■20日(土)
『ワイルドイノセンス』フィリップ・ガレル
フィリップ・ガレル このフィルムは前半と後半に分けることができる。前半は、出来るかどうかもわからない、影も形もない映画についての映画。後半は、まさに出来つつある、名前を持った一本の映画についての映画。
前半と後半を繋ぐシークエンスがある。映画の資金稼ぎのために、監督自らアムステルダムに行き、麻薬の運び屋をやる場面だ。そこにおそらく5秒にも満たない短いショットがある。その5秒間についてだけ語ろうと思う。メディ・ベラジ・カセムが、ガソリンスタンドで窓越しに純度90%のヘロインの入った鞄を積んだトラックが入ってくるのを眺めるシーン。ヘロイン撲滅のための映画を撮ろうとしながらも自らが麻薬の循環の片棒を担いでいる矛盾や悲愴感、あるいは犯罪行為を行う恐怖、そんなものは微塵もない。ただぼんやりと、動くものが視界に入ってしまったから目を奪われた、というだけの僅かな動き。猫のような動き。この僅かな動きをもって、映画『残酷な無邪気さ』は資金を手に入れて運動を始める。同時にヘロインの流れも運動を始める。この場面以前はある起源や過去に起因する未来のこと(ヘロインで死んだ女優の映画、監督と女優の愛)を語っていたのが、これ以降そこから切り離された(あるいはそこに完全に重なりあってしまった)ある結末、終末に向かって収束するやみくもな運動だけが描かれる。異邦の地で唯ひとり窓からの光を浴びて、気もそぞろに決定的な瞬間を眺めている男が、決定的な瞬間そのものに生成する。
「他者の不在という事態に直面するとき、われわれの動作の唖然とする程のはかなさ速度が暴露される。」(ジル・ドゥルーズ『原子と分身』)
(結城秀勇)
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