September2002
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■30日(月)『スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃』ジョージ・ルーカス
□29日(日)『Dolls』北野武
■28日(土)ジム・オルーク ライブ@CAY 9/16
□28日(土)「POPEYE」10月14日号
■28日(土)東京フィルメックス・ラインナップ発表会@日本外国特派員協会
□26日(木)ジム・オルーク ライヴ@CAY 9/16
■20日(金)チャンピオンズ・リーグ開幕
□20日(金)『バイオハザード』ポール・アンダーソン
■19日(木)『es』オリバー・ヒルツェヴィゲル
□17日(火)『ウインドトーカーズ』ジョン・ウー
■13日(金)『リチャード2世』クラウス・パイマン演出、トーマス・ブラシュ翻案
□12日(木)『ハムレット』ぺ−タ−・シュタイン演出
■12日(木)『ベルリン・アレクサンダー広場』ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー
□10日(火)吉田修一のインタヴュー「文学界」
■9日(月)『In Public』ジャ・ジャンクー
□8日(日)『パーク・ライフ』吉田修一
■6日(金)『チェルシーホテル』イーサン・ホーク
□2日(月)『私立探偵 濱マイク 名前のない森』青山真治
■1日(日)『カルチャー・スタディーズ 映画:二極化する世界映画』大久保賢一

 

 
 

 

■30日(月)
『スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃』ジョージ・ルーカス

 今さらですが、来るべき『エピソード3』に向けて…。
 単純に、25年もの間ひとつのシリーズが継続し、世代を超えて多くのファンを得ているというのは凄いことではある。しかし、それ故にそういった長いシリーズ(物語)は続けば続くほど、ある一定のパターンから逃れられなくなり、御法度が生じるのも事実だ。だから、例えばちょうど先日「北の国から」が完結したが、五郎(田中邦衛)を殺すわけにもいかず、倉本聴ワールド(黒板家)が状況劇場→唐組(唐十郎)とつかこうへい劇団(内田有紀、これは言い過ぎ)に乗っ取られるという形で終わるしかなかったわけだ。
 もちろん『スター・ウォーズ』と「北の国から」は物語の構造自体が違っていて、後者が最初のシリーズ以降、ひとつ(1回分)の物語のキャラクターとパターンを用いて、時間の流れに従って次の物語へ接続していくのに対し、前者はひとつの大きな物語を2つに分断(そしてそれをさらに3つずつに分断)して前後を逆転して語ろうという試みである。だから、一見したところ、『スター・ウォーズ』のほうがシリーズ全体、つまりその物語に縛られるということになりそうなものだ。そして、実際それはその通りであり、特に今回の『エピソード2』はもう既に我々が知っている結末へと駒を進めるために、謎解きと付箋貼りのためにある。
 にも関わらず、この『エピソード2』にはかつてない程凄まじいものがある。それは物語のことでもなく、ましてやSFX、CGのことでも、カメラワークのことでもなく、ジョージ・ルーカスの頑なな姿勢のことだ。この人はあくまでも「物語」を語るつもりであり、自ら物語に縛られようとしている。ゆえに既知の物語を複雑にしようとはせず、単純に物語の主線に関係のないキャラクターをやたらと増やし、しかもクラシック3部作の形態を継承させ『エピソード5』とほぼ同じ構成に仕立てるという方法を選択している…あまりにあからさまな意志。
 だから、アナキン・スカイウォーカーの行く末は少しも気にならない私でもいつの日か『エピソード3』を見にいってしまうだろう。ルーカスが果たしてこのまま突っ走ってしまうのかを見届けるために。

(黒岩幹子)
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■29日(日)
『Dolls』北野武

 北野武の『Dolls』。近松物から想を得た道行き。当然のように溝口の『近松物語』や増村の『曽根崎心中』を私は思い出してしまう。だが、もちろん北野武のフィルムとそうした〈映画的記憶〉は無縁だ。主演の菅野美穂と西島秀俊はひたすら歩き続け、ふたつの別の物語に出会う。別れたヤクザのために何十年か弁当を用意して公園で待ち続ける女。顔に怪我をしたアイドルに会うために自らの目をついてまで邂逅しようとする青年。菅野と西島の物語も含めて三つの物語が、菅野と西島の「道行き」で交錯する。もちろん北野武は近松を忠実に辿っているわけではなく、彼なりに翻案している。ひたすら「美しい日本」の自然と、山本耀司の衣装による色彩によって、北野は自らのファンタスムをフィルムに託している。エロスとタナトスの交流という主題は、自死を選ぼうとして成し得なかった北野の人生の反映である。『Hanabi』以来、否、すでに『キッズ・リターン』から通奏低音のように、この主題は北野のフィルムの中に聞こえてくる。ときに刑事という死に接する職業という形象によって、ときにヤクザという死と美学が交錯する地点において。死への衝動は、衝動であるがゆえに物語を欠き、したがって、その衝動と向き合おうとするとき、北野は必然的に「刑事物」や「ヤクザもの」という映画のジャンルを模倣せざるを得なかった。だが『Dolls』の彼がは、そうした衝動を単純に、そして素直に形象化しようと試みている。そのとき映画は、それが本来持っている現実との回路を欠落させることになる。北野の内的衝動は北野自身のものであり、現実の中で生きる私たち自身が共有するものではない。『Hanabi』以来、彼のフィルムが備えている過剰なまでの美は、あくまで彼自身に回帰するのはそうした事情によるだろう。つまり、このフィルムにもまた北野武自身が色濃く投影されていることになる。なぜ映画でなくてはならないのか、という問いは、北野が映画と絵画の通底性について多く語り、彼自身が絵筆を持つことにも由来するが、もし映画が必ずしも現実を映すものではなく、否、現実も映すのだが、同時に作り手の内的な衝動を形象化することも可能であるとすれば、このフィルムは美学的に申し分のない出来栄えで晴れやかに完成しているとも言える。
 ところで、このフィルムにおける菅野美穂は本当によかった。テレビ出身の女優が、これほどまでに「歩くこと」ができるのか。現実について、内的衝動についての考察のいっさいを回避して、菅野美穂の歩様を見つめているだけで十分かも知れない。そして同時に、私たちは、『この男凶暴につき』以来、『あの夏、いちばん静かな海。』を経由して『菊次郎の夏』に至る北野のフィルムに頻出する「歩く人」の系譜についての思考を始めている。

(梅本洋一)
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■28日(土)
ジム・オルーク ライブ@CAY 9/16

 この日のセットリストは、旧作からピックアップされたアコースティックギターによる弾き語り数曲の前後を、新曲で挟み込んだ構成。新曲では珍しくピアノも披露したりと多才なところを見せていたけど、やはり耳慣れた曲が始まると客席が沸く。彼のギタープレイは同じメロディーを繰り返し、軽く展開してから元のテーマに戻るというのがひとつのパターンになっていて、そのうえそれぞれの曲のテーマとなるメロディーが似通っているので、ともすると同じところをぐるぐると回っているかのような錯覚に陥る。それでもあくまでそれは錯覚なのであって、彼の指先が弦に加えるテンションの微妙な変化や、小さなミスタッチが、反復されるメロディーに微細な差異を呼び込んでいく。だから、それを聞いている私は次第に不安になっていく。同じところを同じように回っていたはずが、気づくととんでもない場所に連れて来られていたような。CDではフェイドアウトの向こうに隠れていたけれど、それでもライブではどこかに着地しなければいけない。ジムはそれぞれの曲のラストにそれらしいアレンジを施すでもなく、少しテンポを落としながら同じようにメロディーを弾き、歌い、締めくくった。それまで刻々と変化していた風景の前に突然すりガラスでも置かれたような感覚。ガラスの向こう側で、まだその景色は揺れ動いているようだった。

(中川正幸)
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■28日(土)
「POPEYE」10月14日号

「POPEYE」の最新号は、ファッション特集だ。表紙には、デカデカと「脱ストリート宣言。」とある。普段は巻頭のリリー・フランキーのコラムを立ち読みするだけの「POPEYE」を買ったのは、電車の中吊りで「脱ストリート宣言。」の文字を目にしたからだ。
 まず「ストリート」とは何かという疑問が浮かぶ。ルーズ、カジュアル、安くはないけれど、手が届かないほどではない値段設定という要素でそれを規定するならば、「ストリート」は決して現実のストリートから自然発生したものではない。流行の多くがそうであるように、「ストリート」は幾つかのショップ・ブランドとスタイリスト、そしてファッション誌が作り出した標語のようなもの、と理解すべきだろう。モードがインスピレーションを求めるストリート(とヴィンテージ)ではなくて、モードのパロディとしての「ストリート」(と「ヴィンテージ」)。それが商売としてはうまくいきすぎちゃって、ストリートが「ストリート」で埋め尽くされたのが、いまや観光名所と化した裏原宿なのだと思う。あそこはもはや「パロディ」の意識など皆無だ。
 だから、いまこの時点で「脱ストリート宣言。」する理由は、これまた商売の話なのだろうし、僕に言うべきことは何もない。勝手に作った「ストリート」から「脱」と言われても、それこそ「勝手にやって下さい」と言うしかない。しかし、「POPEYE」誌上でスタイリストの熊谷隆志氏が提唱する「“ネオ”パリカジュアル」がどうしようもなく貧相でかっこ悪いのは、それが2002−03の秋冬コレクションを受けたモードのパロディであるからではなくて、そのパロディの質がとても低いからだ。5万円のジャケットよりも20万円のジャケットの方が質もデザインもいいのは当たり前のことで、その価値を知恵と遊び心でどれだけ逆転できるかが、それこそストリートの心意気じゃないのか?「“ネオ”パリカジュアル」が元「ストリート」ブランドの商品を中心に構成されているのは、デザイナーとスタイリストひっくるめて彼らの唯一の長所だったパロディ感覚が決定的に錆び付いている表われとしか思えない。
 ほんの2,3年前まで、原宿と青山では歩いている人の年齢も格好もまったく違っていた。しかし大手メゾンの路面店が表参道を原宿方面に延びてきた現在、相当な金持ちとごく普通の貧乏な若者の棲み分けは以前ほど明確ではない。そこで質の低いパロディと本物がすれ違っていく様子は相当面白いし、その決定的な差異が、ストリートの本質だと思う。ここでW.ベンヤミンの「経験と貧困」から引用するのは煽動的に過ぎるだろうか?でも、何十万もかけてコレクションのモデルと同じ格好をするファッション・ピーポーには、思いつきもしないかっこよさってあるよ、絶対。それがストリートであり、あるいはモードでもあるんだ。
−「野蛮?そのとおりである。われわれは、ここで、野蛮ということばに新しいポジティブな概念を導入しなければならない。経験の貧困に直面した野蛮人には、最初からやりなおしをするほかない。あらたにはじめるのである」(W.ベンヤミン「経験と貧困」−高原宏平訳)

(志賀謙太)
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■28日(土)
東京フィルメックス・ラインナップ発表会@日本外国特派員協会

 ふだん使い慣れた駅が崩れる瞬間も、ある。渋谷駅から東京駅方面への山手線に乗る。右に進むものとばかり思っていた電車が突然乗客を左方向へ運んでゆくと(ああ、やってしまいました)、もう身体と駅とのバランスが崩れ。けれど、すぐに窓に映る見馴れた靴屋やらカフェやらが何とか元に戻してもくれる。戻してくれるが、やはり何かが少しズレてしまっているわけで、つくづく風景というのは既にいつだって自分を追い越してしまっているのだ、いつもズレているのだ・・・。
 おととい、きのうと続いた晴天とうって変り今日は曇天、有楽町ビルヂング15階の日本外国特派員協会から見えるのは東京タワーの無い空。東京タワーは逆方向だ。つまりそちらの方向には100以上ものグラスが並び、100以上ものアルコールへの欲望を映し出している。
 東京フィルメックスのラインナップ発表会にはゲストとしてSABU氏、塚本晋也氏、黒沢清氏が招かれる。黒沢さん、まだ『アカルイミライ』は完成していないらしいが、それでも会場は彼のペース。本当に場馴れしてる、そして、映画祭というものが当たり前のようにドス黒い欲望(もちろん良い意味です)で満たされていることを一挙に知らしめてくれる。「黒沢さんは今回審査員でもあるわけですが・・・」、「そうですね、これはプロデューサーからの挑戦だと思ってます、どうだ黒沢、審査してみろっていう・・・」。
 野茂英雄は9/11付けの日記(ナンバーに隔号連載)の冒頭で「今日は何も起りませんようにと願う」みたいなことを書いていた。(僕はこの日記が好きだが)今日初めて野茂と同じ願いを感じた、「今日は何も起りませんように」。審査員に黒沢清だ・・・、愉しみにしてます。

(松井宏)
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■26日(木)
ジム・オルーク ライヴ@CAY 9/16

 この日の公演はジム・オルークのソロであるということ、それしかこのライヴについて知らなかった。CD発売記念来日でもないし、出演者以外内容についてはほとんどこのライヴの前情報はなかったように思う。あったとしてもジム・オルークは気紛れだからあてにならないし。それなのに、会場前には祝日とはいえ月曜の4時前だというのに、すでに人だかりが出来ている。おそるべしジム・オルーク。ソロとはいえ『インシグニフィカンス』はやらないだろうし、その直後発売になった『Iユm happy and Iユm singing and a 1, 2, 3, 4』をやるのかな、なんて適当なことを言っていたのだが。
 そのライヴは水の滴りを連想させるようなやたらにきれいな音の揺らめきの中スタートした。真っ白の薄いカーテンの奥にのぞくジム・オルークの姿とその音響はあまりにぴったりと似合い過ぎて恐いくらいだった。しかし自分自身で登場のテーマを演奏した後、居心地悪そうに簡単な挨拶をすると、ふいに1本のギターを持ち上げた。そしてイスに座ってどこかのカントリー・シンガーのようにギターを抱え歌い始めたのは『EUREKA』から『Halfway to a Threeway』にかけての曲である。このふたつのアルバムにある隔たりを平然と飛び越えて、ギター&歌のみという極力シンプル化されたこれらの楽曲は、不思議な力強さと共にそこにあった。終盤パワーブックも折り込み演奏された、トレイシー・チャップマンのカヴァー曲は徐々にループのノイズに飲み込まれてゆく。その小1時間はまるでジム・オルークを巡る音楽史の凝縮トリップ体験のようで、ステージから去っていく彼を呆然とした頭で見送っていた。

(中根理英)
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■20日(金)
チャンピオンズ・リーグ開幕

 ワールドカップ中や、それ以後、「Number」誌はつまらない、もっと「硬派」になれないのか、と思い続けてきたが、最新号の別冊「欧州サッカーを愉しむ──2002-03シーズン完全ガイド」の中には、とても面白い文章があった。それは巻頭コラムのサイモン・クーパーという人が書いた「忘れられたワールドカップ」という文章だ。「過去には、ワールドカップがきたるシーズンの欧州サッカーを形づくったものである。クラブは大会のベストチームの戦術を真似て、檜舞台に登場したスターを獲得し」たものだ、という状況認識をもとに、今シーズンの「新たな状況」を記述している。今シーズン、「ワールドカップは移籍市場に、はっきりとわかる形で影響を与えなかった」し、「ワールドカップがもはや最重要のイベントではなくなってしま」い、「専門家はワールドカップが動き出すはるか以前から選手たちのことを把握している。大会から多くを学ぶのはもっぱら無邪気な連中のみだ」と断言する。サッカーをめぐる経済状況が冷え込み──つまりサッカーバブルも弾けた──、セリエAの開幕が2週間延期されたことは周知の事実だ。もちろんクーパーは、それを悲観しているわけではなく、そこのことで、「ようやく僕らのゲームを取り戻せそうな気配が出てきた」と結ぶ。ジダンやファーディナンドの移籍金の話ばかりが俎上に登ったが、その金銭を手に出きるのは僕らではない。つまり僕らにまったく関係のない話だ。僕らはペイTVに僅かな金を払い、ゲームを楽しもうとしているだけだ。
 そんな中でチャンピオンズ・リーグが開幕した。第1週の注目すべきカードはレアル対ローマ、そしてユヴェントス対フェイエノールト、さらにドルトムント対アーセナル。そのうち最初の2ゲームを見た。レアル対ローマは3−0でレアルの圧勝。ロッテルダムでのユヴェントス対フェイエノールトは1−1のドロー。唯一サッカーバブルを今も生きているレアルは──ロナウドはまだ出場していないが──、点数の上でローマを圧倒したが、それはもっぱらローマのカッサーノの「決定力のなさ」ゆえのことだった。バティとトッティを欠くローマは守備的に戦うが、最後はレアルの個人技に屈した。レアルの個人技と書いたが、本当を言えば、むしろレアルの中盤に屈した。めずらしく4−4−2のフォーメーションを採用したローマも、中盤で健闘したが、マケレレ=ジダンの織りなすパスワークを見守るしかなかった。このフランス国籍の両選手のパフォーマンスを見ていると、フランス・チームがワールドカップの予選リーグで敗退したことなどにわかに信じられない。中盤の至るところに顔を出しボールを拾いまくるマケレレの姿。レドンドを思い出すのはオールドファンだけか。クーパーが言うとおり、こと欧州に限っては「ワールドカップ」などまるでなかったかのように昨シーズンの延長上にこのゲームがあるようだ。この日のゲームは、ラウルのほぼ1トップで戦うレアル(レアルにしてもモリエンテスもマクマナマンもいないのだ)に、ロナウドが加わると5−0になってしまうような気もする。ちまたで言われているように、ロナウドが加わることでコンビネーションが崩れることもなかろう。レアルの選手の個々のポテンシャリティは、もっと複雑な応用問題もたやすく解決してしまうように見える。
 ユヴェントス対フェイエノールトは、格下のフェイエノールトの健闘が目立った。これもホームゆえのことかもしれない。フェイエノールトで目立つのは、もっぱらファン・ホーインドンクだが、このチームのマケレレは小野伸二だった。彼の献身的なフリーラニングがなければフェイエノールトの中盤はダーヴィッツらにもっとずたずたにされたにちがいない。最近、パルマの中田は存在感を欠いている。パスが回ってこない。それに比べると小野伸二はフェイエノールトの中核と言っても過言ではない。フルアムの稲本とフェイエノールトの小野は、とりあえず今シーズン絶好調であるように思える。

(梅本洋一)
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■20日(金)
『バイオハザード』ポール・アンダーソン

 『バイオハザード』は地下の密室空間で物語が進行して、まあウィルスによって発生したゾンビが敵になるわけだけど、一方でこの密室空間の研究所にはマザーコンピューターがいる。けれどこいつは最終的な敵ではなくて、電源だって簡単に切られてしまう。しかもミラ・ジョボヴィッチに脅されて脱出ルートを教えちゃうし。立派なセキュリティー装置は完備しているんだけど、なんだか凄く弱そうな感じがするマザー。とは言いつつも、物語の要所要所ではふと電源を入れられて結構大事な役回りをしたりする。極論すれば物語の進行はこのマザーに委ねられていると言ってもいい、だいたいがこのフィルム、ステージクリアしてゆくゲームが元ネタなわけだし。
 そうすると、ミラ・ジョボヴィッチ達に都合良く利用されてぼろぼろにされる弱々しいマザーの、その断片がラストの風景へと繋がっていくように思えた。ラストの風景ってのは、ジョボヴィッチが地上へと無事に脱出したときに広がる廃虚の風景だ(結局ウィルスが地上にも持ち出されたってことなんだけど)。 
 で、僕がふと思い出したのは、『トゥームレイダー』でもなく『ナイト・オブ・ザ・リヴィングデッド』でもなく、もちろん『ゴーストオブマーズ』(そっくりなんだけど)でもなく、『シックスセンス』や『バニラスカイ』や『ビューティフルマインド』といった「実体幽霊もの」だった。それらの正反対と言うか裏返しみたいなものとして、なんとなくかな。

(松井宏)
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■19日(木)
『es』オリバー・ヒルツェヴィゲル

 すぐ終わるかと思っていたら14週も上映しているので、ちょっと気になって見に行く。土曜日の夜、ほぼ席は埋まっている。とても狭苦しかった。いや、それは混雑のせいではない。映画が窮屈でだったのである。
 物語は簡単に言えば、20名の男たちが、模擬刑務所で看守役と囚人役にわかれて自分の役を演じるという心理実験に挑むというもの。主人公タレクを含む囚人役は牢屋に押し込められるわけだが、その柵に囲まれた空間が狭いから窮屈なのではない。刑務所の中であろうが外(タレクの部屋、彼の恋人の部屋)であろうが関係なく、バストショットばかりが出てくるのでまず窮屈なのだ。タレクは刑務所内で、近くにいる恋人の声が聞こえないという夢を見てうなされるが、その夢の人物もバストショットである。
 そして、元新聞記者でタクシー運転手のタレクが、実験をネタに花形記者に返り咲こうと持ち込んだ、カメラを備えた特殊な眼鏡も窮屈の原因だ。タレクは普段はそれを囚人服の首元にひっかけておくなりして持っているだけなのだが、ネタになりそうだと思うときだろうか、ある時取り出してかける(スイッチをいじる)。すると眼鏡のとらえた映像がモノクロで私たちに示される。そして、しばらくすると、まさにビデオカメラの電源を落とすときのモニター画面のように、唐突にプチンと切れて終了する。そのようにタレクが、いつ、何を、どこまで撮影するのか決定している映像が、あるシーンとして成り立っているのを見ていると、まるで彼の見ているものがその時起こっていることの全てであり、彼の目が現実を構成しているかのようで、それってどうなの、と言いたくなってしまう。眼鏡でとらえたモノクロ映像は、1972年にアメリカで実際に行われたというこの心理実験をリアルにみせようとして使われたのだろうか。
 この映画は、囚人役の男たちが、看守によって実験者も囚人となり、殺人が起きてしまった刑務所から脱走して中止となった後、タレクが恋人と彼女の別荘を訪れ、浜辺にふたり並んで座る、それをロングでとらえて終わる。終わって何がよかったかといえば、この窮屈な映画から解放された、ということである。

(内山理与)
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■17日(火)
『ウインドトーカーズ』ジョン・ウー

 あざとい『プライベート・ライアン』、の一言で済ませてしまってはまずいだろうか?…まずいか。何故まずいかと言えば、ジョン・ウーは映画の冒頭からいきなり「これは『プライベート・ライアン』ではない」と提示しているのだ。この映画も『プライベート・ライアン』も空にはためく星条旗のカットから始まる。が、『プライベート・ライアン』の星条旗が光に透けてぼやけていた(透明性を帯びていた)のに対し、『ウインドトーカーズ』の星条旗はあの赤い縞も、白い星も異常にくっきりして、鮮やかに揺れている。
 これこそがジョン・ウーの映画であり、彼の美学でもある。彼の映画では、強さは常に美しく鮮明に映らねばならないし、弱さは常にその美しさへ奉仕せねばならない。少なくとも、美学(美しさ)のために強弱、はたまた生死が存在する。故に、並んだ日本兵は手前から順番に倒れねばならないし、ニコラス・ケイジは敵方の塹壕に爆弾を「タッチダウン」した後スローモーションで美しく跳躍し逃れねばならないのだ。つまりこの映画において、例えば『ロンゲスト・ヤード』における、バート・レイノルズが敵も味方も入り交じった人ごみを駆け上がり、人ごみもろとも雪崩れ込んだ、あの少しも美しくないタッチダウンのように、見る者の瞳孔をこじ開ける乱暴さはどこにもない(強いて挙げるとすれば、クリスチャン・スレーターのきょとんとした眼差しぐらいか)。
 そういうわけで、この映画のテーマ曲は「手のひらを太陽に」なんかがぴったりではないだろうか。星条旗を太陽に透かしてみれば(まあ実際透けてはないのだけれど)真っ赤に流れる縞がよく見えるんだよってオチで。でも、実際手のひらを太陽に透かして、真っ赤にながれる僕の血潮が見えたら、生きているだとか友達だとか言ったり、はたまた美しさにうっとりすることもなく、ただただ失笑する他ないんじゃないか?

(黒岩幹子)
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■13日(金)
『リチャード2世』クラウス・パイマン演出、トーマス・ブラシュ翻案

 ベルリーナー・アンサンブルの現芸術監督クラウス・パイマンはかつてシャウビューネでペーター・シュタインと共に活動していたらしい。ベルリーナー・アンサンブルは亡命先から帰ってきたブレヒトが49年東ベルリンに立ち上げた劇団で、90年代にはハイナー・ミュラーが共同指導者のひとりだった。
 『リチャード2世』における権力闘争はリチャード2世からボリンブルック(後のヘンリー4世)へという図式だ。ボリンブルックは父を暗殺され、しかもリチャード暗殺の嫌疑を書けられて王国を追放される。そんな彼が不満分子と共に王国へ攻め込み権力を掌握する。
 さて、パイマン演出『リチャード2世』では、新たに権力を手にしたボリンブルックがその虚しさに捕らえられている。なぜなら彼は口付けによって大地と契りを結んでしまった男だから。
 誰とも判明しない死体がひとつ転がる舞台、そこは白いパネルをいくつも連ねた壁が、前方から後方にかけて遠近法的に三方を囲んでいる。黒い板張りの床に刻まれた数本の縦線がそれを強調する。パネルは自由に開閉して小窓にもなり大きなドアにもなる。
 この空間にどうやって外部をつくるか、それが焦点となる。確かに開けられたパネルからの侵入があるが、それは外部とは言えない。パイマンの演出する外部とはまず、死体に群がるハエの羽音である。それから床に突き刺さるナイフ、手袋(決闘の際の質)、花々。そして、徐々に壁と床と衣服とを汚してゆく土や水、割れた鏡の破片を踏み付ける音、テーブルの軋み。ゴミ達はどんどん積み重なってゆく。別に、いわゆる「現実」の要素が舞台に上がることが重要なのではなく、例えばナイフや手袋が刺さる乾いた音と姿は、観客の身体を刺激して空間と時間を一気に縮めあげる。それは異化効果というよりも、もっと切実で何か記憶に関わる出来事だとも言える。
 そんななかで、王国を追放されるリチャードと王妃との抱擁や、権力失墜の嘆きゼリフ(ドイツ語分からなかったけど)が置かれると、私達はそこにやっと身体的という言葉を持ち出せる。何も叫んだり身悶えたりするのが身体的だとは、もはや言えないのだ。
 こういったことを外部と呼びたいし、だからこそボリンブルックが為す床への口付けを「大地と契りを結んでしまった男」のものだと言いたい。そして彼の立つ大地は、そこがいかに土や水で汚されゴミで溢れかえっていようと、空虚となる。
 比喩でもなんでもいいけど、そういうのが立ち上がるプロセスなり瞬間なりを明示すること。それがなければ演出とは言えないと思う。出来合いの比喩だけを有機的に絡めても、それはあくまで比喩に留まってしまう。ペーター・シュタインとクラウス・パイマンの演出とを見て、それからブレヒトを考えながらそんなことを思った。

(松井宏)
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■12日(木)
『ハムレット』ぺ−タ−・シュタイン演出

 初めて見ました、ぺ−タ−・シュタインの演出。西ベルリンのシャウビューネで1970年から85年まで芸術監督を務めた彼は、例えば混乱の89年西ベルリンで演出した『桜の園』などが特に有名。そんな演出家による『ハムレット』。
 今回の『ハムレット』は98年初演、モスクワ国際演劇協会に招かれてロシア人俳優とスタッフとで製作された。なんでもハムレットを演じる若手俳優エウゲーニー・ミローノフに惚れ込んでしまったらしい、「彼こそが私のハムレットだ」と。もちろんこの日本公演でも俳優はロシア人の面々、テクストもロシア語。
 舞台は板張りのほぼ四角形、6×6でそんなに大きくはない。というか小さい、狭い。チラシの言葉を借りれば「リング」だ。その四方を観客が取り囲み、俳優達は客席の通路や客席後方のスペースを使って走り回ったりもする。例えば、前王の亡霊は必ず後方のトビラからゆっくりと舞台に登場し、ゆっくりと退場する。これが、シャウビューネで新しい劇場空間をつくり出し、観客と舞台との関係を更新してきたと言われるペーター・シュタインの舞台。ただし、この舞台は決定的にマズイ。同じく新国立劇場の中劇場で上演を行った太陽劇団がマズかったように。
 第一幕の第一場、見張り達が前王の亡霊を見てしまう場面はない、それからフォーティンブラスは一度も登場しない。前王を殺害させたクローディアスの登場一行の登場から始まり、亡霊を最初に見るのはハムレットやその友人達である。そしてハムレットが決闘で死に、前王の亡霊が死に伏した彼に覆いかぶさって舞台は終わる。玉座を巡る権力闘争なんてどうでもよくて、シュタイン演出は単純にハムレットのみに焦点を絞っているようだ。細みで秀才面のホレイショー、ボン・ジョヴィに憧れてギターを持ってしまったロシアの若者風のローゼンクランツとギルデンスターンを従え、サックスを吹いてディスコで踊るハムレット。遊んで遊んで、悩んで悩んで、青春のヒーローハムレット。そんなことができるのも、王国を追われた彼が前王の亡霊に保証を与えられているからだ。「現王を殺せ」という亡霊の言葉は、呪いでも宿命でも何でもなくて、単なる保証である、「小っちゃい王しかいないからさ、存分に遊んでいいよ」。ギターやサックスの音がどんなに感傷的でも、それはメロドラマというお遊び。だから、スーツを着込んだ王族達は、実際は王族というよりも会社の重役達だといってよい。国家が消滅した後、会社組織が支配する世界において、前王の保証を持つハムレットは、仲間と共にひとり英雄となれる。
 さて、前王の亡霊の他にもうひとり客席後方のトビラからやってくる人物がいて、それが民衆旅芸人一座を率いる老人である。彼等はハムレット演出により劇中劇で現王の悪事を告発するのだが、この老人はその登場の仕方といい身なりといい、ほとんど亡霊である。彼らの劇中劇は今回の『ハムレット』のなかで一番「美しい」。そしてハムレットは老人に敬意を表し、一緒にはしゃぎながら、ある層を形成する。ギターとサックスの音は旅芸人達に素晴らしく調和する。つまり前王の亡霊と旅芸人の老人とが、同じ亡霊としてハムレットに保証を与えているのだ。
 こうして王国とサックスは素晴らしく調和する。会社の重役達を退場させた四角い「リング」で、前王の亡霊はハムレットをやさしく包み込む。言い換えればそれは、父と子とのメロドラマだ。サックスの音から「亡霊」は響かず、旅芸人と前王とは素晴らしく調和する。言い換えればそれは、単なるユートピアだ。「演出家」は気付いてないかもしれないが、小っちゃい王はハムレット自身となる。シュタインが『ハムレット』に夢見たメロドラマとユートピア、それは民衆旅芸人も前王もハムレットも会社の重役さえもグダグダに支配してしまうスペクタクルに回収されるばかりだ。
 だから、シュタインの『ハムレット』は、それが東京で公演されたことも含めて、十分に世界を反映してるのかもしれない。6×6の四角い「リング」に劇場全体が回収された、凄く気持ち悪くて狭い世界を。それは東京云々に限らず、演劇そのものの問題だとも思う。演劇は今や、そういう気持ち悪くて狭い場所以外の何ものでもないのかもしれない。
 でも、だからこの舞台は古い、そしてムヌーシュキンも古い。新国立劇場にはぴったりかもしれないが、もしこれからチケット(高額!)を買おうと思ってる人はすぐにやめるべきだ。新たな発見もない。俳優だって全然良くないから、「感動した!」とも言えない。
 僕はこの文章でそれだけが言いたかった。長くなってゴメンなさい。

(松井宏)
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■12日(木)
『ベルリン・アレクサンダー広場』ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー

 ピーア・ラーベンの音楽がレコードの曲の背後で流れ、ギュンター・ランプレヒトの声がそこに重なる。もう、自分の耳がそのうちのどれを追っているのか、わからない。三種類の音の総合を聞いているようでもあるが、そのうちのどれかを無意識に峻別しているのも感じ、でも結局不可分なひとつの騒音を耳にしているようでもある。万事がそんな調子だ。酒場では、人がものものしく喋っている後ろで、カッチカッチと規則的なリズムで鳴る柱時計のような音。しかしそれは何処から聞こえるのだろう。部屋に帰ると光が明滅している。光がゆきわたり部屋が浮かび上がる、闇が拡がり掻き消える。ネオンの光が差し込んでいるような光景だ。しかしどうやら光源は部屋の中にあるらしく点滅するランプが映る。だがカメラが再びヒキで部屋の中を捉えると、どう考えても窓の向こうにある都市自体が発光を繰り返しているように見えてならない。

 フランツが犯した殺人も闇の中から浮かび上がるかのように、何度も繰り返される。彼が泡立器で妻の胸を叩く。その時、声が言うには、ある女性が台所で日記をつけている、空をツェッペリン号が飛んでいる。この声は彼の頭の中で鳴っているのか。それとも映画の中だけで鳴っているのか。あるいは映画の外側で鳴っているのがあたかもそう聞こえただけなのか。第13話のエピソードタイトルは、「内面と外面、そして秘密に対する不安の秘密」である。 

 光っているのは部屋の中の灯なのだ。だが窓の外で光っている気もする。いや、勘違いしてはならない。そのままでは見えない窓の向こうの世界の発光を、暗い部屋の灯が白い壁に映しているにすぎない。

(結城秀勇)
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■10日(火)
吉田修一のインタヴュー「文学界」

 吉田修一のインタヴューを読んだ。「文学界」10月号だ。青山ブックセンター堂々のベストセラー小説『パークライフ』の著者にインタヴューしたいと考えるのはもっともだ。それに彼のデビューは「文学界」だ。浅田彰と島田雅彦のお墨付きだ。僕も、芥川賞と「お墨付き」にほだされて、『パークライフ』を読んだ。僕はほとんど小説を読まない。でもなぜが『パークライフ』は読んだ。そして、その巧みさに感心し、主人公の住んでいるところと僕の家が近いこともあって、ロケハンにも感心した。(その意味で日比谷公園よりも駒沢公園の方を興味を持って読んだ。)でも、同時に、あまりに「箱庭」(志賀謙太)的であるがゆえに、これでよいのだろうかと思いながら、日曜日の夜、BSで放映されたアフガニスタンの特集番組をボォーと見ていた。そしてついでに「文学界」のインタヴューを、子供を砂場で遊ばせつつ世田谷公園のベンチで読んだ。そして正直、驚いた。このインタヴューは最近読んだインタヴューの中でもっともひどいものだったからだ。インタヴュアー(編集部とある)が、自らの意見を開陳し、吉田修一の文章や彼が獲った文学賞の選評の文章を引用しながら、質問する。字数を数えたわけではないので正確には言えないが、半分以上インタヴュアーの言葉が並んでいた。読者の誰がそんなものを読みたいというのか? ものを書いたり、作ったりする人に対して、自分の意見を開陳するのは自由だが、当の作り手は、そうした意見を聞くとしらけてしまって、対応したくなくなるものだ。もし自分の意見を書きたいなら、批評のかたちで発表すればよい。インタヴューは、あくまでインタヴューされる人を輝かせることが目的だ。僕だって、『パークライフ』を読んだから、書いている人はどんな人なのだろう、という単純な興味を抱いて、「文学界」を買ったのだ。読んで分かったことは、「編集部」の人が、吉田修一の小説について持っている考えだけで、吉田修一の思考は何一つ分からなかった。「文学界」のインタヴューを読むと、この雑誌を編集している人はとてもアホで、権威ある文芸誌なんて言えないと皆、思うことだろう。とりあえず僕はもう「文学界」を買うことはないかもしれない。もちろんインタヴューの劣悪さと『パークライフ』の評価とはまったく別の話だ。

(梅本洋一)
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■9日(月)
『In Public』ジャ・ジャンクー

 至極当たり前のことであるけれども公共の交通機関を使うことは、赤の他人とある空間を共有するということだけでなく、一定の時間をも共有することなのである。JRのある区間の所要時間はわかっていてもその距離が何kmか知っている人がどれだけ居ようか。通勤ラッシュのぎゅうぎゅうの満員電車が吐き気を催す程に気分の悪いものであるのは、ひとり当りの所有できるスペースが信じられない程小さいものだからというだけでなくて、実は、ひとりぶんの時間もまた信じられないくらいに小さいからかもしれない。
 それはまあいいとして。
 『In Public』の冒頭で、中年男性は列車を待っている。列車はなかなか来ない。中国山西省大同では時間どうりに来ないものなのか、男が待ちきれぬ余りに早く来すぎたのか、何かトラブルがあったか。そもそも男は列車を待っているのか。ホームに列車が入ってきた時、男は四桁の数字でそれが自分の待つ車両であるのかを駅員に確認する。男は待合室からホームに出てフレームの外にいったん消えてから、妻か娘か親戚かを連れその荷物を肩に抱えて再び画面に現れ、横切り、再びいなくなる。そこにはリュミエールの映画の、巨大な物体が停止して中から人々が溢れ出すような、運動のダイナミスムはない。引き延ばされた時間のサスペンスもない。ただ静かに、列車の到着という運動と列車の到着という時間の節目が交差している。男は運動としての列車の到着でも時間としてのそれでもなく、両者が一致する瞬間を待っていたのである。
 『プラットホーム』の劇中歌「プラットホーム」には「僕たちは待っている、僕たちの心は待っている、永遠に...」という歌詞があるらしいのだが、ミニバスに乗り込んだ団員たちは目的地への到着をいまかいまかと待っているわけではない。『一瞬の夢』の小武もまたバスに乗り込むのは到着するより他に目的があるのだ。それでも彼らはやはり何かを待っていて、それは時刻表どうりに特定の場所にやってきたりはしない。仮にそう見えたとしても、彼らは私的で複雑なドラマを持った登場人物ではない。何処にでもいるひとりの人間なのである。彼らをパブリックな人間とそう呼ぶことにした。
 というような映画を満員のbox東中野で床に座って見た。

(結城秀勇)
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■8日(日)
『パーク・ライフ』吉田修一

芥川賞選評で、村上龍は次のように言っている。
「『何かが常に始まろうとしているが、まだ何も始まっていない』という、現代に特有の居心地の悪さと、不気味なユーモアと、ほんのわずかな、あるのかどうかさえはっきりしない希望のようなものを獲得することに成功している」
『パーク・ライフ』の冒頭は、日比谷交差点を俯瞰する描写が置かれている。「日比谷交差点の地下には、三つの路線が走っている」、日比谷から有楽町へ向かう東西線と千代田線、銀座方面へ線路を伸ばしている日比谷線、地上と地下の交差点から少し離れた場所に日比谷公園はある。そしてその空間が『パーク・ライフ』の舞台の全てだ。
 主人公が毎日通う地上の日比谷公園では、決まりごとのように毎日同じ人間が、同じ時間帯に、同じ行動を取っている。しかしその地下では、絶えず大量の人間と高速の物体が移動を繰り返している。冒頭の描写によって、読者はその重層性を意識する。吉田修一の小説を特徴付けるのは、空間と時間を仮に限定してしまう手法のうまさだ。
「何かが常に始まろうとしているが」、その限定された舞台で、些細な、しかし決定的な事件が起きることを読者は期待するし、またそれは実際に起きるだろう。だが吉田修一の小説は、限定された舞台を飛び出ることは決してなく、事件に遭遇した登場人物たちはその場所である変容を蒙り、そこで小説は終わる。地下鉄は限定性を打ち壊す手段ではなく、限定性を浮き彫りにする装置としてある。言い換えれば、彼の小説は成長小説にはなり得ない(だから石原慎太郎は吉田修一を否定する)。事件が起き、変化はしたが、とりあえず登場人物たちは生き延びている、それでも「まだ何も始まっていない」。
 この「現代に特有の居心地の悪さと、不気味なユーモア」を「リアル」と感じることは否定しない。しかしその「リアル」は、現実を模写したものではなく、極度な限定性において、虚構(地下鉄)の上に虚構(日比谷公園)を重ねたものであることは意識されるべきだ。そして吉田修一の最大の魅力は、現実に存在する要素を解体し再構築して、繊細な箱庭を作り上げてしまうその技術にある。彼は小説らしい小説しか書かない(そこは保坂和志や阿部和重とは決定的に違う)。それを「リアル」と感じるのは勝手だが、箱庭の中の「希望」を現実の読者の「希望」と交換してしまうのは、安易だし、退廃的だし、気持ちが悪い。
 たとえば「Far away」とか「SEASONS」の頃の浜崎あゆみの歌を聴いて、癒されていた女子高生たちがたくさんいたが、それは聴き手の感情や経験がマーケティングの対象になって、機械的にカテゴライズされて敷衍される現代の状況の顕著な表われでもあったはずだ。別に吉田修一がそんなことをしているとは思わないけど、小説だって状況の中でしか書かれないのだから、現代に生きる大人だったら自分の感情が指し示されている表現、つまり「リアル」と感じる表現にはある程度の危機感を持った方がいいと思う。だから「文学界 9月号」に掲載されている吉田修一インタヴューで、彼の小説のリアルさを手放しで褒め称えるインタヴュアーには、腹が立つのを通り越して鼻で笑ってしまう。まあ村上龍については、最近の彼が小説に求めているのは、要するに浜崎あゆみみたいな存在なのかなと思わなくもないけど。

(志賀謙太)
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■6日(金)
『チェルシーホテル』イーサン・ホーク

 新宿高島屋へ向かう。テアトルタイムズスクエアは高島屋の12階にある。このビルにはベスト電気も入ってるし、東急ハンズ、紀伊国屋書店ともつながっている。
 ほとんど予備知識もなかったせいで、2000年現在の物語ってことにまず驚いた。てっきり、60年代か70年代のチェルシーホテルの伝説的な姿が舞台なのかと思っていた。でも実際は、恋や職業や将来に悩む、現代のチェルシーホテル住人達が描かれている。登場人物のセリフと監督の言葉を借りれば「チェルシーホテルには亡霊が住んでいる」。そんな亡霊にとりつかれるのが、ミネソタから出てきたミュージシャンであったり、酒浸りの作家であったり、詩人志望の女の子であったり、する。現実のチェルシーホテルがどうかは知らないが、このフィルムでは今でもここは「アーティスト」の溜まり場として機能しているわけだ。
 とにかく顔のクロースアップがやたらと多い。デジタルカメラのざらついた映像、クロースアップ、それから他愛もない悩み話やら、詩の朗読・・・。どうしてチェルシーホテルを舞台としたのかがほとんど不明なのだ、別に他の場所でもよかったんじゃないかって。しかし、そこがミソであって、『チェルシーホテル』は僕達に、「亡霊」という言葉を使うのにどれだけ注意を払わないといけないか、ということを反面教師として教えてくれる。
 つまり、イーサン・ホークの言う「亡霊」とは明らかに彼自身を投影したもの。「自分はこの伝説に遅れた」と多分考えてる彼のノスタルジーと羨望の念、それがここでの「亡霊」。だから、クロースアップの顔には、どんな詩の言葉も張り付かない。まあ、そんな純粋な「亡霊」は誰にでもあるとも言えるのだけど、でもそれを出来るだけ禁じていかない限り、「亡霊」なんてのは単なる神秘主義になってしまう。ホントの(?)「亡霊」はきっと、もっとたちが悪くて、魅力的で、不純なものだ。冷徹な言葉と思考とを経ない限り、露呈はしてこない。
 どうやら、「作家」イーサン・ホークは未だ「パーティ」の真只中らしい。そんな人間がカサヴェテスに憧れると、『チェルシーホテル』を作ってしまう、新宿を歩きながらそんなことを考えた。

(松井宏)
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■2日(月)
『私立探偵 濱マイク 名前のない森』青山真治

 濱マイクは、依頼人(原田芳雄)から、自己啓発セミナーに参加している娘を連れ戻して欲しいと頼まれる。受講生を装って訪れた先は、近くに森をたずさえた山荘。そこでは“先生”と呼ばれる女のもと、互いを番号で呼び合う受講生たちが、「本当の自分捜し」「本当にやりたいこと捜し」をしている。
 “先生”から「森の奥にあなたにそっくりの木があるの」と言われたマイクが森を眺めていると、自殺願望のある“29番”がやってきて、彼にレストランに行く道を教える。受講生は、近くの森以外そとに出てはいけないという決まりを守らなければいけないことになっているが、マイクはそのレストランに出掛けていく。それはこんなシーンだ。
 
 浅め俯瞰のロングショット、フレームの右端に映し出されるマイク。左端には黒い柱のようなもの(ぼやけている)が見える。マイクは歩き出し、カメラが左横移動で追っていく。すると黒いものが徐々にフレームの中央に近付き、しまいにはマイクの姿を覆い隠してしまう。その間中、コチ、コチ、コチ、コチという時計の音が聞こえている。
 ぼやけている黒いものはマイクが居る場所よりもカメラに近いところにある。また、前のシーンで、マイクと“29番”が話しをしているときに聞こえていた風の音がしない、かわりに時計の音。―まるで誰かがマイクをひっそりと見ているようだ。時計の音がする部屋にいて、柱の陰からマイクが外に出ていくのを見ている、そんな印象を受ける。もちろん、「誰か」の姿もその者がいる部屋も映らないから、それは私の勝手な思い込みなのかもしれない。でも、『名前のない森』には、誰かが何か(誰か)を見ている視線が存在している、それは間違いない。
 たとえば、本当にしたいことを見つけた男が山荘を出ていく(卒業する)とき。受講生たちは互いにつかず離れずの位置に立ち、黙ったままただゆっくりと拍手をしながら、男のことを見ている。申し合わせたかのように全員同じようにして(まるで演劇のようだ)、男を見送っている。見送られる男の方はといえば、お辞儀をして去ろうとする瞬間に眼鏡を外し、目をむき出して見送る者たちを一瞥する。その男が通り魔殺人を犯したとレストランで知ったマイクが、男のことを“先生”に問うときには、遠くからふたりを見ている何人かの受講生が映し出される。
 また、“先生”は、マイクにそっくりの木のところまで案内する約束をした後、身動きもせず、大きな目をマイクの方に向けている。他にも“先生”は、そっくりの木を見て目を見張るマイクを、チラリと見たり、依頼人の娘を連れて山荘から出ていくマイクを窓辺で見ていたりする(そしてスーっと後方に消えていくのがまた何とも言えない)。
 こんなふうに、『名前のない森』には誰かが何か(誰か)を見る視線というものが充満している。もしその視線から逃れようとするなら、死を選ぶしかない。“29番”は、“51番”(マイクの依頼人の娘)に包丁を差し出され、「めざわりだから消えて」と言われ、男が卒業していったときと同じように他の受講生たちに拍手され見つめられ、壁際に追い詰められ…、救急車で運ばれていく。死を迎えれば、視線を感じることも想像することもなくなり、自らの視線も消える。もし逃れずに視線を浴び続けるとするなら、自らも視線を持ち続けるなら?それは、生きているっていうことなのだ。
 自分にそっくりの木を見たマイクに“先生”は「あなたは本当にしたいことを見つけてしまったの」と言う。マイクは「てめぇ、それがどういうことかわかってんのかよ」と怒鳴る。もし木が「死」を意味しているのだとしても、そんなことはどうでもいい(いや、そもそも木に意味を見出すのなんて馬鹿げている)。マイクは、あの木を見つめ、生きている。
 
 『名前のない森』に充満する視線。それから逃れたりしない、せいぜい見つめて取り付かれたい。そう思った。

(内山理与)
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■1日(日)
『カルチャー・スタディーズ 映画:二極化する世界映画』大久保賢一

 何だか教科書みたいだなあと思いながら読んでいたのだが、それもそのはず、この本は「混沌かつダイナミックな今のカルチャーの見取り図を、第一人者にわかりやすく講義してもらう、いわばカルチャーの参考書」(朝日出版社HPより)という目論みで発行されているシリーズ本のうちの1册なのだそうな…なるほど。確かにこの本を読めば、今どんな映画監督がいるかだとか、各国の映画産業の状況だとかの知識をある程度得ることができるだろう。様々な映画祭に関わっている著者だけに、映画祭の重要性についてもわかりやすく語られている。
 ただ、どうしても疑問に思ってしまうのは、今このような本をどんな人が必要としているのかということ。「最近単館ロードショーの映画なんかも見るようになったし、もっといろいろな映画のこと知りたいんだけど…」っていうような若者が読んだりするのだろうか。思うに、それなら毎月「CUT」なんかの雑誌を立ち読みすれば事足りるのではないだろうか。つまりこれは映画批評を必要とするかしないかということだと思う。今は映画自体だけではなく、映画を見る人も二極化している(むしろ映画そのものはもう単純に二極化とすればいい状況ではなくなってきているのではないか)。それは映画を見る人とほとんど見ない人という分別ではなく、映画批評を必要とするかしないかで分けられるだろう。それではこの本はどちらの人々に必要とされるかと考えると、どうしても前述の疑問に行き着いてしまうのだ。
 まず映画批評を必要としない人が、この本を手に取ることはあまりないだろう(まず大久保氏の名前も知らないだろうし)。では、映画批評を必要としている人はどうかといえば、この本を手には取るかもしれない。でも、この本が必要とされるかは疑問だ。「参考書」として作られているという原因が大きいだろうが、この本で仮に何か新たに知識を得ることはあっても、何かを発見することはないからだ。見取り図としても決して新しいものだとは言えないし、単純に特に紙面を割いて取り上げられている映画作家の面子が、アルトマン、マルケル、ポランスキーなど爺さん(失礼)が大半を占めているというのも気になる。
 これはこの本というよりも、このシリーズ本の問題なのかもしれない。こんなことを書いたけれど、たぶん、このシリーズの本はそこそこ売れているのだと思う。「もの知り」になりたい人には最適だろうし(ただ、そういう「もの知り」って「知ったかぶり」という異名をとりがちだけど…)。もちろんこのシリーズ本には、様々な文化だけでなくその批評の可能性や読者層も広げようという目論みも多少あるのだろう。しかし、そのために一番必要なのは「わかりやすさ」ではないのだ。

(黒岩幹子)
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