柄の襖絵の他にも、気になることが出てくる。
 たとえば、現役のかまどと囲炉裏を炊事暖房に使いつづけているらしい室内で、室内干しの洗濯ものにも襖障子にも、煤のあとがないのはなぜか。あるいは、無線有線のインターネットはもちろん、テレビもなしに暮らしている様子のべん造が、李に「ユーモアがあるドラマが見たい」「いい作品とはどんだけ人間の悲しさが描けているか」と説くドラマについての見識は、何を見て培ったのか。べん造の宿は、審美的に統一された「古めかしさ」のコンセプトを表現しているように見える一方、家族と共に暮らした生活の歴史は見えにくい。少なくとも、そこで子どもが生まれ、すぐに用済みになって片付けに困るあれこれを、つかの間だけ必要としながら成長していた「日々」の痕跡は、ウサギの巣箱ひとつを除いて見あたらない。
 べん造の宿が「新しく作られた古いもの」に見えるということは、『旅と日々』の後半でわれわれが見ているのは、実際に旅に出て雪国の宿に泊まった李の体験そのものではない、ということではないかとも思われてくる。べん造と連れ立って出かけた寒夜の魚とりの冒険から宿に戻ったところで、李は冒頭でシナリオを書きはじめて以来しばらく絶えていた笑顔を見せ、ハンドジェスチャーを交えつつ、「私たちが雪の中を歩いている景色を遠くから見たら、どんな趣なんでしょう」と口にする。その時点で、山のふもとに茅葺の一軒家が立つ野原を、笠をかぶって桶を背負ったべん造と、タモ網をかついだ李が歩いてゆく、今にも笠地蔵と行きあいそうな夜の雪景色の趣を、われわれはすでに遠くから見て知っている。それはもちろん『旅と日々』という映画の一場面だったわけだが、それだけではなく、前半で映写された「海辺の叙景」の映画版に続いて、李が再び書き上げたシナリオから作られた、もうひとつの新しい映画の一場面だったかもしれない。

© 2025『旅と日々』製作委員会

 過去の喪失を抱える者同士のべん造と、夜の冒険を共にすることで、李は、現在の喪失や不遇、それゆえの迷走を、一歩進んだ未来から顧みて面白がる視点を得て、冒頭の生き生きした表情とハンドジェスチャーを回復し、ラストシーン近くで鉛筆を手に創作を再開する。しかし、李の再開した創作の成果は、『旅と日々』のラストシーンより後の「未来」に出現するものかというと、われわれは李とべん造の出会いと冒険の新しい「映画」を、それとは知らずにすでに見ていたのではないか。
『旅と日々』の後半では、たびたび画面に川が映し出されるが、水面では流線と風の立てるさざ波が複雑に入り組み、流れの方向を見きわめるのはたやすくはない。映画の中の時間も、澱みなく流れつづけているようでいて、過去と現在と未来の連環は、容易には見きわめがたく入り組んでいる。そして、そこからは喪失と回復の気配のさざ波が立ち、心を騒がせつづける。

鷲谷 花

映画研究者。大阪国際児童文学振興財団特別専門員。専門は映画学、日本映像文化史。単著に『姫とホモソーシャル:半信半疑のフェミニズム映画批評』(青土社)。共編著に『淡島千景:女優というプリズム』(青弓社)。近年は近現代日本の幻灯(スライド)文化についての調査研究及び、幻灯機とフィルムを用いた一般向け上映活動にも取り組んでいる。

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