nobody/Journal/'00_12#1
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~DECEMBER#1


-「憧れ〜女生徒より〜」佐内正史@NADiff
-DumbType 『メモランダム』@新国立劇場

-『EUREKA』とoval

-『故郷への旅/VOYAGE』エマニュエル・ファンキエル@日仏学院

-『八月の終わり、九月のはじめ』オリヴィエ・アサイヤス とともに

-『クロコダイルの涙』レオン・ポーチ

-『アンチェイン』(2001年陽春公開)豊田利晃

-『美しき仕事』クレール・ドゥニ
-HAN BENNINK PLAYS 6DUOS @法政大学学生会館大ホール
-AIDS DAY CLUB EVENT @ 西麻布THE WALLBLDG

-『EUREKA/ユリイカ』青山真治
-『ダンサー・イン・ザ・ダーク』ラース・フォン・トリアー


 

12月10日(日)

DumbType 『メモランダム』@新国立劇場

 舞台上のスクリーンには幾つかの単語(she,table,before...)が適度な間隔を保ちながら、ランダムに配置されている。全身タイツに身を包んだ彼ら彼女らは、それらの単語を手で掴み、踏み台にして(実際に登っているわけではなく映像が2重になっているだけなのだが)ロッククライミングをするかのようにスクリーン頂上までよじ登る。次第に単語の数は増え、センテンスとなりある意味を形成していく。

 京都を拠点として国内、海外で活躍しているアーティスト・パフォーマンス集団DumbTypeは彼らの新作を「メモランダム(=無秩序な記憶)」と名付けながらも、その彼らの新作公演は、ランダムにただそこに存在していた単語がコンテクストによって意味を持ち、秩序を得ることから始まる。もちろん最初にあったのは単語ではなくセンテンスの方で、忘れてしまった箇所、抜け落ちてしまった部分を「思い出す」行為を身体で表現したものが「よじ登る」という行為であることはこの舞台のコンセプトが「記憶」であることから容易に想像がつく。さあ、<秩序は回復された>それからどうする?

 人が何かを記憶に留めておきたい、忘れたくない、と思うのは極々自然な欲求だろう。しかし記憶は段々と薄れていく。思い出そう、と、脳の中にある映像を浮かび上がらせてみてもその映像はフィルターがかったようにぼんやりとしか浮かんで来ない。ちょうど舞台の中央にあった、半透明のスクリーンのようなフィルターだ。人は忘却の恐怖、記憶間違いの恐怖に日々支配されているのではないか。忘れることは怖い、と私は思う。考えていたはずのことを記録しようと、ノートに書きなぐってはその紙を丸め、書いては丸めていた彼の困惑した表情に私は共感する。しかしこの公演を見ている私が最も恐ろしいと思ったものは、(私が必死になってしがみついている)記憶の断片をイメージした紙片を、ひとつ残らず淡々と掃除機で吸い取ってしまう彼らである。欠落した記憶のある部分を、何でもいいからとりあえず、そこにいた「うさぎ」で埋め合わせてしまうような彼らDumbTypeを、私は本当に恐ろしいと思った。脳の中のランダムな記憶に、秩序を与えることで恐怖から脱出しよう、安心を得ようとする態度を冷笑しているのだろうか。

 前作までと異なり、今回のDumbTypeの新作が1人の男の存在を無くしているという事実を知ると、彼らに対する恐ろしさはさらに増すのである。その男とはグループの創始者であり中心人物であった古橋悌二である。彼は1995年、HIV感染、免疫不全による敗血症により死去した。現在のDumbTypeは彼の不在を孕み、彼の記録をノスタルジックに回想することにより成り立っている、かと思いきや全くそんなことは無い。不在はどうでもいいもので埋められ、記録は掃除機で吸い取られるのである。6年前の公演
『s/n』は同性愛、AIDSを素材にしたもので、この公演を実現できたのは感染者である自分自身の経験を、存在をパロディ化できる程の強さを手に入れたからだ、と古橋は語った。自分を究極的に客観視できる彼の強さと、現在のDumbTypeの強さは呼応している。緑の木の葉がスクリーンに映り、その中央を無機質な灰色の立方体が回転する場面 は、彼らの古橋に対するオマージュではないかと思う。つまり死もまた生の要素である、と。そして彼らは無言で叫ぶ。無秩序を気持ち悪がってはならない。忘却を恐れるな。彼らの意識のシフトチェンジは本当に強いと思うし、また正しい強さだと思う。      

(澤田陽子)
 


 

12月10日(日)

『EUREKA』とoval
 
 映画
『EURAKA』にはグルグルとした渦のような力が働いている。とりあえずその運動をループという言葉に置き返ることにするが、今までの青山さんの映画においてもループという運動が大きく関わっていた。しかし『EUREKA』におけるループはこれまでの映画と明らかに異なっている。いや、ループが異なっているのではない。これまでの映画はループそのものではなく、ループ間の差異や反復、あるいはループ外(内)の空間に目が向けられていたのに対して、この映画ではループそれ自体が大きな力を持っているのだ。おそらくそれは何らかの指標が見えないからであり、つまりは「形」が見えないということに繋がってくるのだろう。
 ただしその指標は映画の中の彼らにも我々にも「見えない」だけであって、確かに存在する。というのも、そのループはただのループではないのだ。ループというと平面 的な運動を思い起こすが、この映画のループは湧き上がるような力を持っている(澤田がジム・オルークの音楽について書いた「水面 近くまで浮かび上がらせようとする」という言説と通じると思うのだけれど)。だから実際ループという表現にも違和感があるのだ。ではその上へ上へと湧き上がる力とは何なのか。いったいどう表現すれば良いのだろうか。
 
 ところでぐるぐるとひたすらループする運動というものからふとCARTというモータースポーツを思い浮かべたのだが、CARTのコースの形態はオーヴァル(oval)と呼ばれている。ovalという単語はずばり「楕円形」というまんまの意味を持つのだが、このovalという名前のミュージシャンがいる。ovalことマーカス・ポップは、CDの裏面 にフェルトペンで落書きをし、そのために生じるクリック音やノイズをマッキントッシュでサンプリングするという手法で音作りをしているのだが、その音はループらしからぬ ループで成り立ったもので(クリストフ・シャルルはそれを「経済とバランス感覚に関するループ」と表現している)、「形」というものをまるで持っておらず、恐ろしく無機質なもので、つまりは「無」を思い起こさせる。その音、あるいはその音作りは彼の「音楽にはまったく興味がない。音楽を作ることよりも、特定のメディアを使うことに興味があった。」という思考から発動しているのであろうし、事実その音に何らかの背景を感じることは出来ない(因みに彼は自分の音楽的な価値判断のルーツは子供の頃乗っていたスクールバス(!)の振動だろうと言っている)。             
 
 そのovalの音を初めて聴いた時ジム・オルークは「僕とは全く違う世界にいる人の音だとすぐに分かった」と言う。ovalとジム・オルークの音楽の共通 性、それは「形」が見えない、ということである。そして異なるのは、ジム・オルークの音楽には「形」としては見えないけれど、「指標」や「背景」が存在するが、ovalにはそれが無いということだろうか。
 いや、ovalがそういう形態(「プロセス」と彼は呼んでいるが)を踏むこと自体が1つの「指標」であると言えるのかもしれない。そうするとovalにとっては「プロセス」=「指標」なのであり、つまりovalは音を生み出す(サンプリングする)過程ですでに「指標」に到達しているか、あるいは「指標」を音を作る過程そのもので消し去っているのだ。そう、ovalに無くてジム・オルークの音楽にあるものは、「形」の見えない何か(「指標」)に対する欲動であり、その運動におけるいつまで続くのか分からない経済的感覚を欠いた時間なのではないだろうか。
 
 
『EUREKA』の主人公たちは指標が見えていないし、最後までそれは見えない。が、彼等は動き、時間は続行している。生きているから。ぐるぐるとひたすら回りつづけながら、彼等はその運動と時間を受け入れていく。それがどこに向かっているのか、いつまで続くのかは分からないけれど、続ける。それは1つの力だ。慎ましく、とても大きな力。それがこの映画における湧き上がる力であり、この映画がその力なのだ。そして、この映画は私にとっての力であり続けるだろう。  

(黒岩幹子)
 


 

12月9日(土)

『故郷への旅/VOYAGE』エマニュエル・ファンキエル@日仏学院

 カイエ週間、クレール・ドゥニ『美しき仕事』に続いて、昨年のセザール賞を受賞した、エマニュエル・ファンキエル『故郷への旅/VOYAGE』を観る。
 舞台はヨーロッパ。ポーランド/ワルシャワ、イズラエル/テルアビヴ、ロシア/モスクワ、そして、パリ。これらの「場所」が1本のフィルムにおいて語られるということは、ともすればピューリッツァ賞の見せる報道写 真や、日々流されるCNNなどのニュース映像が特権的なリアリティを失いつつあるように、映像が歪んでしまう可能性を孕んでいる。まして、このフィルムが撮られた1998年という、ヨーロッパの「現在」しか映しえないとなればなおさらである。いかにしてエマニュエル・ファンキエルは、ヨーロッパを旅するのだろう。
 リヴカはポーランドを横断するバスに乗車する。初老の彼女はそれを選んだ。バスで相席になるこれまた年老いた男性は、「妻も息子も、バスツアーを嫌がったんだ」と言う。リヴカがしたように、彼の妻と息子も選んだ。これは、単にアイロニー、もしくはアナロジーでは無いだろう。ガラスが曇って、外の景色が良く見えないバスという箱の中にいる彼女らにとって、それは避けようのない現実であるのとしか言えない。また、フィルムに映る乗客の顔のほとんどには、深く刻まれた皺(時間)が見える。そんな彼らが乗り合うバスは、乗り物が、人類を月に降り立たせることが可能な時代にあって、これほど何かに抗しようとする困難な乗り物が他にあるのだろうか、と思わせるほどである。しかし、それが映っているのだから、きっとあるのだろう、少なくともあそこには。そして、このフィルムには、他にレジーヌ、ヴェラという2人の彷徨える初老の女性が出てくるのだが、リヴカを含めて彼女らは一様に「何処にいたらよいのだろう」あるいは、「どこに向かえばよいのだろう」とそれぞれに安息の地を探し求めている。リヴカの乗るバスが途中で故障して止まってしまうとき、何か当然のように、「ここが安息の地なのだろう」と遠くを見つめるが、しかし、そこが「安息」であるはずもない。パラボラアンテナ(受信装置)はあるのに電話(発信装置)の無い古びたバーのみが佇む地は、皮肉なことにもはや「安息」たりえないかのように迎えのバスがやって来る。それなら、バスは走り続けるのがいいと。レジーヌと、その「父」のように。
 映画は最後に、3人の女性の偶然の逢瀬をもって、ひとまずの終幕を迎えるのだが、「ユーゴはどうなんだ」とバスの座席から身を乗り出す老人の顔や、水たまりの薄氷が地雷を踏んだような音をたてて割れる様を僕は忘れられない。    

(酒井航介)

 

  

12月8日(金)

『八月の終わり、九月のはじめ』オリヴィエ・アサイヤス とともに

 美しい人をみた。背の高さは165センチほど、細い身体にダブルの喪服は落ち着かない。小さな顔にはきちんと整えられた切れ長の眉、少し茶色がかった瞳、そしてそれに合わせたように染められた髪の毛。喪服の上にのる顔としてはあまりに軽く、あまりに浅く、あまりに弱い、みんなはそう口にするのかもしれない。そしてまた父を失った二十歳の彼に、あまりに若い、と呟く人もいるのかもしれない。あるいはその桃色がかった頬を濡らすことのない彼の顔に、意志の力と崇高さを讃える人もいるのかもしれない。
 けどそれがなんになろう。僕は彼ではないし、僕の顔は彼の顔でもないのだ。視線を上に向ければ彼の顔が在るのではないし、逆に視線を下に向ければ彼の顔を見つけられるわけでもない。彼は僕達の立つこの同じ地上で二本の足をつかって歩き、そしてそのどこかで僕達は彼と出会い、触れあい、離れてゆく。
 彼の拳は握りしめられ続けていた。記憶と時間を両手に離さず歩く彼は美しい。これからもその拳は絶対に開かれることはないだろうし、それこそが彼の<生>の証拠でもあり続けるはずだ。彼と出会い、触れ合えば、その拳が僕達のからだにその跡を残すだろう。それは火傷よりもさらに烈しく皮膚を焼き、肉を焦がし、ときには骨をも灰にしてしまうかもしれない。でもそれでもいい、痛くても痛くなくてもいい、それでも僕達は歩き続け生き続けるし、あるいは生きるとはそうした痕跡をからだに焼き付けてゆくこと、その過程そのものなのかもしれない。
 記憶と時間をもたず、身体に落書きの跡すら残さない(残そうとしない)人々の涙を流す姿は滑稽だ。塩気を含んだその液体は土にしみ込むことも気体として空気中に漂うこともなく、ただ自らの皮膚にしみ込んで内臓と五感を満たし、あとには口の中に微かなしかし一瞬で消え去るだろうしょっぱさを残すだけだ。そうじゃない、僕達はまず彼を見つめなきゃいけない、そしてできれば触れてみなければいけない。でも大丈夫、彼の拳は見つめるだけでも僕達の網膜にその痕跡を焼き付けるはずだから。
 
『八月の終わり、九月のはじめ』において小説家アドリアンの死後、その17歳の恋人は彼の金色のリングを手にし、それでも毎日の学校へ通 いそして新たな恋人とキスを交わすだろうし、生前の彼と親しかった編集者はダメージを身体に受けながらもそこから立ち直り、薄っぺらな新聞紙に刷られたアドリアンの写 真を手に新しい仕事にとりかかってゆくだろうし、その前妻も新しい恋人と手をつなぎながら緑に囲まれた庭の中でお茶の入ったカップをすするだろう。『魂を救え』での医学生も骨を手にしながら歩き続け、殴られ蹴飛ばされながらも最後にはそれを名もしれない誰か(たち)に渡すことになるだろう。そしてその骨をうけとった彼等、彼女達が『そして僕は恋をする』というフィルムの中で「それでも僕は恋をする」、「それでも僕は歩き続け生き続ける」と静かに、しかし絶対的な強さで口にするだろう。そう、そんな人々もまた美しい。
 僕はほんの少し涙を流した。それは美しい人が失ったひとやものにたいしてではないし、ましてや彼自身に近付こうと試みたからでもない。彼が美しかった、ただそれだけの理由で僕は泣いた。そして彼と一緒に煙草を吸った、彼の失くしたひとの煙草だった。  

(松井宏)


 

12月7日(木)

『クロコダイルの涙』レオン・ポーチ

 このフィルムは主人公(ジュード・ロウ)の同じモノローグで始まり、終わる。それは彼の少年時代のある体験の記憶なのだが、少年の彼が木から落ち、その途中で枝に引っ掛かり、耳から血が流れ、その苦痛は今でもはっきり覚えているが、その後如何に地上に降りたのか全く記憶にない、というものである。このモノローグを聞き、フィルムの最初に我々が目にするのは少年さながらに木の枝に引っ掛かった車である。車はその巨体を地面 に降ろすことを禁じられたように、垂直という感覚を失い、落下という運動を忘れてしまったかのように宙づりにされている。
 悪人とは上へと向かう者である、というのは映画の常套であるが、ラオール・ウォルシュの
『ハイシェラ』『白熱』を思い出すまでもなく、上へと向かう運動とは、映画の人物たちのピンと張り詰めていた感情の糸を引きちぎってしまうようだ。このフィルムでも、エリナ・レーヴェンゾーン(レーヴェンソン?)(彼女はハル・ハートリーのフィルムの中でよりも一層エロティックな表情をこのフィルムで見せてくれる)が一度地階まで降りきったエレベーターを即座にもう一度上昇させる時、それまで緊張関係にあったジュード・ロウと彼女の感情は一気に常軌を逸した何かへと変貌し始める。「狂気」とでもとりあえず呼ぶしかないものを抱えたまま、二人は当然のごとく屋上にたどり着く。この「狂気」を終わらせる方法を映画は一つしか知らない。彼女はそこから地上めがけての落下運動に身を任せようとする。だが、落下を禁止され、宙づりにされた車や少年時代のジュード・ロウのように彼女もジュード・ロウにその腕を掴まれ、落下を許されない。だから結局「狂気」を抱えたまま彼女たちは放り出されてしまうのである。落下を許されずに宙吊りにされた者とは、その「狂気」に晒されたまま、普通 なら落下するその刹那を、限り無く引き延ばされた者なのだ、とジュード・ロウのモノローグは語っているのかも知れない。いや「狂気」とは果 たして名付け得ないものかもしれない。何故なら、名付け得る感情など、目に見える「もの」として、このフィルムではその形態を晒しているからである。それはただ、ロンドンを彷徨するエリナ・レーヴェンゾーンの顔に焼きついた何かなのだ。

 (新垣一平)

 

 

12月5日(火)

『アンチェイン』(2001年陽春公開)豊田利晃

11月21日テアトル新宿での『アンチェイン』(2001年陽春公開)試写会に行く。本作品の監督、豊田利晃は『王手』『ビリケン』(阪本順治監督作品)などの脚本を手掛け、98年にリトル・モアMOVIESシリーズの内の一本『ポルノスター』を手掛け監督デビューを果 たした。
第2作となるこの作品は「アンチェイン梶、ガルーダ・テツ、永石麿、西林誠一郎 ム ボクシング、キックボクシング、シュートボクシング、さまざまなリングで闘う4人のボクサーを、現役、引退から現在まで5年の長期に渡り追いかけた青春映画」(プレス資料より)である。

「アンチェイン梶というボクサーがいた。
  リングネームの“アンチェイン”はレイ・チャールズの名曲
 
『アンチェイン・マイ・ハート』からとった。
  “心の鎖を解き放て!”
  まさにその歌のように梶は生きた。
  戦績、六敗一引き分け。たった一度も勝てなかった。」

冒頭でのナレーション、千原浩史のこのセリフが示すように、決して強くはなかった4人のボクサーのあまりにも力強い魅力によって作品は支えられている。そして監督自らが撮影するカメラは、その魅力に必死で食らい付くかのように執拗にリングサイドで彼らの試合を追う。が、彼らが叩きのめされる光景をカメラはリングロープ越しにしか見つめる事が出来ない。リング上と外はただロープで仕切られているだけ、だがその溝はあまりにも深い。そしてドキュメンタリーであるが故にその溝を越える事が許されないカメラの動きはあまりにももどかしい。その間に彼らはひたすら殴られ続けている。 と、一瞬カメラはリングロープを下から越えてしまい、映された映像からはちらついていたロープが消えさった。“心の鎖”が解き放たれたように。
「ドキュメンタリーがどういうものかわからず、とりあえず「映画」を撮りました。」と監督は舞台挨拶で語った。しかしその言葉とは裏腹に、作品全体にはあまりにもドキュメンタリーらしいショットがちりばめられていた。インタビューを受け、それぞれの昔を語る4人、彼らの当時を知る関係者達。なぜかいつも固定されたカメラ、彼らの今の生活を分かりやすく背景に収めた構図、たまに入るインタビュアーの声。それらは我々が嫌と言うほど見てきた「ドキュメンタリー」だった。
その中で、のどに引っ掛かった異物のようにあの一瞬が存在している。梶にとって「花道からリングに上がる瞬間が、自分にとっての“アンチェイン”」だったように、リングロープを越えてしまった瞬間こそが監督とそして我々にとっての“アンチェイン”だったのだ。一瞬、このフィルムはドキュメンタリーでもフィクションでもなかった。   

 (三宅晶子)
 

 

 

12月4日(月)

『美しき仕事』クレール・ドゥニ@東京日仏学院

 あれは美しい仕事だろうか?確かに海は美しい。彼らの仕草も美しいかもしれない。だが、あれは仕事なのか?毎日の日課は、トレーニングと洗濯、アイロンがけ……。そこにあるのは何も産み出さず、何にも還元されない、あの一隊だけの中で自己完結された世界である。もちろん訓練は戦争に備えてのものであり、彼らはそれ以外にも仕事らしき雑用はしていただろう。だがその様子は映像に表れることなく、また「何かに還元される」ことなどドゥニ・ラヴァン演じるギャループには必要ではなかったのだろう。
 そしてバックタイトルで見つけた、二―ルヤング&クレイジーホースの文字。そこである彼らのアルバムを思い出した。
『ラスト ネバー スリープ』である。「ヘイヘイ、マイマイ(アウト オブ ザ ブルー)」、「マイマイ、ヘイヘイ(イン トゥー ザ ブラック)」と題された二つのヴァージョン違いの曲によってひとつの円環が締めくくられるものだ。始まりの方はアコースティックギターひとつで、最後はハードな曲調。同じメロディーでテキストにはもちろん関連性はあるのだが、どこがどう対応しているのだとはっきり言えるようなものではない。この二つは明らかにヴァージョン違いであるがまったく別 の曲でもある。「フェイド・アウトするよりも燃え尽きる方がましだ」といいながらも、「ロックは決して死なない」と歌い、ロックでありつづける人、ニール・ヤング。
 つまりそういうことだ。何かに絶望しながらも、そうしなければ成立しないもの。他にもいくつも選択肢はあるのに、そうせざるを得ないという必然性に迫られたニール・ヤングの音楽は美しい。それと同じようにこの映画も美しいのだと思ってしまった。

(中根理英)

  


 

12月3日(日)

HAN BENNINK PLAYS 6DUOS @法政大学学生会館大ホール(11/30)

 ハン・ベニンクとは如何なる人物か?私自身「有名なジャズ・ドラマーらしい」ぐらいの知識のみで聴きに行ったのだが、この人、とんでもない親父であった。
 まず驚かされるのはそのパフォーマンスで、ベニンクは「ドラムを叩く」のではなく、「ドラムを使って演奏」する。スティックで床や靴底を叩き、大量 のスティックを投げ飛ばし、ドラムセットを紐で絡めて揺らし、と書き切れないのでこれぐらいにするが、自分の身体を含め「そこに在る」もの全てでもって音を生み出す。しかもそれぞれの音を思い付くままに出しているというわけではなく、時間と空間の中に音を位 置付け、同時に音と音との関係性によって時間と空間を生み出しているのだ。
 だから、この日のライブの内容は読んで字のごとくベニンクが6人のミュージシャンそれぞれ(順にアルトサックス、琴、エレクトロニクス[ターンテーブ等]、
ギター、チューバ、ピアノ)と共演するというものだったのだが、どのデュオも異なる空間を生み出しており、つまりはベニンクのプレイもそれぞれのデュオによって異なっていた。しかしそれは決して相手の音を聴いてその音に合わせているということではない(もしそうならば、ドラムという楽器の性質を考えるとベニンクの出す音は「音」と言うよりも「リズム」として聞えるはずだ)。彼は相手の出す音を自分の出す音と同じ感覚で(同一のものとして)聴いているのではないだろうか。つまり「他者の音」に音を重ねるのではなく、「そこに在る音」に音を重ねているのだ。
 と、このように書いてきて思ったのだが、これはベニンクに限らず即興演奏というもの自体についての言説とも言えるかもしれない。つまり私はこのライブによって初めて即興演奏を真に体感したのだろう。  

 (黒岩幹子) 

  

 

12月3日(日)

AIDS DAY CLUB EVENT @ 西麻布THE WALLBLDG

 12月1日は世界AIDSデイだったのをご存じでしょうか?
 世界各国日本国内でもAIDS周辺に関しては様々な取り組みが行われています。中でも「クラブとEX」「SEXとAIDS」は切れないもので日本では
「GRATIA」というAIDSケア・プロジェクトが主催するチャリティー・クラブイベントが毎月行われているのです。
そして2000年12月はミレニアム・AIDSデイということで西麻布にあるTHE WALLBLDGを貸し切って地下2階から地上6階まで各フロア毎に様々なアトラクションが催されました。
THE WALL BLDGはJ TRIP BAR、PASHA CLUB、THE SUITEという三つの店舗からなっていてどれも特徴がある内装で階段を上がる度に別 の空間に訪れた気分になります。階段も、外から見える作り(ユロ氏の家のような)になっているのです。
 その日はB2・6F(実は1階にラウンジ風の3階から4階にかけての階段の途中にもDJブースがあった)にクラブスペースがあり、一時間置きにショーが行われました。クラブミュージックは地下がTRANCE・UK(HOUSE)で上がNYといった感じで、ゲストDJにはTOKUNAGAやSHINKAWA、NAO NAKAMURA他が参加。当然ながらボランティアだったそうです。だからクラバー達は自分の好きな音・ショーを求めて階段を行ったり来たりするのでした。
 チャリティーイベントというものは色々あり、その趣旨に賛同して参加する出演者はいても、賛同して参加する客は少ないと思います。しかし、好きなDJ・アーティストが参加していることでそのイベントへ参加し、AIDSをはじめとする問題を少しでも考える。
 考えてもらうことも大切だけれども、お金を使ってもらうことも大切。アーティストに賛同するということ=イベントの趣旨に賛同することに変わるのです。  

(寿原陽)

 
  

 

12月3日(日)

『EUREKA/ユリイカ』青山真治

 11月25日、パルテノン多摩、小ホール。
『EUREKA』。16:10からの上映。言うまでもなく、多摩地区は近年の街である。集合住宅が立ち並び、サンリオピューロ・ランドなるテーマパークがある。休日ともなれば、まだ小さなこどもを連れた夫婦が近くのデパートや公園などに溢れている。渋谷センター街の賑やかさとは、どうも様子が違う。時代を反映しているのは、一体どちらなんだろうか。
 
『EUREKA』について、何か言葉で論を立てるのはむつかしいかもしれない。けれども、何か言わなくてはならないような、そんな気にもなる。とりあえず、僕なりの覚書きを書かなくてはいけない。
 
『EUREKA』の物語は、「形ないもの」に支配されている。おそらく、それは青山真治のこれまでのフィルムでもどこかで貫かれていたキーであるのだろうが、その1つの頂点として、このフィルムでは全てをそれが支配している。しかしここで、「形あるもの」をどう位 置付けるかという問題がある。否定するか、それとも対極にあるものとしてそれを認めるか。映画では、両親を失った(死んだわけではないのだが)兄妹の兄(宮崎将)が、墓標として立ててあったパイプをなぎ倒すというシーンがある。これが全てを示すというのは過言かもしれないが、少なくとも、そこでは「否定する」という意志を越えた、「否定せざるを得ない」というコントロール不能な行動としてみてとれる。確信のできないもの、つまり形として目に見えない何かによって、彼は行動する。役所広司の「咳き」もそうだ。「せざるを得ない」のだ。いや、この映画では、彼だけでなく皆が、確信できないでいるかのようである。ジム・オルークやアルバート・アイラーもほとんど固有名詞を失っているかのように流れている。
 かつての、
『パリ、テキサス』のマジックミラーのシーンを思い出した。「ねぇ、わたしあなたの顔みてる?」というあのシーン。そういえばあの映画も「家族」の周りの映画だった。(ヴェンダースもコルトレーンの『Alabama』を流すフィルム『アラバマ-2000光年』を撮っている)電話の声(形ないもの)と鏡のむこうの顔(形あるもの)は、絶対的にズレていた。「向こうに誰かいる」のに、いないような。それは、『ニンゲン合格』で黒沢清がやったことにもどこか通 じている。(黒沢清は『パリ・テキサス』を参照していないと、明言しているが)「向こうに誰かいる」これが、『EUREKA』における「家族」をも貫いているのではないだろうか。役所広司は、しきりに壁を拳で、コンコンと叩く。返事があるわけでもないのに(一度だけある!)。海に向かって、突き進む宮崎あおいもいる。確信したいのだが、そう出来ない彼らにとって「向こうに誰かいる」という感覚のみがそこにはある。映像には決して映り得ないもの、フォルムとして現前しないものを青山は「実感」と呼び、それをフィルムに焼き付きようとする。そのとき、フィルムは謀らずも現代性をどこかで背負ってしまう。そうやって『路地へ』『カオスの縁』もあるのだろうし、それこそが彼の現在性(近接過去)なのだろう。
 映画のラストで「ユーレイカ!」と心の中で叫んだのは、おそらく僕だけではないはずだ。

(酒井航介)


 

12月3日(日)

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』ラース・フォン・トリアー

 先週の予告通りトリアーの「ダンサー・イン・ザ・ダーク」で書こうと思うのだが、しかしまだ「ダンサ〜」は公開されておらず、東京国際映画祭で観た人以外の方々はまだ観ていないわけで、従ってここに書くことは思いっきりネタバレの内容になってしまうだろう。しかしかといって他に書く事も見付からないので、まだ観ていない方であまり内容を知りたくないと言う方はこの先読まない方がいいかもしれません。
 ミュージカル映画について語る時に、「現実」という言葉はその使い方が非常に微妙で難しいと思われるので、ここでは「日常/非日常」という言葉を使いたいと思う。ミュージカル映画はこの「日常/非日常」の2つに大きく分けられるだろう。つまり人が会話をしている部分が「日常」で、人が踊り出したり歌い出したりする部分が「非日常」である。(人は大抵日常においていきなり歌い出したりしない。)そして先週、ミュージカル映画が究極の脳の映像であるように感じられると書いたが、それはつまりこの「非日常」の部分は、完全に登場人物の“願望”“想像”なのではないか、という意味である。そして先週挙げたミネリ監督やドーネン監督のミュージカル映画は、「日常」から「非日常」への移行があまりにも自然で滑らかであるが故に“究極”だと思うのである。
 それを確認した上で、「ダンサ〜」について考えてみたいと思う。ご存知、この映画のミュージカルの部分はデジタルカメラで撮られ、それ以外の部分はフィルムで撮られている。
聞くところによるとフランスのカイエ・デュ・シネマではこの映画は「観る価値なし」に位 置付けられているらしいが、私としては非常に気に入った部分がひとつ(ふたつ?)あった。それは主人公のセルマが働いている工場の中で歌い出す所だ。病におかされた目は日に日に見えにくくなり、工場を辞めさせられてしまえば息子の手術代を貯める事ができなくなってしまう、そんなどう考えても不幸なセルマの耳に届いてくる機械の「雑音」が、日常の境界を超えて滑らかに彼女の頭の中で「音楽」になる部分である。私はミネリやドーネンのミュージカル映画を観て、私達がミュージカル映画を観るという行為とはこれに近いものではないかと思うのである。それは多分現実逃避とも見れるかもしれないが、このシーンのセルマのような現実逃避は、それが「潔い」が故に私は積極的に肯定したいと思う。
 私が「ダンサ〜」の中のミュージカルシーンで肯定したいのはこの部分と裁判の部分だけで、あとは気持ちの悪さが残るばかりだった。特に最も最悪だと思った所は、お金を盗んだ男を刺してしまった後の部分である。確か字幕では、セルマのセリフが「私がすべて悪いの」で男が「僕が悪い、君は悪くない」で、息子が「お母さんは僕を助けようとしただけ」と言うような感じだったと思う。そしてここで、ミュージカルのシーンがセルマの頭の中にある、願望、想像としての映像だということを思い出すならば、彼女は「わたしがすべて悪い」と思っているのと同様に、男からは「僕が悪い、君は悪くない」、息子からは「お母さんは悪くない」と言ってもらえる事までをも同時に望んでいるのである。この「潔さ」の無さ。どっちかにしようよ、と思わず呟いてしまいたくなる。ここにあるのは正に、不幸な現実に直面 した人間のカタルシス的な心の浄化作用なのではないだろうか。障害者を使ってお涙ちょうだいの話に仕立てている点以上に、トリアーの“あくどさ”とはここに存在するのではないだろうか。
 世の中にはそういう心の浄化の仕方を好む人間も多いだろうが、まあ要するに日常生活においても「今置かれている状況をどこまで楽しむことができるか」が生きていく上で重要だと信じて疑わない私は、そういう方法を取りたくない、そういう方法を取る人間に対して私は「不幸好き」という言葉を投げかけるだろう、という話である。まあ言ってみればそれだけの話。ここまで書いて気が付いたが、私が上に書いたことは結局個人の好き、嫌いに落ち着いてしまうような気がするので、論理的な思考が無いと言われてしまうかもしれないが、ジャーナルだし、まあいいかということで甘く見てください。

(澤田陽子)