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~JANUARY

-『路地へ』青山真治 @日仏学院
-『EUREKA/ユリイカ』青山真治

-『ジュリアン』ハーモニー・コリン

-『バトルロワイヤル』深作欣二@渋谷ジョイシネマ

-『A One & A Two』エドワード・ヤン

-『a one & a two/ヤンヤン 夏の想い出』エドワード・ヤン

-『Kippur』 アモス・ギタイ

-『ダンサー・イン・ザ・ダーク』ラース・フォン・トリアー

-『OR』Dumb Type/on TV(シアターテレヴィジョン)



 

 

1月27日(土)

『路地へ』青山真治 @日仏学院

 「中上健次はもういない、彼はもう既に死んだのだ。なのにここには彼の視線がある。彼が必死になって眼にした風景が、路地が彼の視線と共にいや彼の視線そのものとしてここにある。死という絶対的かつ唯一つの現実、中上健次の死は揺るぐことのない現実である。だがなぜだろう、なぜ彼の視線はここに存在しているのだろう。彼はまだここにいるのだろうか。「中上はわたしの心の中に、記憶の中に生き続けている」、彼の小説群を読みそれに魅了された者は容易くそう答えるかもしれない。つまりは「わたしは中上の視線を所有している」のだと。そしてスクリーンに映し出される路地を見ても同じように呟くのだろう、「中上の視線を所有した」と。だが果 たしてそんなことが可能なのだろうか。本当にこの視線を所有し、内部に取り込むことなど果 たして可能なのだろうか。決定的に失われたもの、決定的に失われたというその揺るぎない現実に常に脅かされ続けているこの視線を所有する、つまり視線と共に死をも所有し内部化する、そんなことはほとんど不可能に近いただの幻想ではないのか。決定的に失われたもの、しかしながら映写 機が廻った途端それはスクリーン上に確かに出現してしまう。いったいどういうことだ。わたしが直面 する現実は中上の死、決定的に失われたという事実である、ということは今ここで眼にしている路地、彼の視線、ひいては眼にしているという事実すら現実ではないとでもいうのか」、こんなふうに青山真治は呟いたのではないだろうか。

 井土紀州が登場する。中上健次はもういない、それでも彼の連ねた言葉群はここにある。死と共にある、死に取りつかれたこの言葉群を果 たして所有することなど可能なのか。私たちと同じような戸惑いにとらわれた井土紀州は一体どうするか。答えは一つ。彼はその言葉たちを所有しようなどとは試みない。所有しようとすればその手から溢れだし、常に逃げていってしまう言葉群。ここで彼はそれらを所有し、自ら媒体としてそれらを再現しているのでは断じてない。彼はその言葉群に「なる」のだ(いや「なら」ざるをえないのか)。言葉群に「なる」、それは死という決定的な現実をも引き受けなければならないことを意味する、なんとも過酷な行為である。だが、だが言わせてもらおう、そのときこそ「中上健次」もまた言葉群に「なる」、「紀州」もまた言葉群に「なる」、すなわち「中上健次」も「紀州」も出現する、と。もはや中上健次<の>言葉群ではない、井土紀州<の>言葉群でもない。「中上健次」は言葉群であり、「井土紀州」は言葉群であり、「紀州」は言葉群なのだ。つまりは言葉群が「中上健次」に「なる」、言葉群が「井土紀州」に「なる」、言葉群が「紀州」に「なる」、言葉群が出現する・・・・・。

 あの視線、あの視線は中上のものではなかったのだ。彼の所有する視線ではなく、単なる「視線」だったのだ。そしてその「視線」を所有するのではなく、青山真治がその「視線」に「なる」。と同時に「中上健次」が「紀州」が「視線」に「なる」。「青山真治」は「中上健次」は「視線」である。つまり「視線」が「青山真治」に「中上健次」に「なる」、「視線」が出現する・・・・・。
 先に見たようにこの行為は過酷である。死を所有するのではなく、死を「引き受ける」こと、しかしこの行為こそが「青山真治」を「中上健次」を「紀州」を出現させるのだ。
 『路地へ』というフィルムの「視線」に「なる」こと。失われたものを、所有するのではなく「引き受ける」こと。だが『路地へ』なるフィルムだけにこの過酷な行為が必要とされているわけではないのだろう。それはフィルム体験の根底に関わる行為なのではないか(さらにそれは映画にとってだけではないのかもしれない)。  
 果たしてこの文章が『路地へ』を出現させ得たかどうか、いずれにしろそれに答える権利は僕にはない。   

 (松井宏)


1月26日(金)

『EUREKA/ユリイカ』青山真治

 現実感覚を困惑させる、色彩を帯びた不思議な白黒画面の中で、カメラは彷徨う。シネスコのため画面 は否応なく人物の周囲を少し余分に映しこんでしまうが、浅いピントのためにそれら周囲のオブジェは靄の中に迷いこんでしまう。結果 、前景中景後景といった奥行きの感覚は失われ、何やらのっぺりとした表情がそこにはある。にもかかわらず、人物たちはしばしば奥行きの軸に沿って配せられるのだ。カメラは当然ピントを人物の間で前後に揺らしていく。一人の人物をはっきり見つめようとすると
もう一人の人物は靄の中へ隠れてしまう。存在するものはその周囲に存在するものとは極度に曖昧に裂かれ、隔たった場所にあるだろうものは、確かにそこにありそうなのに、どうにもまどろっこしく、中途半端に漂っている。存在するものたちの間に溢れる靄。しかし同時にそれは噴煙に満ちた阿蘇山のようなもので、その靄ゆえにその奥深く眠るであろう穴をかろうじて認識する。だがしかし、それが穴とは!
 その隔たりの曖昧さは、一見周囲の状況から断絶して暮らし始めたかに見える兄妹のもとにも、役所広司を、さらには斉藤陽一郎を送り込む。ただそれは偶然通 りかかっただけかもしれない。役所広司と兄妹が同じバスに乗り合わせたことなど、他愛のない偶然だ。だが、それはのっぴきならない偶然であり、役所広司は自問する。「他人のために生きることができるのか?」。
 その問いの答えは、彼の時間と兄妹の時間とを近付けて、重ねていくことであり、かくして、バスは出発する。ゆえにフィルムの後半、ピントは揺れるよりも、全体を淡く包み込むようになる。それは全体が靄の中に投げ込まれることでもある。その靄の中でお互いの姿が見えないまま、彼らの一人は「コンコン」と音を発する。するとまた一人が「コンコン」と音を返す。行き場のない同語反復的な、それらの音は、同時録音だというのが信じられない程、何処からやってきたのかはっきりさせず、大気中を浮遊し、ぼんやりと広がっていく。目を凝らしてみれば、彼らがバスの壁を叩いているのがわかるが、それが本当にそこからの音であるのか私たちを不安にさせるような音だ。私たちが不安なのだから、彼らはどんなに不安なことか…。だが確実に彼らは「コンコン」と音を重ね、滲ましてゆく。気をつけなくてはならない。その滲みは恐ろしい程繊細で壊れやすい。ゆっくり、ゆっくりと、時間を積んでいかねばならない。
 海へと向かう途中、役所広司は、斉藤陽一郎が残したラジカセ−−それも曖昧な隔たりの向こうの存在の残骸だ−−の再生ボタンを押す。フィルムはその曲の流れる時間を体験する。それは誰の時間だろうか? 兄妹の、いや、兄の、そして妹の、役所広司の、あるいは斉藤陽一郎の、はたまた私たちの…。海はその重なり、滲みあった時間を呑み込みながら揺蕩う。だが、カメラはその彼方水平線を映すわけではなく、それを見つめる少女の瞳を捕らえるのだ。私たちも少女が見たであろうものを見つめることができるのだろうか…。『ユリイカ』はそう問う。  

(新垣一平)


 

1月20日(土)

『ジュリアン』ハーモニー・コリン

 劇中、絶えず鳴り響くあらゆる音に感じるこの違和感は何なのだろうと考える。目の前にある映像とシンクロしているはずの音は、どうしてもどこか別 の場所で鳴り響いているようにしか感じられない。映像と言う半身と、音という半身とが、ある時には限り無く遠くに離れ、ある時には限り無く親密に近付いている。しかし決して融合する事はない。
 そんな疑問もラストシーンで解決される。姉が死産した赤ん坊と共にベッドへ潜り込むジュリアンの姿をみて、彼は胎児であり、不在の母親の胎内へと回帰していったのだと納得するのは容易い事だ。モノクロで映されたベッドの中のジュリアンはまさに胎児の超音波映像を思わせるものだったし、へその緒に見立てた電話線を介して彼は母親を演じる姉と会話していた。それならば、あの近いのに遠い場所で始終渦巻いていた音は、母親のお腹の外の世界の音だったのかと納得する。我々はずっと母親の胎内にいたのだ。
 だが果たしてこのフィルムに映されていた胎児とは、胎内へ戻っていったジュリアンだけだったろうか。人々は皆何かを失っていた。ジュリアンの働く学校の盲目者や他の身体障害者だけでなく、ジュリアンの家族もそれぞれに何か決定的なものが欠けてしまっている。それでも彼らの周囲にはうるさいほどの音が満ちていて、自分は目が見えていると信じていた盲目の少女にも彼女なりの世界が見えていたはずだ。人々は生まれ落ちてから何かを失ったのではなく、母親の羊水の中に浮かんでいるまだ未完成な胎児なのだろう。

(三宅晶子)

  

 

1月18日(木)

『バトルロワイヤル』深作欣二@渋谷ジョイシネマ

 上映前の渋谷ジョイシネマは、センター街のゲームセンターにいるかのような錯覚をしてしまうほど、若い顔で埋め尽くされていた。プリクラや、ゲーム機などそれぞれのモニターに向かう顔が、ここでは、ひとつのスクリーンに向かう。
 上映前はあれだけ賑わっていた館内も、始まってまもなく教師役のビートたけしが、「私語はつつしむように」と私語をしていた女生徒にチョークではなくナイフを投げつける(その女生徒は眉間にナイフを喰らい、死亡する)と、よりいっそう静まりかえった。「こっちにもナイフが飛んで来る」とでも思っているのだろうか。
 この映画は、深作欣二が東宝から1000万円の手当てをもらう程ヒットしているらしいのだが、学校という誰しもが知る場所を舞台にし、時事的なネタを扱っているからなのだろうか。もしくは、キャストか?それとも、深作か?そうでは、ない。この映画が、単純におもしろいからである。言い換えるなら、楽しめるからである。たとえ、山本太郎演ずるカワタなる男子生徒が「3年前に神戸」でおこなわれたゲームの生き残りだろうが、ノブという登校拒否の男子生徒が教師であるキタノを「2年前にバタフライナイフ」で刺そうが、その見せ掛けの設定が観客にリアリティを強要しているわけではない。
 この映画を観るとき、スクリーンに映るすべてを「虚偽」として観るか、それとも「真実」として観るかしかない。その中間はない。その残酷な選択をできないのなら、この
『バトルロワイヤル』を見るべきではない。

(酒井航介)
 オフィシャルサイト<http://www.battle-royale.com/>

 

 

1月18日(木)

『A One & A Two』エドワード・ヤン

 「コミュニケーションの不可能性」という響きの良い「現代の病」はもはや馴染み始めた靴のようなものなのかも知れない。今や私たちはそれを履くべき足の動かし方を忘れようとしているのだ。植物状態の祖母は、その「コミュニケーションの不可能性」の可視化された姿だが、彼女にびくつく者などいはしない。母親が取り乱すのは、自分が語るべきことを持っていないことのためだと彼女自身は言う。彼女が祖母に喋るのは「今日の出来事」なのだが、おそらくそれは単に出来事の羅列に過ぎず、通 過していく情報=記号にすぎないのだ。だが、そんな情報=記号でも並べ方次第では「語り」になるのではないか? いやむしろ、私たちが持っているのはそんな情報=記号でしかないのではないか? とすれば、母親が知らないか忘れてしまったのは、語るべきことではなく、その語り方なのではないか? 「語る」ことそのものではないのか?
 ややアナクロニックにも見えてしまわなくもない、終盤の姉と祖母の「奇蹟」の対面 は、しかし、鮮やかな敗北の瞬間でもある。姉は、失われそうな「語り」をなんとか稚拙なやり方であったとしても成そうとするが、結局その発された言葉たちは行方不明になるのだから。祖母の葬式中にヤンヤンが発する言葉たち、それも子供の無垢さによってなんとか成されたものである以上、私たちの目にはその敗色は濃い。なぜなら、彼が大人になっていく時、彼はそんな自分の言葉たちを忘れていってしまうのだろうから。
 もう誰も「語る」ことなどできはしないのだろうか? だが、しかし…。ヤンヤンの言葉たちはその行き先である祖母には向かわないかも知れないが、横道にそれ、そこにいた家族の耳へと、父の耳へと届くだろう。30余年の歳月を隔て、二度、同じ相手に自分の想いを語ることに失敗したばかりの父は、実は自分に向けられたわけではないのであろう「語り」を聞くことになるのだ。しかし、彼は父という特権的な立場に生きているのではない。逆にそれは、その「語り」は彼に向けられたものではないのだから、彼はそれに対して何か返してやることができない、という稀薄な立場である。だが、そのもどかしさの中で、彼が息子に対して何も言えない−−結局それは昔の恋人と彼の関係が何も変わらなかったように、何も変えられないということを意味するのかも知れない−−という残酷さの中で、彼は生きることができる。あるいは、その残酷さだけが彼が生きているということなのではないか…。
 だから、この一本のフィルムが、父と元恋人の風景と、姉とそのボーイフレンドの風景を平行モンタージュで繋げ、「そことそこ」(時間的にも空間的にも)をあっけらかんと併置してしまう時、その「語り方」を云々するよりも、それを目の当たりにした私たちこそが問題なのではないだろうか? それは、ある種超越的な視点から眺められたものだが、それを見る私たちは超越的でもなんでもない。その齟齬こそ重要なのだ。私たちはヤンヤンの語りを聴く父と似ているのではないのか? だとするなら、セルジュ・ダネーが言ったシネ・フィス=映画の息子、であると同時に、私たちは映画の父でもある時がやってきたのかもしれない。

(新垣一平)


 

1月11日(木)

『a one & a two/ヤンヤン 夏の想い出』エドワード・ヤン

 このフィルムには、熱海が映っている。それから、東京。そして、台北。確かにエドワード・ヤンの本作には日本の資本が入り、スタッフも多数関わっているという背景はあるだろう。だが、国境という制度的な距離を超えているとは言え決して遠いとは言い難いそれらの地を、小旅行的に移動するカメラは彼のフィルモグラフィーにおいて、どうも異質である。彼のカメラはいつも、ひとつの地で、さまざまな人々を描いていたはずだ。この、京都でなく、博多でもなく熱海であるというのは、NJのマンションの壁に掛けられたボブ・ディランを見れば、熱海という地の持つ時間がこのフィルムには必要だったことは憶測できる。だが、カメラはこの小旅行を機に、彼がこれまで特権的に映していた台北という地に匿名性を与えることになる。距離を意識することで、逆説的にその距離が無化されてしまったような。それは、NJ自身の時間についても言えるかも知れない。そこが台北である必要など、もうなくなってしまったかのようだ。すると僕には、青年が殺人を犯すシーンに差し挟まれる、まるで格闘ゲームか何かのような人物が凶器を振るい、ごく簡単な記号で現わすことが可能だろう赤い血が吹き出すあの映像が、このフィルムにおいて最も興味深いシーンであると思えて仕方ない。もはや「どこでもない」という匿名性を帯びた台北で起きた殺人は、「どこ」という命題にすら無関心なゲーム映像としてリアルに提示される。匿名は普遍とは絶対的に違うし、まして、ゲーム映像が経験的に僕が知っているさまざまな殺人事件を想起させるわけでもない。それでもリアルだと言うのは、「どこでもない」台北で、紛れもなく起きている殺人として確かに映っているからだ。このカメラの移動を、距離で語るのは不可能だろう。
 
『カリスマ』でハンマーを使って殺させた黒沢清が、「殺しのシーンほど、難しいシーンはない」と言ったが、果 たして彼は、エドワード・ヤンのこのシーンについて何と言うのだろう。殺人などといういかがわしい物語を、この穏やかなフィルムが語らなければならないというヤンのフィルムは、彼のいわゆる映像の倫理ではない「倫理」によって選択された映像を誠実に見せてくれた。
 僕のとても好きなフィルム
『カンフー・マスター』の無垢なゲーム映像がとても懐かしく思えたと同時に、ヤンのあの映像がなんだかとても怖いような気もしてきた。

(酒井航介)

  

  

1月7日(日)

『Kippur』 アモス・ギタイ

 舞台は1973年、エジプト・シリア軍の攻撃から開始される第4次中東戦争であるという。男はいつのまにか軍服に身を包み、いつのまにか空軍に所属し、いつのまにかヘリコプターの隊員として兵士の救出作業に従亊する。彼らは現場に降り立ち、ヘリの爆音が鳴り響くなか負傷兵を探し出し担架で運び込む、そして傷を負って暗闇でうごめく者たちを乗せヘリは飛び立つ。フィルムの大半はこうした一連の救出作業に占められている。その反復のなか、誰もが期待するはずの息を飲むような銃撃戦、あるいは様々な欲望や葛藤がぶつかりあう人間ドラマはほとんど姿を見せない。なぜなら銃を向けるべき相手(エジプト・シリア軍)がカメラにとらえられることはないし、ドラマの生じる出発点ともなる個人個人の内面 も描かれることはないのだし、たとえその内面が噴出するとしても(ドクターが自分の出自と母の記憶を語り、操縦士が行方不明になった友人のことを語る場面 、または救出作業中に一人が発狂しはじめる場面)、それを見つめるカメラは彼らに近付くことなく固定されたまま常に冷静に距離を保ち続ける。戦闘の場面 も、そして戦うべき相手も示されず、救出作業の細かなプロセスをひたすら眼にするしかない僕達にとって、非常な破壊力を備えた戦車もヘリコプターも彼らや負傷兵の姿すらも、徐々にその意味と目的を失い始め、無償性に突き進むように思われてくる。そもそも「エジプト・シリア」、「73年」といった大文字の名詞はここではその意味を為さないのだ。かといって当時のアモス・ギタイ自身である主人公の男のみが持ち得た視点からその出来事が語られるわけでもない。公の記憶に括られ、あるいは内面 に還元されることにより「意味」として凝固させられるのではなく、未だ揺れ動き続けるものとして彼らの身体が、行為の持続する時間が、鳴り響くヘリコプターの爆音が、「クソまみれの」中東のあの大地が示される。絵の具の垂れる時間、赤、青、緑、白、多様な色が重ねられ最後まで純粋な単色(実際そんな「純粋な」色などありえないのだが)におさまりきれない「クソまみれの」パレット、そしてその上で抱き合いうごめく身体、それらは留まることなく何も確定しないまま揺れ動き続けるのだ。そうした時間の揺らぎ、身体の揺らぎ、そして大地の揺らぎは西暦2000年の現在においてもやはりなんら変わらず存在している、このフィルムの映し出す中間地帯としてのプロセスとその無償性は、揺らぎを凝固させてしまう眼に見えないなにかに対して戦いを仕掛けていたのだろうか。

(松井宏) 
<カイエ・デュ・シネマ・ジャポン公式サイトより転載>


 

1月6日(土)

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』ラース・フォン・トリアー

 予告が終わってから黒の画面に白字で「この映画の冒頭は黒い画面 がしばらく続きますが決して映写機の故障ではありません」といった意味の文章が映し出されて、その文字が消えるとすぐに音楽が広がりだした。その音楽に聞き覚えが合ったのは三ヶ月も前からサントラ『セルマズ・ミュージック』を何度も試聴していたからなのだが、試聴機よりもはるかに大きく重厚な音が響いた瞬間訳もわからず涙が流れ出しそうになった。
 
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』はフィルムとデジタルビデオで撮り分けられていてその映像の違いはとても明確にされている。フィルムの部分はこの映画の物語の筋道を構成していてその間にデジタルビデオで撮られた部分がはさまれているのだがその部分には脈絡も物語もなくただ時間と空間が存在しているのみである。吐いうのはもちろん時間は一方向に流れていく(曲の初めから終わりまで)のだが「僕は突然踊り出したりしないよ」という男の人の台詞のようにこのシーンは物語の筋道とは外れたところに位 置しているからで、何に似ているかと考えるとビデオクリップが一番近いように思う。つまり『セルマズ・ミュージック』というサントラ名が指し示しているようにビョーク演じるセルマのビデオクリップ。映画の中ではいつもセルマの妄想として片付けられてしまうこれらのシーンは妄想でありながらやはりフィルムの部分=現実と並列されているし、同じように僕たちはそれを目にしている。思えばもともと現実とはひどく脈絡のないものではないか、僕たちはそれに何らかの因果 関係を付与することで何とか物語としてそれを自分の記憶(これも物語の一種だ)に定着させようとしているだけではないか。セルマのビデオクリップ=妄想はセルマ以外の人間の現実とは抵触しようのないものだけど、そんな彼らも彼女の妄想の中では軽やかに踊ったり、優しく歌ったりしていて、僕たちはそれを見る。工場内に響くノイズが鮮明に聴こえはじめる、いつしか心地よいリズムを刻みだし、音楽を奏ではじめる。音が音楽になる瞬間、リズムと旋律を持って動き出す瞬間、そのとき音楽はほんの一瞬映像の前に飛び出してくる。映像は一瞬遅れてついてくる。明らかに音が鮮明になりはじめた後で映像は鮮明になりはじめる。音が音として飛び出し、それが聞こえる。音があって、緩やかに音楽が始まる。脈絡のないノイズがいつしか規律を持ったリズムを刻みだす。その一瞬間の心地よさ。それは音の重厚さに、音楽の緻密さに、リズムの複雑さに気付くことができたことからくる喜びだ。今までは聞こえなかった、聞こうとしなかった音がはっきりと聞こえてくる、音楽として認識できなかったノイズが心地よい旋律とリズムを持って耳に届く、その喜びが妄想=ビデオクリップの中にゆっくりと飛び込んでいくセルマの喜びとシンクロしていく……………大音量 で流れる『ひょっこりひょうたん島』『ナビイの恋』はおそろしく上機嫌な声で歌われるこの曲に合わせて水面 を跳ねるスピードボートのカットから始まる。「広い地球の水平線に−」と歌う声にあわせて前後左右にゆれながらボートは走る。乗客たちは懸命にバランスを取り、一人の男が体勢を崩して派手によろけている。男にぶつかられた女が前方の階段を駆け上がると操舵席でラジカセから流れる音楽にあわせてマイク片手に男ががなりたてている。オープニングシーンで映画の外から中に入ってきた、つまりBGM(アウト)から画面 中に音源のある音楽(イン)に変わった音楽はここからこの映画の最後までスクリーン内(イン)にとどまりつづけている。『ナビイの恋』では人々は突然歌ったり踊ったり、楽器を弾いたりしはじめるのだがそれらの行為は一度も物語の流れに逆らうことはない。物語の流れの中で「自然に」「日常的に」歌い、踊り、奏でる。例えばサンラ−が帰ってきた直後のバイオリン弾きのように音源となる人物が物語を構成する人物よりも前面 に出てくることがあっても、それはただ映像と音楽が独立しているだけなのだ。突然歌ったり踊ったりするとかラストシーンのようにおそろしいスピードで時間が雪崩れていくといったような「異質な」シーンの集積から成り立っているこの映画はしかし妄想ではなく現実の枠の中にとどまり続ける。 聴こえてくる音楽は全てスクリーンの中から発せられたものである。この映画の中では人は突如歌い、踊り、奏でる。かといってこの映画がミュージカルかといわれればそれは明らかに違うものだといわなければならないだろう。音楽のある「ミュージカルな現実」を撮ったとでもいうべきでは……うーん………僕らの日常にはいつも音楽があって、僕たちの日常はとても重層的なもので、緻密なもので、複雑なもので、その日常の実体のようなものを形にして提示することでそれを見ている僕らが何か気がつく瞬間がある。暗闇の中鳴り響いた音楽に涙したのは音の重厚さに、音楽の緻密さに、リズムの複雑さに気付くことができたから。今のところ僕はそう考えている。

(岡田六平)

 

 

1月6日(土)

『OR』Dumb Type/on TV(シアターテレヴィジョン)

 Dumb Typeの”OR”がテレビでやっていたので見た(シアターテレビジョン。アップリンクでもやっているらしい)。パークタワーホールでの1997年の公演PerformanceORとスパイラルホールでのConcertOR。ORという作品はコンサート、パフォーマンス、インスタレーションという三つの作品からなっているらしいが、そのうちの二つのようだっだ。ちなみにメモランダムは見てない。ORのコンセプトとは、一言でいえば生と死のボーダーについてということだったらしいが、そのタイトルがORである以上二つの概念の二者択一であるはずだ。そのORという単語の両端にくる二つはいったいなんだろうとか考えつつ見た。
PerformanceORの前半、ストロボの閃光により運動が断片化された身体が提示され、舞台が明かりに包まれると、ベッドのうえに横たわる人間を縛り上げたり、のぞき込んだりというパフォーマンスや、人間が人間を犬のように首輪でつないだり、というパフォーマンスがおこなわれる。テクノロジーがどのように生と死をコントロールしたかという意味の英語のクレジットが浮かび上がるので、その閃光なり、ベッドに横たわる人間なり、それらの表すものが生と死に介在するテクノロジーを指し示すものであるのがわかる。しかし、それらのパフォーマンスは故意にコミカルというか不格好なものにされているのだった。役者が歌う歌や叫び声、バックでかかっているバイオリンの曲。オープニングのストロボの閃光の中を舞い踊るダンスとは対称的だ。生と死といういわば根源的な題材を扱うにおいてその楽天的なたいどはいったい何なのか分かりかねた。そして、スクリーンに映し出された ハイウェイを高速で駆け抜ける車の運転席から見た車窓の長い映像が続き、その映像はは途中から加速され、その車がクラッシュしたかのようにとぎれると、そこがビーチであるかのようにいすにもたれ役者たちがくつろぐ。そこがクラッシュの後の死後の世界であることを表しているようなことを、なにかに書いてあったが、舞台は最後に、オープニングのストロボのパフォーマンスに戻ってくるのだった。これを生と死が輪廻するイメージととらえてしまうと読みが浅いんだろうと考えつつ、ConcertORを見てみると、心電図とハイウェイの車の映像に続く後半の映像、それはぼやけたどこかの街の映像だったり様々な国の紙幣のクロースアップ、意味不明の数字の羅列やひとの目の部分だったりするのだがそれらが常に上から下へと走査する光線にさらされている。そしてそこまでくると、一つ一つの映像、音に意味を求めるという行為が不毛なのでないかと感じるのだった。PerformanceORでは生と死のボーダーという明確なコンセプトが与えられ、定期的に英文が浮かび上がり、ひとつひとつ意味を補っていたかのような感じがしたが、ConcertORでは途中からそれが崩壊したような感覚をかんじた。

(志賀正臣)