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~DECEMBER#2

-12月28日のぼやき
-『キプール』アモス・ギタイ@TOKYO FILMeX

-『ヴェルクマイスター・ハーモニー』タル・ベーラ@TOKYO FILMeX(澤田)

-『ヴェルクマイスター・ハーモニー』タル・ベーラ@TOKYO FILMeX(中根)
-『単純な出来事』『静かな生活』ソフラブ・シャヒド・サレス@TOKYO FILMeX

-ジョルジョ・デ・キリコ展@bunkamura

-『Raj Packt』構成・美術・照明・衣装/勅川原三郎@新国立劇場

-ジム・オルークの持続について

-『ブラックボード』サミラ・マフマルバフ@TOKYO FILMeX ル・テアトル銀座


12月28日(木)

12月28日のぼやき

 三角定規を手に取る。
 突然こういう言葉から始める文章は、得てしてつまらない。これも例に漏れないかもしれない。でも、せっかく始めたのだから、書いておく。
 三角定規には、当然ながら3つの辺がある。二等辺のものでも、1:2:√3のものでもよいのだが、どちらにしろ、定規というくらいだから、それぞれの辺は10センチであったり15センチであったりするわけである。この、10センチなり15センチという長さ、距離はおそらくどのメジャーで測ろうが10センチだとか15センチだとかを示すだろう。高い技術でつくられた定規ならば、より正確にその長さを示すだろう。とりわけ三角定規は、90度の角を持っていて、垂直もしくは直角という、地球の重力によるもっとも普遍的な中央集権主義への忠誠具合を測ることができるし、15センチなら15センチという規格をそのフォルムで現わしてみせることができる。これが15センチだ、90度だと言われれば、誰として否定することなどできはしないし、それ以上、何も言うことなどもうないだろう。そこに見えている三角定規を前にして、一体、何を言えば良いというのだろう。例え、さまざまな大きさのものがあるとしても1:1:√2なり1:2:√3なりという法則に背いては、三角定規たり得ない。三角定規は、見えている通 りのものとしか言い様がない、もう既に何もかも語り尽くされているかのようである。
 しかし、完全である故に、三角定規は不可能性を帯びている。3辺のうちの、「ルート」の辺である。三角定規のルートの辺とは。それが、その語り尽くされたかのように形作られた3辺の1つの辺として、目の前に現れているその不可思議さ。「ルート」と大きく語られる、その1辺の内実。例えば、√3は「1.7320508・・・・」ということになっている。数字を補う「・・・・」は、もちろん「以下の数値省略」という意味である。では真に√3とは、一体。仮にその数値を限り無く計算しえたとしても、もしかしたら、いや、必ず「・・・・」という省略記号はつけられるだろう。だからといってその作業が、どれだけ非生産的かなどと言うのではない。その現前によって規定され得たはずの三角定規の1つの辺として目の前にある√3の辺は、その限り無く小さな数字を常に省略し続けなければならない運命にあり、長さを永遠に決定不可能なのにもかかわらず、辺として、確かに現前している。全てが語り尽くされ、全てが停止しているかのような三角定規において、常に葛藤し、動き続けているのが、「ルート」の辺なのかもしれない。手に取った三角定規は、もしかしたら、限り無く微少な語りさえも許容する、可能体であるのかもしれない。
 105年前の12月28日が、映画史の始まりの瞬間であったことをラジオが告げていた。
 映画は「ルート」でなくてはならない、ということか。
 では、今年のぼやき納めをしよう。 

(酒井航介)

 


12月27日(水)

『キプール』アモス・ギタイ@TOKYO FILMeX

 ひたすら鳴り響くヘリコプターのプロペラ音は一種のミニマル・ミュージックとなり、次第に我々の聴覚を麻痺させていく。耳障りでもあり、一方で心地よくもあるような。そしてスクリーンでは、負傷兵をヘリコプターまで運ぶという作業が反復され、一体何をしているのだろうか、何台もの戦車がその周りでうろうろと動き回っている(まるでデパートの屋上にある遊具の車のような動きだ)。
 この映画によって中東戦争の政治的背景やその経過を知ることは出来ないし、劣勢なようであること以外、具体的にその戦況もほとんど把握出来ない(そもそも敵対しているシリア軍の姿も、我々ははっきりと見ることがない。)。では我々がこの映画で見るものは何かと言えば、それは戦場であり、感覚が麻痺していく兵士達の姿であり、つまりは戦争そのものだ。
 戦場で最も必要となるのは迅速な「判断」だろう(実際この映画の兵士達も、どちらに進むのか、どの負傷兵を連れて行くのか素早く判断していた)。だがそれは一方では、混乱した戦場では「判断」が何よりも困難だということでもある。
しかも日々積み重なっていく疲労は判断力を鈍らせ、そして感覚が麻痺していく。時間、距離に対する感覚、もちろん自分自身の身体感覚もだ。しかし果 たしてそれを「麻痺」という言葉だけで片付けることが出来るだろうか。
 子供の頃、母と強制収容場によって引き裂かれ、再会した時に母と認識出来ず拒絶したという軍医。負傷した彼は仲間の症状を冷静に医師に説明した後、医師に「君は?」と尋ねられ、「母と一緒に居たい。」と呟く。この時彼の時間感覚は、30年も前の過去にあるのだが、それを簡単に感覚の麻痺で済ませることは出来ない。何故ならばその感覚は彼にとって「真実」なのだからであり、そしてこの言葉にこそ戦争の「真実」があるのではないだろうか。 

(黒岩幹子) 


 

12月25日(月)

『ヴェルクマイスター・ハーモニー』タル・ベーラ@TOKYO FILMeX

 “ヴェルクマイスター・ハーモニー”とは何か。それは映画の中で一度だけ老人の口から聞く事ができる。「気持ちの悪い、不快な」調和音。それがヴェルクマイスター・ハーモニーだ。
 このフィルムは、至る所に“システム”が散りばめられていた、不可解な映画である。“システム”を、ここでは“物事を滞りなく進めるために施された方法、仕組み”とでも言おうか。行為の目的=物事を停滞させないため、でありそれ以外に目的は無い。システムがあるから彼らに考える必要はないのである。この映画の後半では村の中で暴動が起こり、住人は病院を襲い病人に暴力を振るうのだが、彼らのそうした行動は自らが何らかの目的を持つことにより行なわれているという訳では決して無く、無目的で、あたかもそうする事が当然であるような、彼ら以外の何かによって操られているが故の行為にしか見えなかった。カメラの動きも然り、「自然界の驚異!巨大クジラ」と書かれた張り紙と、靴屋の看板は同じ様な構図で其々2回ずつ登場する。それもまた、それらを選択して撮ったというよりもはそうする事が当たり前であったかのような、何かに操られて撮っているような不快さがあった。そしてその「操っているもの」が即ちシステムなのである。(例外的な場面 は、食堂でのキスシーンや寝室でのダンスシーンだ。そこだけ別の、濃密な時間が流れているようであり、緊張感に溢れた感動的な場面 だった。)
 映画の冒頭のシーン。酒場の客が各々太陽、地球、月の役割を演じ、くるくると回りながら公転、自転を擬態する。目的の無い、普遍的な宇宙のシステムだ。主人公のバルシュカはそこで何をしていただろう。客に太陽、地球の役割を与え、システムを作る立場、言ってみれば神の立場にいた。つまりこの時点では彼はシステム内部にはおらず、そこから距離を取った外側の人間であった。巨大クジラが運ばれた広場で村の住人が5,6人の小集団で固まっている時も、彼だけがそのグループのどこにも属さず、どの集団から見ても「外部」にいたわけで、それはそのまま彼の願望でもあった。どのシステムからも距離を取った、神という特権的な立場に自身が居ることを望む彼は、自然界のシステムから逸脱した巨大クジラを見て感嘆し、そこから「神の偉大な創造欲」を感じるのである。
 サーカス団のゲスト、プリンスなる人物は「木端微塵だ」と叫び、女は秩序を回復すべきだと言う。システムだとか、秩序の回復だとか言ってしまうとどうしても黒沢清監督の作品(
『カリスマ』など)を想起してしまうのだが、『カリスマ』の主人公と彼(バルシュカ)は対極的だ。藪池が壊れかけた森のシステムにためらい無く手を下し、森同様戦場と化した都市に「すぐ戻る」と告げるのに対し、彼は暴動が起こり始めた山の上の建物を背に、必死になってそこから逃げようとする。彼はあくまで外側にいようとするのだ。しかし逃げる事は不可能だった。彼が辿り着いた場所は病院の中、つまり正に今暴動が起こっているその場であり、彼は目撃者であり当事者なのである。この映画に目的が存在しない以上、何故、いつから彼は内部から逃れられなくなったのかという問いは無駄 であり、唯言えることは、現場から“逃げよう”とした彼のその行為が既に、彼がシステムの内部に存在している事を証明してしまった、ということだ。
「僕は何もしていない」と彼は言う。「何もしていない」がやはり逃げ出した彼が走っていたのは線路の上で、その上をどこまで走っても外部に到達する事はできない。到達点はどこにも無いような、「到達点=出発点」というシステムの上を、彼は走っていたのである。
彼自身がシステムの上に乗ってしまった以上、システム外の存在はフレーム内から消滅し、フィルム自体がシステムに操られ始めるのである。すべてが何ものかのシステム下に置かれ、そしてその「何ものか」は決して眼で見ることの出来ない、得体の知れないものなのだ。正体不明の何ものかによって結果 は押付けられ、「到達点=出発点」というシステム上で、自らの意識で歩んできた過程はゼロになるのである。
『ヴェルクマイスター・ハーモニー』の「不快さ、不可解さ」とはここにある。

(澤田陽子)
<カイエ・デュ・シネマ・ジャポン公式サイトより転載>


 

12月25日(月)

『ヴェルクマイスター・ハーモニー』タル・ベーラ@TOKYO FILMeX

 主人公の叔父であるエステルが、ハリー・パーチに思えて仕方ない。彼の音楽論はまさしくハリー・パーチそのものである。12音音階ではくくれない音を、記譜できないような低音を、もっと純粋な(自然的な)調性を、音楽的ハーモニーではなく非音楽的なそれこそが重要だと聴衆のいない彼の部屋でマイクに向かって話しつづける。そして、自然的に調律された(おそらく純正調を意味する)ピアノでは、変ロ長調がうまく弾けないのだとも。
 いいおくれたが、彼は著名なピアニストである。ピアノという間違いなく12音に区切られ、音域も限られた楽器を前にこのような音楽論を繰り広げる、その矛盾を誰も指摘しようとはしない。ハリー・パーチはといえばその全てを実践するために、古代ギリシア楽器や、記譜どころか人間の聴覚の限界にある低音を奏でる楽器を作り、そしてまた純正調も43音階も自らの手によって作り出したのだった。しかし一方のエステルは、あくまでも「ピアニスト」であり、そこから外にでることはない。
 その矛盾に輪をかけるように、ラスト近く暴動の後、主人公を病院に見舞いにいくシーンにおいてエステルは「静寂」の中で平均律のハーモニー(=ヴェルクマイスター・ハーモニー)を発見してしまったと告白する。通 常の方法で調律されたピアノでは何もかもが美しく響くのだそうだ。これは彼が「ピアニスト」である限り発見するまでもないようなたやすいことである。だが、ハリー・パーチであるところのエステルにとってこれほどの矛盾はない。それは平均律以前の音感に戻ることでより自然的なメロディーをと考えたハリー・パーチ以降にエステルを位 置付けたこの映画が、人為的調和の元にありながらそのようなことは意にも介さず美しく響き合う「協和音」に結局回収されてしまう。このように重層化された矛盾が常にこの映画には見え隠れしているのだ。だが、これは結局戻るべきところに戻ってきたというだけのことなのかもしれない。この村で人々が求めていたのは見せかけの前衛でも暴力でもなく、平穏な生活なのだから。それを得るためには、何も見ず、何も聞かず、何もせず、ただ家の中に閉じこもってしまうことだ。暴動も、その後の警察の取り締まりも彼らはただそれらが過ぎ去って行くのをじっと待つばかりである。いざとなれば村から逃げればいい。あたかも村の外にはまるで別 の世界があり、そこでは何もかもが白紙になるようだ。叔父エステルも妻に家を追い出され、東屋でひっそりと暮らし始めたとき、あの静寂における協和音を(再)発見するのだ。だが、何もかも見てしまった主人公にとっては、全てはなかったことになどならない。彼は事件を見てしまったのだ。そして村の外にも地続きの世界が広がっていることを彼は知っている。

(中根理英)
<カイエ・デュ・シネマ・ジャポン公式サイトより転載>

 


 

12月22日(金)

『単純な出来事』『静かな生活』ソフラブ・シャヒド・サレス@TOKYO FILMeX

 まず、日本では紹介されていなかったこの非凡な才能の監督の作品を見ることができて、素直に喜ぶことができると思う。多くの場合出来損ないのメランコリックか見せかけの告発に陥りがちな主題−−極貧の少年や極貧の老人−−を掬いとり、そのシンプルな物語構成と適確なショットによって、現実的だが、かつある種幻想的(『ミツバチのささやき』…)でもある空間が映画全体に緊張感とともに漲っており、両作とも傑作といって差し支えないだろう。
 監督デビュー作とは思えない完成度を備えた
『単純な出来事』は、その空間造形とともに切り返しが冴える。例えば居残り授業をさせられた少年と教師の教室でのそれや、密猟から帰ってきた父親と少年の家の中でのそれは、両者の関係性とその間に横たわる緊張を見事に提示している。それはこのフィルムの端正さなのだが、一方で例えば、走る少年がふと目を横にした時に唐突に、しかもほんの一瞬だけ現れる少女−−多分母親以外の唯一の女性だと思うのだが−−を中央に据え、真正面 から捉えた忘れがたいショットは、物語から逸脱し、映画を幻惑させる要素の一つを成している。 大きな耳をした貧しい少年の生活が感傷的な雰囲気を排して描かれるこのフィルムが、現実主義的ばかりでない印象を与えるのは、そうしたショットとともにその音であるだろう。汽車、海、草むら、病気の母親の咳、トラックのエンジンらしきもの(最初はフィルムの音かと思ったが)、そして学校での棒読みで朗読される詩(ゴダール…)。それらの音が、耳を塞ぎたくなるような嫌らしさと少年を見守る繊細さと優しさを同居させて私たちの耳に届くのだが、これらの通 奏低音の中には終始出自が不明なものもあり(汽車、エンジン音など)、そういったフレーム外を想起させる音も異空間的様相を映画に与えている。だが、最も鮮烈な音は比較的短い間隔の少年の足音だ。たったったったっ、という音は終始止むことがなく−−警察すらも止められない少年が唯一立ち止まらされてしまう場所は学校で、少年に向かって「座りなさい」と教師は何度くり返したことだろうか−−、その運動だけがこのフィルムの厳格なフレームの外への少年のベクトルとなっているようだった。

 もう一方の
『静かな生活』も赤貧の老夫婦の日常を淡々と描く。老人の職業は田舎の踏切番なのだが、映画では数えきれないぐらい電車が踏切を通 過し、老人が遮断機を上げるという動作を反復する。電車が通過し、遮断機を上げるシーンを何度見せても飽きさせないのはさすがだが、おもしろいのは遮断機の前で待つ車が一台もないことだ。遮断機が上がっている時に線路を横断するのも、家畜の群れと帰省した彼の息子をのせたバスとの二回だけなのである。それだけでなく、通 過する電車のなかには業務用の低速で走る非常に小型のものもあり、誰も通らないのに大仰に遮断機を降ろす必然が全く感じられず、老人の仕事の無為さを感じさせるばかりなのだ。そういえば、一定方向に据えられたカメラが映す、老夫婦の住む部屋では、お茶を啜る機械的な動作を執拗に反復してみせていたし、ほとんどこの老人たちの生活は型だけが残った儀式さながらである。

 だがそれでも、鉄道会社の重役の訪問、息子の帰省、老人の解雇、それに伴う新しい踏切番の出現、とフィルムは確実に儀式的日常に変化を強いていく。解雇に抗議しようと鉄道会社を訪れるため老人は電車に乗り(この車窓から捉えた風景も秀逸)、街を彷徨する(老人版ヴェンダース…)。それでも哀れな老人といった紋切り型の情緒過多に決してならないどころか、冷徹にシーンが構成され、その冷徹さがフィルムの空間を非凡なものにしていき、老人が自らの顔を鏡で眺めるというありふれたようなラストショットを忘れがたいものにする。締念、郷愁、寂寥といったあらゆる形容を舌足らずにする老人の自らの顔の凝視は、初めて老人の表情を見てしまった瞬間であり、彼自身と彼が生きてきた時間−−またはフィルムの時間−−の流れというものの鎹の表徴であったのだろう。

(新垣一平)
<カイエ・デュ・シネマ・ジャポン公式サイトより転載>

 


 

 

12月20日(水)

ジョルジョ・デ・キリコ展@bunkamura

 暇つぶし感覚で見に行ったが、驚嘆。絵画史的に正鵠を得ているかは度外視してとりあえず感動を綴る。
 彼の絵画の持つ時間感覚にある違和があるとするなら、それは何もその描かれたものが夢幻的形象であることによるのではない。
 例えば躍動感のない馬たちは、さながら銅像のようにも見えなくないし、精気の感じられない人間たち(この展覧会でよく見られたのは、ローマのグラディエーターたちだ)は、デ・キリコの特権的な主題であるマネキンと常に重なるのである。つまり、人間とマネキンは絵画の表象の過程において融合し、その差異を失うのである。ところで、果 たして人間とマネキンの間に本質的な差異などあるのだろうか? おそらくデ・キリコはそのように思っていないだろう。デ・キリコは「マネキンが人間に(外見が)似れば似る程、人はマネキンの存在を不気味に思う」というようなことを言うが、デ・キリコのマネキンは人間そっくりではなく、のっぺらぼうのごとくつるりとした表面 の顔を持つ。これは人間とマネキンのまやかしの差異をデフォルメしたものであり、なわち皺の略奪なのだ。皺を剥奪されるというのは、つまり、重層する過去の時間の消失であり、すなわち記憶喪失の表明であり、とどの詰まり自己のいる時間と空間の動機づけを失うことである。だが、そこには悲愴感も茫然自失となる必要性もない。何故なら、マネキンたちが彼らのいる場所についての理由を模索したりなどはもとよりしないからだ。彼らはただそこにいるだけだ。マネキンが人間に似れば似る程無気味なのはそのためだろう。人間がそれにすがりつきたくなるような、自己の存在理由についての講釈などしたリ顔でたれない彼らがあまりにも人間に似ている…。彼の絵画の持つ奇妙な時間感覚は、この皺を剥奪されたオブジェの存在の仕方、過去も未来もなく現在だけ(この区分自体が罠かも知れないが)がのっぺりとあると謂わんばかりのマネキンが、線的な時間感覚を持つはずの人間との差異を失っていく感覚よって引き起こされるのである。
 例えば、演劇の舞台背景の絵がある。これらの絵画の描かれたものも人間に似ているマネキンたちと同じように、本物の風景なのか、舞台上の表象された装置なのか、もはや分からない。それら、物語によってただの板切れからある具体的な意味を持つ光景へと昇華する以前の、その可塑性を剥奪された、絵画上の舞台背景も、同様にもはやそこにある/いる意味を忘れている、記憶喪失者のひとりだ。だから、デ・キリコがデルフト派的な構図を持つ風景画を描こうとも、それは一向にその風景の歴史性といったものからはかけ離れた場所にあると言えるだろう。
 こうして彼は晩年、自らが半世紀も前に描いた絵をもう一度描き、「イメージ」(ここでは私は記憶とほぼ同義だと思うのだが)を具現化するために絵を描くようになる。だが、半世紀を経たやや違うだけの二枚の同じ構図の絵を眺めていて私たちはデ・キリコの半世紀の記憶の厚みの現前を目の当たりにするのだろうか? いや、その逆だ。それこそ記憶喪失なのだ。半世紀の差異を虚無化してしまうような恐るべき企み! しかしこの試みは成功するのだろうか。私は違うと言おう。彼が「イメージ」を具現化しようと絵を描いたことがそのことを示していはしまいか。描くという行為そのものが彼の記憶と絵の決定的な断絶をあらかじめ証明し、その断絶こそが逆説的に時間と記憶というものの現在を暗示するからである。だから彼の絵自体に記憶の形跡など発見できないことが重要なのだ。描くということがより重要だ。その行為だけが不在の記憶の現在なのだ。

(新垣一平)


 

12月19日(火)

『Raj Packt』構成・美術・照明・衣装/勅川原三郎@新国立劇場

 ソロにおける彼の姿、その身体は空間を自らつくりだし、かつそれを素早く切り裂いてゆく。彼は「空気があるということを」意識すると言う。「空気」というものの存在、そしてそれが自らの自由を制限していることを意識するのは、舞台上で身体を使うものにとって必要不可欠な意識、そう、一つの倫理ともいえよう。底抜けに明るい身体も、逆に極端に「だらしない」身体も現在の舞台には必要無い。勅川原の身体に接する時、あのどうしようもない身体を曝け出す国内の大半の舞踊家、役者のおかげでかかってしまった「日本」というフィルターはもういらない。
 冊で区切った舞台前面にはなんと真っ白なウサギたちが五、六匹!! 途中には鶏、牛、ヤギまで登場する。しかし何と言ってもまず驚いたのが第一部におけるウサギたちの「沈黙」。幕があがる前から彼女達を眼にしていた私たちは、当然その「偶然性」を期待してしまうはずだ、だがバンドの生演奏が続く一部の間中、彼女達は舞台両隅にひたすら身を縮みこませる。無気味に白く光る者たちは舞台上の過剰とも言える身体と音と光とをひたすら見つめ続ける。結局、白く無気味な者たちのおかげでこの45分間はギリギリ一歩手前のところで踏み留まっていられたといえよう。
 だが消化不良に終わった第一部の不満を解消する驚くべき稀な体験を与えてくれたのは、第二部ラストでの勅川原のソロが続けられた二十分間である。緩やかな弦楽曲の一楽章が何度も反復されるなか、彼はどっしりと腰をおろした一匹のヤギを立ち上がらせようと身体を動かす。この前の段階で、「空気」に潰され沈黙してしまった女性の身体をもう一度震えさせた彼の身体は、ここでヤギという対話不可能な存在の前でいったいどうなるのか。目的という意味へ向けてのダンスはその達成への不可能性を徐々に曝け出す。穏やかに平和を讃えるような楽章のうんざりする程の反復はその穏やかさ故に観客に不可能性への無力感と、それでも踊る勅川原の身体へのいら立ちを増幅させはじめる。いや、実際のところいら立ちは、今体験しているこの舞台で一体何が確実なのかほとんど知ることができない、そんな一つの事実(本当はそれはどんな舞台においてもいえることだろうが)へ向けられているのかもしれない。
 だがふとしたときから、客席の席をたつ足音とざわめきのなかでのふとした瞬間から、舞台はとてつもなく抽象的かつ具体的なものとなる。それは、ヤギを立ち上がらせるという目的を捨てた勅川原の身体のひたすらな無償性!! 相も変わらず無表情に居座り続けるヤギ!! ちがう、とにかくここにある「舞台」!! 僕達はそこで起きている出来事に身体ごと捕らえられ、揺さぶられてしまう。その無償さ故に高まる抽象性、なんといえばいいか・・・・。 そして強調しておくべきは、これはあの二十分という持続のなかでしか絶対に生まれ得ず、また知覚もできなかった出来事であるということだ。
 でも今回の舞台は賛否両論あるんだろうなあ・・・・。 

 (松井宏)

 

 

12月18日(月)

ジム・オルークの持続について

 やや遅くなりましたが、ちょっと気になっていたので。
 ジム・オルークの持続、彼にとって持続することそのものが重要である。初期ミニマル・ミュージックのように反復の継続から起こる「ずれ」というものに意味を見出すことではなく、持続そのものにある力を与えることから彼の音楽は始まる。彼の歌唱法がドローンのようだといわれることも彼の出自(父親)がアイリッシュ系であることからではなくその持続性の一端としてそのようにたとえられているのだ。(ドローンとは持続音そのもののことで、演奏中に主音または属音を通 奏低音のように弾きつづける奏法。スコットランドのバグパイプやジム・オルークも用いたハーディ・ガーディが代表的な楽器である。)だから、ジム・オルークの音楽は反復を継続するための持続なのではなく、その持続性を維持させるために様々な反復を繰り返す。
 例えば、
『ユリイカ』の中の「something big」。このアルバムの中でも、そしておそらく彼の音楽の中で一番ポップな曲である。(余談だけど、この曲がカトリーヌの「PARLEZ VOUS ANGLAIS MR. KATERINE?」にちょっと似ていると思うのは私だけ?)ポップであるとはいえ彼の音楽には音楽的展開というものがない。ハーモニーパートがメロディーラインよりも高音でバランスなど考えないかのように歌い、あるメロディーを、歌のパートを変え、ハーモニーを加え、楽器にゆずり、ただひたすら繰り返してゆく。それは彼が、音楽の形式から脱却させることによって人々がこうあるものだと思っていることを壊したいのだといっていることなのかもしれないが、そこに決して音の起伏がないというわけではない。曲の中でスピードを速めていったり、(デ)クレッシェンドとはいえないような、まるでスピーカーのヴォリュームをただひねっているかのように音量 を上下させることによって音楽を緩慢さとは無縁の方向に持ってゆく。そして突然この曲のヴォリュームは勢いよく下げられて終わってしまう。まるで、音楽を首尾よく結末へと持っていく方法などないのだから、これで十分だろうといわんばかりだ。
 音は始まるのに終わらない。これがジム・オルークの持続である。反復に疲れ果てたとき(ミニマル・ミュージックが純粋な反復とその継続を止めたとき)、音は持続することも止める。だが、持続することそのものが目的だとしたら、それはフレーズからその反復、ひとつの音から次の音へとその残響を持続させながら移行していくことが終わりを迎えることはない。この結末はゆっくりとフェイドアウトしていくことで存在を薄めながらその反復が止まることを許さず、その持続性を残したままあっけなく消えていく。(中根理英)
 


  

12月17日(日)

『ブラックボード』サミラ・マフマルバフ@TOKYO FILMeX ル・テアトル銀座

 イランとイラクの国境付近で、彼らは敵からの攻撃から身を隠す時以外は常に移動していなければならない。各々が各々の目的を持ってそれを果 たすために。老人は故郷を求めて、教師はブラックボード(黒板)を背負いながら生徒を求めて、少年は「運び屋」として移動する。しかし彼らは実際移動していたのだろうか。
 彼らがしていた運動とは、距離的な“移動”というよりもは上下の移動、つまり上昇運動と落下運動でしか有り得なかったのではないだろうか。少年は転落して足を折り、男は尿を漏らす。老人らが辿り着いた国境は見覚えのない、最早何処でもない場所であった。ブラックボードに最後に書かれた文字は、“私はあなたを愛している”なのだ。

 題名ともなっている「ブラックボード」は、このフィルムの中で、単に文字を残すための黒板としての機能だけでなく、時には空襲から身を守るために使われ、時には骨折した足のギブス代わりにも使われる。しかしその「ブラックボード」がこの映画の中で果 たしていた最大の機能とは、移動を不可能にしてしまう、言わば道を歩いていたら突如現れた、行き止まりの壁のような機能である。起伏に富んだ山間の、壮大な景色を切り取るフレーム内部にのそのそと現れるブラックボードによって私達の視線は遮られ、我々も彼ら同様、“行き止まり”になってしまうのだ。

 戦争で精神のバランスを欠いたのか、人とのコミュニケーションをとる事ができなくなってしまった女性は、突然教師(夫)に次のような言葉を投げつける。
『私の心の中には1人だけしかいられない。
 ある人が入ってきたら、それまでいた人は出ていかなくてはいけない。
 永久に私の心にいられるのは唯一人。それは私の息子よ。』
このフィルム内の空間も、言ってみるなら彼女の心のように定員1名なのだ。定員1名のバスに人が押し寄せるから、バスは発車する事ができない。動かないバスは内部で様々な問題を抱え、また内部では外部と関わらなくとも様々な出来事が生じるのである。

 上映終了後のティーチ・インで、サミラ・マフマルバフ監督は次のように述べた。
『イラン・イラク戦争で実際多くの人々が亡くなった土地でこの映画を撮影しました。そうすることで彼らの魂がそこに必ず映るだろうと、私は考えたからです。』
“魂を映す”ことが彼女の誠実であり、この映画は彼女の、死者に対する誠実さそのものだ。例えば戦争映画を撮る時に、その「忠実さ」でもって誠実さを表明しようとする者もいるだろうが、サミラの誠実さはそれとは対極的に位 置する。なにせ敵の戦闘機は音でしか登場しないし、黒板を背負う行為もほとんどフィクションなのだから。ブラックボードに隠れる時、人は外部(=敵)の事など考えていない。考えていれば、弾が直撃した時それがほとんど役に立たない事は容易に想像がつくはずだ。あるのは「私は死にたくない、あなたを死なせたくない」、内部へ向かう感情だけのはずだ。サミラの誠実さとは、外部を持たない内部を、ためらいなく、ひたすら真摯な眼差しで見つめることであった。

(澤田陽子)

 

 

12月14日(木)

「憧れ〜女生徒より〜」佐内正史@NADiff

 
『女生徒』とは言うまでも無く、太宰治の1939年の小説である。これを、写 真集『たんたんと』『自分じゃない人』や、さまざまな雑誌でもそのまさに「たんたんと」した写 真を撮っている若手写真家、佐内正史の写真で語り添えようという写真集が発刊された。そのオリジナルプリントの写 真展である。写真集の紹介はここではしないが、その写真の中で撮られている2つの場所のうちの1つは、僕の住むアパートの周辺である。近くには、世田谷線が通 っている。(余談だが、旧型車両は来夏にはもう失くなってしまうのだ。)その踏切(アパートの目の前にある)を渡る少女の写 真や、旧型車両内の扇風機なども写されているのだが、その中の一枚の写真を僕はすごく気に入った。少女の若々しい腕が、とても平和に吊革に伸ばされている写 真である。佐内はその腕だけを見ている。腕を腕だけとして感覚することは、もしかしたら、その少女にしか出来ないのかも知れない。『女生徒』の語りを介すことで、もしかしたら、この写 真はあるイマージュを獲得しうるかもしれない。けれども、どうもその写真に僕は別 の「シテキ」な感覚を覚えた。腕が伸ばされた瞬間が写真として止められていても、僕にはこう言っていいのか分からないが、その場所には「映画」がもう既にあるような感覚がある。バルトのフォトグラムが近いだろうか。佐内の写 真集『自分じゃない人』は敢えてピントのずらされた写 真で構成されていたが、何かそういったようなイマージュの追い付かない絶えず動いているもの(映画?)を、「腕の写 真」は突然「停止」させ、まったく別の空間を僕に与えてくれるような感じがして、とても良い気分になった。
一枚の写真に惹かれるときというのは、やはりこういう時なんでしょうか。      <NADiffにて、12/25まで>   

 (酒井航介)