July2002
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■30日(火)『ピンポン』曽利文彦
□20日(土)『ワイルドイノセンス』フィリップ・ガレル
■7日(日)『ニューヨークの恋人』ジェイムズ・マンゴールド
□4日(木)『マジェスティック』フランク・ダラポン
■2日(火)『UNloved』万田邦敏


 

 
 

 

■30日(火)
『ピンポン』曽利文彦

 卓球は、人間の反射速度の限界である0.1秒に如何に近づくかということだ、というような台詞が映画の中にあったが、映画のコマ数は1秒間に24コマだから、人間の反射速度の限界の軽く2倍の速度のものまで映画は捉えてしまうということであって、つまり卓球は映画に勝てない。
 映画『ピンポン』の中で件の反射速度を武器にするのが主人公ペコの前陣速攻なのだが、窪塚洋介が演じる彼が目にも止まらぬ動きでプレーするシーンはない。試合をヒキで捉えたショットでは素早い動きを見せるけれども、彼が真の「ヒーロー」たるゆえん、そのファンタジックなプレーは限りなく停止に近づく動きの中にある。ペコに特権的な動きとは跳躍である。県内最強の選手ドラゴンとの試合中くり出すジャンピングスマッシュ!『GO』といい『ピンポン』といい、窪塚洋介が宮藤官九郎の脚本の台詞回しに合っているのかどうかは知らないが、それでも彼の空中における姿勢というか筋肉の制御のようなものが彼の長所であると思う。冒頭の空中静止を反復することで自らが「ヒーロー」であることを証明する。
 もう一人の主役、スマイル役のARATAは対照的に、ジョギングするシーンがどう考えてもおかしい。走り方がヘンだ。ペコが運動の限界で停止するのに対して、スマイルは自らは不動のままにあらゆる運動を受け流すのだとも言えなくはないだろうが、単に演出の問題だけだとは考えられない。ドラゴン、チャイナ、アクマという登場人物がかなり忠実に原作のキャラクターのイメージをなぞっているのに対して、窪塚洋介とARATAだけが、窪塚洋介でありARATAであるままなのだ。そこで見える窪塚洋介像は宮藤官九郎の脚本を通したいつもの彼が原作に一応の折り合いをつけたというような形なのだが、一方でARATAは声だけが聞こえて、原作とか脚本とか演出とか過去の仕事とかがまったく見えない。それは彼がモデル出身で、こちらが視覚的な情報と聴覚的な情報のバランスを彼に対してうまく保てないからかもしれないし、あるいはまったくの才能かもしれない。
 つまりこの映画で真に対応不可能なものは、ピンポン球の動きをとめるペコのジャンプではなくて、ARATAの呟きなのだ。

(結城秀勇)
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■20日(土)
『ワイルドイノセンス』フィリップ・ガレル

 フィリップ・ガレル このフィルムは前半と後半に分けることができる。前半は、出来るかどうかもわからない、影も形もない映画についての映画。後半は、まさに出来つつある、名前を持った一本の映画についての映画。
 前半と後半を繋ぐシークエンスがある。映画の資金稼ぎのために、監督自らアムステルダムに行き、麻薬の運び屋をやる場面だ。そこにおそらく5秒にも満たない短いショットがある。その5秒間についてだけ語ろうと思う。メディ・ベラジ・カセムが、ガソリンスタンドで窓越しに純度90%のヘロインの入った鞄を積んだトラックが入ってくるのを眺めるシーン。ヘロイン撲滅のための映画を撮ろうとしながらも自らが麻薬の循環の片棒を担いでいる矛盾や悲愴感、あるいは犯罪行為を行う恐怖、そんなものは微塵もない。ただぼんやりと、動くものが視界に入ってしまったから目を奪われた、というだけの僅かな動き。猫のような動き。この僅かな動きをもって、映画『残酷な無邪気さ』は資金を手に入れて運動を始める。同時にヘロインの流れも運動を始める。この場面以前はある起源や過去に起因する未来のこと(ヘロインで死んだ女優の映画、監督と女優の愛)を語っていたのが、これ以降そこから切り離された(あるいはそこに完全に重なりあってしまった)ある結末、終末に向かって収束するやみくもな運動だけが描かれる。異邦の地で唯ひとり窓からの光を浴びて、気もそぞろに決定的な瞬間を眺めている男が、決定的な瞬間そのものに生成する。

「他者の不在という事態に直面するとき、われわれの動作の唖然とする程のはかなさ速度が暴露される。」(ジル・ドゥルーズ『原子と分身』)

(結城秀勇)
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■7日(日)
『ニューヨークの恋人』ジェイムズ・マンゴールド

 深く静かに60年代のコメディが現代の映画にリサイクルのために大きく貢献している。『十七歳のカルテ』という1本の得意なフィルムで注目されたジェイムズ・マンゴールド。彼の新作はメグ・ライアンを主演に迎えたコメディだ。19世紀末から侯爵がタイムワープしてメグ・ライアンの恋人になるという信じがたいコメディ。スタンリー・ケイヴェルの慧眼を待つまでもなく、純正なコメディとは、「幸福の追求」であり、「結婚(再婚)の物語」の物語であることは常識に属しているだろう。しかし、現代においてそんなコメディが可能なのか。グローバルに展開する世界は、「めぐり逢う」ことの不可能性のみを提示してはいまいか。つまり、現在時制でコメディを撮るためには、過去の世界から何かをリサイクル──サンプリング──し、それを現在時制にアダプト──リミックス──しなければならない。だが、それはジョージ・キューカーや、エルンスト・ルビッチの偉大なフィルムからの「引用」であってはならない。ビデオを通り過ぎてDVDの時代、「引用」することはいかなる創造とも無関係になった。リサイクルすべきは、もっとかすかな記憶、たとえばかつて聞いたことのある音楽のパッセージであったり、かつて訪ねたことのある場所の記憶だったりする。リサイクルの出発点はそんなレミニッサンスとも呼べるようなかすかなわずかな場所だ。『ニューヨークの恋人』に恋人同士になった19世紀の侯爵と現代のキャリアウーマンのメグ・ライアンが、アパートのバルコニーで耳を澄ます曲がある。中庭に面した裏窓の住人は、毎夜、12時までこのフィルムを見てから眠りにつくという。そのフィルムの主題歌が、ふたりの耳にかすかに届けられる。Moon River wider than the sky……。そう、『ティファニーで朝食を』。ヘンリー・マンシーニ、そしてブレイク・エドワーズ。60年代の初頭の一時期にすこしだけ花開き、ニューシネマの到来と共に忘れられたコメディの系譜が、ジェイムズ・マンゴールドの脳裏に浮かび上がる瞬間だ。何気なく聞こえてくる曲の一節が、もうほとんど不可能に近いアメリカン・コメディをもう一度立ち上がらせてくれるのかもしれない。

(梅本洋一)
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■4日(木)
『マジェスティック』フランク・ダラボン

 廃虚となった映画館のなかでハリー(マーティン・ランドー)はチャップリンからジミー・スチュワートまで幾人もの往年のハリウッドスターの名を列挙した後、彼らは神々だった!と叫ぶ。なんというノスタルジー。マーティン・ランドー演じるこの人物はこのノスタルジーによって生きているようなのだ。過去の思い出を呼び起こすことに、輝ける記憶を掘りあげることに、彼のリビドーは向かう。そして彼は、町に流れ着いた記憶喪失の男ピーター(ジム・キャリー)に彼のもっとも美しい記憶(戦死した息子ルーク)を投影する。ピーターはなされるがままに、ハリーや町の他の人々が抱く様々なルークのイメージ、彼との記憶を照射させるのである。そう、後に映画館を再興するピーター/ルークなのだから、そんな彼を白いスクリーンに譬えてもいいかもしれない。スクリーンもまたいつも、過去のイメージ、何かの記憶であるような映画を映し続けるものなのだから。
 ノスタルジーとしての映画、ノスタルジーになるチャンスを窺う映画。『マジェスティック』はノスタルジーのスクリーンに映し出されているようだ。監督のフランク・ダラボンも劇中に上映される古いフィルム(『巴里のアメリカ人』『欲望という名の電車』…)に対する愛着を隠しはしない。(ダラボン作品では、劇中映画はいつも、今ここでは抱くことの不可能な失われた感情を喚起し代弁する装置だ)。ダラボンもまたある意味ハリーである。彼の場合、ジム・キャリーはジミー・スチュワートを投影しているのだと言う。しかし本作は映画館マジェスティックのネオンのように色とりどりの記憶とイメージを艶やかにノスタルジックに光らせながらも、どこか危うくおどおどした表情をもあわせ持っている。つまり、そうしたイメージを反射させる白いスクリーンとしてのジム・キャリーの不安だ。
 ジム・キャリーといえば誰でも思い出すあの、捩じれ、変形し、歪んだ顔面。ジムの「芸」はそうした顔のイメージの過剰さによっている。その過剰なイメージを異様なまでに押し進めたのが『マスク』であり、そうしたイメージを次々に織り込み、錯綜させ、迷宮化させたのが『マン・オン・ザ・ムーン』だった。ジムの顔面はそうしたイメージのマスクの多様さ、過激さに耐えうるのである。だが、あらゆるマスクを纏えるということは、裏を返せばそうした過剰さを剥ぎ取ったジムの顔が案外何にも残 らないということでもある。だからこそ、『マジェスティック』の冒頭のジムの顔のアップには驚きとある種の感動さえ覚えてしまうのだ。そこにあるのはジムの顔のそうした「何もなさ」っぷり、何と言うべきか、「ゼロ」の表情なのだ。このことに監督ダラボンも意識的になのだろうか、『マジェスティック』はさらに彼から、まず未来(=ハリウッドでのキャリア、恋人)を奪い、ついで過去(=記憶)を喪失させ、ここに真っ白な状態のジム・キャリーの表層が立ち現れるのである。
 『マジェスティック』はジム・キャリーというスクリーンを通して多様な記憶とイメージを浮かび上がらせる。だが、ジムキャリーの不安、それはつまり彼自身にはそんなイメージも記憶も身に覚えのないことなのである。町の戦没者の名が刻まれた記念碑を見て彼は、ここに書かれた名前はみんな僕の知り合いなのかい、とアデル(ローリー・ホールデン)に問う。本当はそうではないのだから、彼らとの記憶は存在しない。だが、アデルが彼らの思い出を語って聞かせたとき、彼らとのありうるはずのない記憶がピーター/ルークのなかで蠢いていたにちがいない。そうした記憶、自分の内ではなく外にあるような、ありえない記憶にまみれながらピーター/ルークはこの世界を見つめていかなくてはならないのである。ダラボンの前作『グリーン・マイル』の死刑囚ジョンもまたそうした「外」の記憶に苛まされていたし、あるいは、ダラボンがノン・クレジットで脚本に参加したといわれる『プライベート・ライアン』で、語ることのできない記憶までも語ってしまったライアン二等兵の立っていた場所とはそんなところではないだろうか。唐突だが、こうした観点からダラボン=スピルバーグというラインもにわかに浮かび上がってくる。スピルバーグの新作『マイノリティ・レポート』や『インディ・ジョーンズ4』の脚本にもダラボンは参加しているらしい。

(新垣一平)
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■2日(火)
『UNloved』万田邦敏

 黒い四駆が駐車所のコーナーを曲る、あるいはうねった道を走る、その姿。私はそれをただただ美しいと思い、その運転席で彼がハンドルを切る様も、その横に座った彼女の顔も、ましてやそのふたりが何を話しているかなどと想像したりはしない。
 女と男と男がいて、それぞれがあれこれと自分の思いを話すけれど、それぞれがそれを理解できない。それぞれの言い分は正しくもあり、間違ってもいて、そもそもそこに正誤はない。だって、ただ1と1があって、その1と1はそれぞれ別のものなのだから。でも、ただ1と1がある、それだけでそれは2、ふたりなのだ。能動的な足し算は必要なく、コーナーを曲る黒い四駆の美しさがハンドルを回す彼とは無関係にあるように、彼女の考えは彼とは無関係にあって、ただひとりの女がいて、ひとりの男がいる。畳にしゃがみこんだ彼女の横に、彼女の足とは別の足が現れる、その瞬間があれ ばよい。それこそがひとりとひとりの、ふたりの関係だ。
 彼女と彼と彼、そしてこの映画に、田中小実昌さんが書いたこの言葉を送ろう。
「女があって男があり、男があって女がある、それが性の根本といった定義的本質的な考え方でなく、どうしようもなく、女として、男として生きている…。(中略)解決なんてことでは処理できないのを、哲学者でなくても、心やさしいひと、すなおに生きているひとは知っている。そして、こういうひとは、すなおに生きるなんてことが、とうていできないことも知っているひとたちだ。そんなところから、愛というものもうまれてくるのだろう」

(黒岩幹子)
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