April2002
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□30日(火) 日本対スロヴァキア
■25日(火)『HIGHVISION』SUPERCAR
□23日(火)『家路』マノエル・ド・オリヴェイラ
■23日(火)『孤高』フィリップ・ガレル
□23日(火)『孤高』フィリップ・ガレル
■7日 (日) 『フリル [ミニ] wild』 珍しいキノコ舞踊団







 

 

■30日(火)
日本対スロヴァキア

 ワールドカップの準備も最終段階に入った。メンバーを固定し、どんな闘いをするのか明瞭にする時期にきた。イングランドではエリクソンと首脳陣が会議を開き、キーオンを最終の23名に入れるかどうか長い話し合いがもたれたと聞く。そんな時期に、未だにテストをしている監督がいる。それも開催国の監督だ。この期に及んで何を考えているかと訝しく思う。トップ下の中村俊輔はともかく、右サイドの柳沢は、驚きを通り越して、開いた口がふさがらない。フィリップ・トゥルシエが完全に育成型の監督であることを示している。われわれはこう闘うのだという理念を徹底してたたき込む時期だ。自らの戦術についての頑固さがないのは困る。FWのテストは仕方がないし、バックアップ・プレーヤーの店晒しも必要だ。しかし、ゴロゴロ選手を変え、チームとしてまったく機能しなくなる様を見ていると、この監督は予選リーグに入ってからも、ビーカーに入った諸要素の混合を見るラボラトワール(実験室)を続けるだろうという危惧を抱いてしまう。そんなテストを続けるためだけに3年以上も監督を続けてきているのだろうか? コスタリカ戦もスロヴァキア戦も戦術がないとう意味では、まったく同じ後半の様相だ。どんなフットボールをしたいのか見ている者にまったくわからない。選手にもわからないだろう。バタバタせず、こうすれば勝てるから、言うことを守れ!という威信を背景に確信を込めて闘うことがこの時期の監督に要求されることだろう。フラット・スリーが好きならそれでいい。戸田が好きならそれでもいい。いつも明神を使いたいなら仕方がない。スリーバックのセンターにフィジカルの弱い選手を起用し続けたいなら仕様がない。でも「どうしよう。どうしよう」とテストするのはせめて紅白戦にでもしてほしい。この時期には堂々と闘って完勝し、チームに付けさせるときだ。「俺たちのやってきたことは正しい」という幻想を強く植え付ける時期だ。

(梅本洋一)
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■25日(木)
『HIGHVISION』SUPERCAR

 前作『Futurama』から1年半。スパーカーの4thアルバム『HIGHVISION』のジャケットは“森と湖と太陽”、である。それは鮮明なヴィジョンって訳じゃない。写真のことはよく判らないけど、露出が過剰っていうか、粗いっていうか。手に触れるとざらざらしそうな、そんな醜くもあり美しくもある、不思議なジャケである。
 このアルバムでスーパーカーは、プロデューサーに砂原良徳と益子樹(ASLN/DUB SQUAD/ROVO)を迎えている。ROVOやAOAのような野外でレイブを行なうグル―プと、渋谷系と呼ばれる、気に入った音楽をサンプリング/エディットするセンスのいい編集者としての特性は、90年代、対極にあった2つのものかもしれない。かたや説明無し理屈ぬきの、同じリズムがひたすらに反復されることによる恍惚感という非日常。かたや、「ゆっくりと時間をかけて、きょうは、シャンプーしよう」とか、どーでもいい些細な風景を描写する日常のことば。かたやどこぞと知れぬ名前のない森の中。かたや、―渋谷、宇田川、原宿。タワレコ、ZEST。―街とレコード店という“記号”なしには渋谷系なんて存在し得なかった。90年代という私達の世代の日常の風景とは、記号としての風景だった。言うまでもなく、その風景は“readymade”なのだから。
 <例えばトランス系の野外のイベントの方にハマっていくような人が割に目に付いた。でも「一生田舎に住むのかって」言ったら「う〜ん」みたいなところもあるだろうし。「森に行けば何かが救ってくれる!」みたいなの「違う!」って思ったんですよ。『東京に残って頑張りたいみたいな(笑)』 山本ムーグ(バッファロー・ドーター)MARQUEE vol.28より>
 スーパーカーの『HIGHVISION』の森と湖と音楽は、ざらざらして美しくもないし、何も救ってくれない。この粗い陽の光。どこかで見たことがあると思ったら、クラブ帰りに始発電車を降りて駅から家まで歩く、“朦朧としても頭はたしか”、で見る朝日と似てたのだ。

(澤田陽子)
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■23日(火)
『家路』マノエル・ド・オリヴェイラ

「Je veux ,,, rentre a la maison.」 ラスト近くでミッシェル・ピコリ演じる老優は、このように呟いて撮影現場を去る。「私は家に帰りたい」から「私は家に帰る」へと、奇妙に長い沈黙を挟んで言い直した結果、この台詞はフランス語の基本的な文法を破ってしまっている。「私は家に帰りたい」とは、現在実現されていない行為を、未来において「為したい」という発話者の意思の反映である。一方「私は家に帰る」とは、主体的な意思とは無関係な、ひとつのテーゼである。一見似通っていながら、その実大きな差異を持つ二つの単文から、ミッシェル・ピコリは後者を選び取る。
 『家路』における説話論的構造、あるいはそこに映し出されるオブジェの形態を幾何学図形で表すならば、それは円ということになるだろう。時間軸に沿って上昇する円周運動、すなわち螺旋運動こそがこのフィルムの基本運動である。ここに、この映画において唯一フランス語を話さない、アメリカ人映画監督ジョン・マルコヴィッチの異邦の身体がねじ込まれ、彼の発する奇妙にアクセントのずれた「Action !」が反復されることによって、「Action」も「Acting」も次第に不可能になり、螺旋運動は大きく軌道をずらしていく。
「私は家に帰る」とは、「私はこの映画において、家に帰る存在である」ことを再確認しているようにも思えるし、さらに言えば「この映画は本来、家に帰る映画である」とまで敷衍されよう。すなわち、現在の錯乱状態を脱し、本来的な螺旋の運動に回帰すべく、彼は「家に帰る」のだ。だから、決して彼は「私は家に帰りたい」とは言えない。彼の意思ではなく、映画そのものが彼の帰宅を必要としているのだから。
 こうしてミッシェル・ピコリは孫の待つ家に帰る。果たして次の日の朝も、孫は老人の部屋へ挨拶をしに来るのだろうか。老人は自室の窓から孫を見送るだろうか。その答えが我々に与えられることは無いが、ミッシェル・ピコリが初めて見せる(こう言って良ければ、老いを滲ませた)力無い歩行と、階段の踊り場から消えていく彼を見つめる孫の、宙吊りにされた視線を真正面から捉えた、この映画において特権的なクロースショットによってフィルムが終わるとき、やはり我々はいくらかの味苦さを覚えるのだ。『家路』の原題である『Je rentre a la maison』(私は家に帰る)は、極めて自己言及的なタイトルなのだが、同時にそうした自己言及に収まりのつかないショットであっさりと自分自身を裏切ってみせるオリヴェイラは、やはり今最も興奮させてくれる作家のひとりなのだ。

(中川正幸)
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■23日(火)
『孤高』フィリップ・ガレル

 瞳が開かれてから完全に閉じられるまでの宙吊りの80分。ベッドに入って寝付かれずに身体を転がしている時間。ときにまぶたが落ちかかり、ときにはっと眼を見開きつつ、完全には覚醒せずに記憶の混濁の中にいる。そう易しいものでもない。気付けば鼻の頭に、手のひらに、脇の下に、額に、汗を浮かべている。首の裏の変な筋肉が痙攣している。
 ティナ・オーモンの厚ぼったいまぶたの半開きの眼。
 ニコの濃く引かれたアイラインに囲まれた色素の薄い瞳。カメラに向かってやや右側を睨む苛烈な眼。
 ジーン・セバーグの立派なまつげの伏し目がちな瞳は『夜風の匂い』のカトリーヌ・ドゥヌーヴに受け継がれる。
 セバーグはすっぽりとかぶったフードをはずしざま正面に向き変え、笑む。窓辺で振り返り笑む。帽子の中に髪を詰め込んでヴェール越しに笑う。全てが最高の笑顔だ。それを言葉にする徒労の間に、あらゆる笑顔が崩れ去る。まぶたが閉じかけ、伏し目がちになる。口角が下がり、力をなくす。
 うなだれて、決まって彼女らは皆、横を向く。鼻筋の形が、唇の盛り上がりが、筋力が失われ表情がなくなっても揺るぎなく存在する強固なシルエットを浮かび上げる。「横顔がローレン・バコールに似ている」『ミニー&モスコウィッツ』のジーナ・ローランズを、混濁した記憶から脈絡無しに引き上げてしまった。それでなくとも混乱している。あの人のまつげは、瞳は、鼻筋は、唇は、左目の下のほくろは、ある瞬間、15年前の女性に似過ぎている。笑顔が消え、うなだれて、横を向く。瞳が閉じられる。
 例外的なショットを除きほとんどのシーンにおいて、4人の登場人物はひとりきりでカメラに捉えられる。それぞれがあるものの表面と格闘している。窓ガラス、カーテン、シーツ、毛皮のコート、涙の形をした模様やら菱形の模様やらが継ぎ合わされた壁紙、よく磨かれたテーブル、マントのフード・・・・・・まったく不規則に光を放つ端切れのフィルム・・・スクリーン。

 

(結城秀勇)
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■23日(火)
『孤高』フィリップ・ガレル

 彼女たちに刻まれたシワ、しめった唇、まつげに黒々とのっているマスカラ、ふわっと拡散する白い息、充満するタバコの煙、薄くなった眉毛。それらは彼女たちの場所、存在を特定するのに十分な証拠である。 
 彼女たちのまなざしが、カメラに向けられる。年を偽るために化粧をしているのではない。なぜなら、そこには化粧をしている人間があらわになっている。化粧は、女性を別人にするのではない。化粧をした人間、化粧をする必要があった人間であることが分かるだけだ。
 束ねていた髪をほどきタバコの煙を吐く。髪を掻き上げて、上目遣いでこちらを見る。動作ひとつひとつを収めるカメラは、実は動作を収めているのではない。その時間、その瞬間を生きた彼女たちの歳を焼き付けているのだ。円熟でも若さでもない。ただ、生まれてからその瞬間まで生きてきた、時間が歳である。だからといって、彼女らがいくつであるかは問題ではない。何の説明もないのに、彼女たちの歳が見えてくる。それはどれだけ生きたとか、若く見える、老けて見えるといったこととは無縁で、目線や仕草、肌や髪の感覚に彼女たちの過去が存在すると確信できること。つまり、彼女たちに向けられたカメラは、人間の歳を無情にも切り取る。
 声は聞こえない、名前も分からない、物語もないこのフィルムによって、スクリーンに映される彼女たちが生きていたことにやっと気がついた。

(瀬田なつき)
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■4月7日(日)
『フリル [ミニ] wild』 珍しいキノコ舞踊団

 人間はともかく一日中ずっと動きまくり、どんなに本人は動いていないつもりであっても、目が動いていたり、呼吸で胸が上下したり、なにしろ動かないでいることは動いていることよりもずっと難しい。そして服にフォーマルな服とカジュアルな服というのがあることと同じように、絶え間ないアクションにもフォーマルな瞬間とカジュアルな瞬間がやはりあり、例えば、待ち合わせ場所で友人を発見して手を振るそのアクション。例えば、なりふり構わず思いっきり走っているそのアクション。例えば、疲れてごろごろ床を転がるそのアクション。例えば、おもちゃを買って欲しくて洋服を引っ張ってだだをこねるそのアクション。それらは皆、カジュアルなアクション。フォーマルなアクションにはありうべき「型」があるのと違って、生まれたときより好きなように修得してきたそんなカジュアルなアクションには「あなた」が色濃く転写 される。正確に言えば「あなたの身体のパーソナリティ」が、そこには強く表されてしまっている。

 ダンスは、アクションと身体によってコミュニケーションの場をつくってしまうが、カジュアルなアクションが表現者の確かな身体によってフォーマルに空間に出現したとき、つまりはカジュアルなアクションを鍛えられた身体を通 じて構築することでダンスパフォーマンスというコミュニケーションの場がなりたってしまったとき、そのコミュニケーションの広がりのなかには確かに「あなた」や「私」が転写 されているはずだ。

 珍しいキノコ舞踊団は、とびきりカジュアルなアクションをどっかから一杯集めてくる。それを、カジュアルな、無意識な、個性的な感じを失わないように、くっつけたり離したり積み上げたりしながら一つ一つを丁寧にダンスへと練り上げてしまった。「フリル」とは洋服にヒラヒラとくっついた「おまけ」だけども、その「フリル」がなかったら、味も素っ気もなくなるじゃない。「フリル」こそ大事なの。と、伊藤千枝が言ったかどうかは知らないけれど、そんな「フリル」が持っている質を取り出すこと。カジュアルなアクションが持つ質を取り出すこと。『フリル[ミニ]wild』において、ダンスパフォーマンスはヒラヒラと鮮やかに拡張されてしまった。

 パフォーマンスの終盤。雷鳴をともなってwildに降りしきる雨のなかで、6人のダンサーが横一列に並び、アカペラでそれぞれ異なる唄をつぶやきながらそれぞれが異なるダンスを踊りながら、舞台手前から奥まで下がっていくシーン。押さえた照明の中で、原美術館の中庭のガラスにキノコ達の姿態が万華鏡のように写 り込み、客のレインコートが雨で繊細な打楽器の演奏のように鳴っているそのときに、そのあまりの美しさに、僕は思わず、心に叫びをあげた。



>> 珍しいキノコ舞踏団に関するちょっとした情報

(藤原徹平(隈研吾建築都市設計事務所)
)
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