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~MAY

-『OVALPROCESS マーカス・ポップによるレクチャー』
-『SELF AND OTHERS』佐藤真

-『山椒太夫』溝口健二

-『ザ・メキシカン』ゴア・ヴァービンスキー

-『エスター・カーン(完全版)』アルノー・デプレシャン

-『ツィゴイネルワイゼン』鈴木清順

-『おもちゃ』孫 瑜

-『EUREKA/ユリイカ』青山真治/再考


 

5月30日(水)

『OVALPROCESS マーカス・ポップによるレクチャー5/25@東京ドイツ文化センター

 先日(5/25)、ドイツ文化センターで、「OVALPROCESS マーカス・ポップによるレクチャーとシンポジウム」と題された催しが行なわれた。パネリストは、当人であるOvalことマーカス・ポップ、彼ともコラボレートしているクリストフ・シャルル、自らの評論の中でもOvalについて書いている東浩紀、ICCの畠中実、ゲームソフト「巨人のドシン」の桝山寛、そして今回の企画をしたHEADZの佐々木敦が進行役である。
 まず、マーカス・ポップ本人による
OVALPROCESSについてのレクチャー。
 「だれでもOvalになれる」というフレーズが纏わりついている
オヴァル・プロセスだが、当人の言葉によるコンセプトは非常に明確であり、理路整然としている。特に興味深いのは、まずオヴァル・プロセスが音楽史との決別を前提としているという事である。それはつまり、技術や文明の成果としての音楽や、演奏法などの新しさなどの実験性の末に存在している音楽という一つのフレーミングとは、謀らずも決別してしまったという事であり、初めから単なるエレクトニカの為の便利なツールとして構築されたものではないという事である。ここで彼の理念を詳細に書く事はできないが、そのオヴァル・プロセスなるソフトは単にインタラクティヴ・アートとして、インターフェイスの可能性を拡大しようというものでない。さらに、人間工学的な快適な空間を模索するためにオルタナティヴの可能性を提示しうる一つのモジュールとしての、ひとつのプロトタイプであるというのは、原理として既に音楽が提示しうる空間とは別の空間性を彼が想起していることの表れであるのだろう、「オヴァル・プロセスは、ひとつにはsound architectureである」と彼が口にするのも頷ける。そして、そうした空間を提示しうる為の構築されたメソッドとは、ワークフローを確立しえていて、そこに介入する客観性に対してトリックなしに反応してみせる想像的なインターフェイスのモデル化である、という事なのだ。
 ともあれ、会場は200名の定員をはるかに超える人で埋まっていた。まるで何かの講義のような、まさに質実剛健で生真面目なマーカス・ポップの語りっぷりを予想していた人はどれだけいたのだろうか。おそらく大半は、音楽製作者としてのOvalを予想していたはずである。しかし、パネリストの面々を考えればそれが決してトークショーではないということは当然の帰結であったのだ。

 その後、パネリストが壇上にあがる。議論の経過についてここでは書かないが、マーカス・ポップがたびたび口にする「ゲーム」というタームについて東浩紀が「ゲームといっても様々なカテゴリーがあって、アクションであったりRPGであったりするが、マーカスの言うゲームとはどういったゲームの事を言っているのか。実際、よくプレイするのはどういうゲームか。」と訊ねると議論は途端に本質的な部分に触れ始めた。というのも、この質問がそもそもオヴァル・プロセスを「ワークフローを明確に提示し、介入すること、または、その観察」と語るマーカス・ポップにとって、そうしたまさにプロセスから生み出される音楽(結果)とは果たしてどう位置付けられるのかという本質的な命題に触れるからである。つまり、東浩紀が「ゲーム」というタームの厳密な定義をマーカス・ポップに求めたのは、オヴァル・プロセスはRPG的な「物語」を生産するのか、アクション的な「状況」を生産するのかを知ることは、彼の総体的な世界観を知ることでもあるからに他ならない。しかし、彼の返答は意外にも、「失礼な質問だ。ゲームという抽象的な概念を用いて議論をしているのに、日本では、美学的な価値を持っているゲームについてジャンルで分類するエンターテイメントとしてのゲームとしか考えていないのか。それに、僕の好きなゲームを言ったところで議論には何の意味もないだろう。」というものであった。実際、彼は好きな音楽についても頑に語ろうとしない、と佐々木敦は言っていたが、さらに、そう返答されたことに対して東浩紀がさらに具体的な質問を投げかけると、マーカス・ポップは同時通訳がついていけない程の早いドイツ語で言葉を返した。見るからに不愉快そうであり、ポップという形容とは程遠い表情を浮かべていたのが印象的である。しかし、それは東氏の質問が失礼なわけでもなければ、マーカス・ポップの態度が横柄なわけでもなく、単に同時通訳という制限された環境で、両氏の言葉が少しばかりズレてしまった結果に過ぎないだろう。
 と、なにやら横に座る佐々木敦が彼に話しかけ、ふいに「マーカスが先ほどからお手洗いに行きたいと言っているので、ひとまず休憩とします。」と言う。もちろん「朝まで生テレビ」ではないのだから時間の関係や諸々の事を考慮した上での正しい配慮であったのであろうが、せっかく議論がコアの部分に向かったのに残念であった。いずれこの2者の対談を、厳密な通訳のもとで実現させてくれると期待するしかない。そして、この3時間のレクチャーがとても興味深いものであったということは書いておきたい。

 このレクチャーについての報告的な事はこれ以上書かないが、Ovalという固有名を映画に関して想起すると、ハーモニー・コリンの『ジュリアン』を思い出す。このレクチャーでマーカス・ポップは、オヴァル・プロセスから生み出される音楽それ自体はどうでもよくて、それとは関係のない価値があるのだ、というような事を言っていた。つまり、一般 的に「道具」だとか「技術」だとかが希求するはずの結果もしくは目的が初めから排除されているということである。実際オヴァル・プロセスを触れたことがあれば分かると思うのだが、そのインターフェイスにある、音をエディットするメインのパレットには、大抵のDTMソフトにあるような時間軸が無く(厳密にはあるのだが)、音楽というひとつのオブジェクトの重要な生成要素である時間がフォーマットとして想定されていない。それはまさに彼が言うように「ワークフロー」のモデルのみが屹立していて、終始それに対するアクションがそれ以上微分されることなく知覚できる事のみを確認しているような状況である。
 
『ジュリアン』が仮にも映画というメディアであるにも関わらず、果たしてオヴァル・プロセスのように時間軸を保持していないか否かは、ひとまず棚に上げるとしても、『ジュリアン』にOvalの音楽が使われているという事実は、この映画が執拗にみせる明らかに異なる「映画的」生成プロセスについての、ハーモニー・コリンの批評的視点の有無や、スクリーンに投影された像に対する新しい判断基準の導入について考えなければならないと強く思わせるばかりである。もしかしたら「コリンプロセス」なるものがあるかも知れない。冗談ではなく、そう考える事が、決して突飛な思考ではないのではないだろうか。『ジュリアン』をどう据えるかという事を考える時、精神分析的な計量 不可能なレヴェルに持ち出す時、もはや『ガンモ』やドグマを含めた総体としての『ジュリアン』について語るか、パラノイアックな集合としての『ジュリアン』として語るかしか残されていないように思う。そうではなく、映画というフォーマットを用いて、まさに分節可能であり、かつ把握可能なディジタル・プロセスが、スクリーンというひとつのインターフェイス上で見せている「状況」としての『ジュリアン』として考える所から始めなければならないのではないだろうか。

(酒井航介)

実際にOVALPROCESSを組み込んだ「 Skotodesk 」は現在、下記にて触れられるみたいです。 

■5月29日(火)〜6月8日(金)(*日休) @東京ドイツ文化センター ホワイエ
OVALPROCESSについて → http://www.sirius.com/~far/opdemo/ovalprocess/

 


 

5月20日(日)

『SELF AND OTHERS』佐藤真

 幼少のころ姉たちとカセットレコーダーで遊ぶのが好きだった。単に祖母に教わった日露戦争の数え歌を歌詞の意味もわからぬ まま歌ったり、子供特有の不潔な単語を連発したのを録音して聞くだけなのだけれど、その遊びが私を魅了したのは、自分の録音された声を自分のものとして認識できなかったからだ。そして未だに外部から響く自分の声には慣れないないでいるのだが、それは録音された自分の声を聞く機会が少ないという理由だけによるものではなく、恐らく他者として現前した自己を自己として認識しようとする試みが違和を生じさせるのではないだろうか。
 写真集
『SELF AND OTHERS』の中に収められた双子の少女が手を繋いでいる写真。この映画に現在の彼女たちの姿は現れず、「この写 真は長い間好きになれなった」という声のみが写真に重なる。だから我々はその声を「彼女たちの声」として認識するのだが、その声を彼女たちの存在に集約させることは出来ない。つまりその声に彼女たちの固有名をあてはめることは出来るが、その声と彼女たちの存在は完全に分離してあるのだ。
 それに対して圧倒的に違和を感じさせる声がこの映画には存在する。それは「この声はどのように聞こえるのでしょうか」という牛腸茂雄が自身で録音した声である。もちろんそこに牛腸の姿は無い。その点では前述の双子と同様である。だが私は外部から自分の声を聞く場合と同様の感覚に襲われた。「牛腸茂雄」という写 真家の作品が執拗なまでに映し出され、西島秀俊の声で牛腸の手紙が読みつづけられるこの映画の中で、この声だけは「牛腸茂雄」ではなく、牛腸茂雄という存在としてある。つまり括弧 つきの他者だったものが、さらには彼はもう現前していない(不在である)という認識していたものが、いきなり他者として現前したことで、私の認識作用は覆された或いは停止させられたのだ。
 写真は「不定過去」のものである。それを映画=時間の中に置く時、ただそれを「過去」に存在した「牛腸茂雄」のものとして示すだけでは、この映画の時間は放映時間としてしか作用しないし、逆に写 真の「不定過去」そのものさえも隠されてしまう。だからこの映画が〈「牛腸茂雄」という写 真家についての映画〉であることを免れているのは、(そこに流れている)時間そのものが映っている僅かな映像、そしてこの声の存在によってではないだろうか。 

(黒岩幹子)


 

5月18日(金)

『山椒太夫』溝口健二

 私が上京した年に「並木座」がなくなってしまった。だからというわけではないが、私は溝口の作品をまとめて見てはいない。しかし、一本一本見ていくうちに、この映画作家の重要性が身に染みてくる。まだ『瀧の白糸』『祇園の姉妹』も見ていない。だが『山椒太夫』が途方もなく「正しい」ということはただただ実感するのである。そう、溝口健二は圧倒的に「正しい」。「かっこいい」でも「美しい」でも「おもしろい」でもなく「正しい」のである。

 『山椒太夫』においては、世界は何も隠そうとしない。世界は全てを曝け出している。カメラはその世界の前に置かれる。「この赤裸々な私の姿を見よ!」と世界はカメラに向かって挑発してくる。溝口健二は、恐ろしいことにその挑戦を果 敢にも真っ向から受けて立つ。カメラは置かれる。世界は間断なく動く。だから彼の長回しはスタイルではなく、一つの選択、一つの決意、世界の挑発に対する無鉄砲なまでの回答である。眼を閉じるのは、敗北である。
 しかし、そもそもカメラにとっては眼を閉じずにいることなど、たやすいことかもしれない。カメラはただ単に目の前にある現実をそのまま写 し取るだけであり、そこには何の感情も入り込む余地などない。つまり、我々はカメラをそこに置き、ただそれを放っておけば良いというのか?
 違う。少なくとも溝口にとっては違う。彼はカメラの前に無防備に存在する対象が、好奇の瞳に晒されることを嫌うのである。好奇の瞳とは何よりも、第三者の瞳である。その瞳に写 る対象が生きる世界の外側にいて、胡座をかいて鼻糞をほじっている者の瞳である。こうしてジレンマが生じる。一つの決意において、カメラをそこに置かねばならない。しかし、そこに写 し出されたものが、痛みを感じないあれらの瞳によって、コケにされることだけは許されない…。
 
『山椒太夫』においては、全ての出来事が、ただ通 り過ぎ行く様に我々の目の前を通り過ぎていく。それは、あるものを他のものと比較したり、価値付けたりはしない。何故このフィルムが『山椒太夫』と呼ばれるのか? 確かに山椒太夫は悪の権化だ。間違いない。しかし我々はこのフィルムを見終わって、山椒太夫を憎むだろうか? というか、彼を憎むことで、何かを「すましてしまおう」と思うだろうか? 山椒太夫は物語の中心を成すモーターでも、憎悪を向けることによって何かを告発した気に
させる仮想敵でもない。山椒太夫は偶然にも山椒太夫であったに過ぎない。その点では、厨子王も安寿も山椒太夫と同様であるとは言えまいか。溝口は全てを、同じ強さの光にしか晒さない。
 ジレンマに対する、これは最も繊細な選択である。あまりにも有名な
『山椒太夫』のラストのパン。それは溝口健二という一人の映画作家のジレンマ ----そしてそれはいつしか我々のジレンマともなった、と言えはしまいか---- が呼び起こした繊細さのために、彼が、もうこれ以上は見つめることはできない対象を、見ることを静かにやめる瞬間である。…しかし彼は、依然として、海と浜辺と一人の漁師とを見つめていたのだった。

(新垣一平)

 


 

5月16日(水)
『ザ・メキシカン』ゴア・ヴァービンスキー

 ブラッド・ピッドとジュリア・ロバーツを見に行ったのである。申し訳ないのだが、面白い映画を見せていただこうなどという気は、ビタイチなかった。飽くことなく、ちょっと頭のおかしい男を嬉々として演じるブラッド・ピッドと大口開けて笑うは泣くは大騒ぎのジュリア・ロバーツでも眺めて、待ち合わせまでの時間をつぶそうと、そういう算段だったのだ。だから、そういうことをまったく期待していなかっただけに、ベットの脇のカーテンがちゃんと風に吹かれていて、ブラッド・ピッドの顔の陰影が微妙に変化する冒頭のショットを見て、「おお!」と仰け反ってしまった。はい、うそです。映画館で仰け反ったりしたら後ろの席の人に迷惑です。やめましょう。

 お話は「メキシカン」と呼ばれる伝説の銃をめぐった、いわゆる聖杯探求ものである。それがメキシコの小さな村でジェリー(ブラッド・ピッド)を軸に描かれる。他方、アメリカのラスベガスではジェリーの恋人のサマンサ(ジュリア・ロバーツ)をめぐった同じ構造の話が反復される。映画はこの2つのパートが交互に組み合わされて構成される。
制作が
『パルプ・フィクション』と同じ人ということで、「いかにも」という感じの話である。樋口泰人が昔どこかに書いていた「情報の映画」というやつ。物語の様々の要素が、ピンボールマシンの玉に反応するように、次々と連鎖していって、そこに交換不可能な要素はなにもない。ラスベガスはメキシコではないという点のみでラスベガスでありえ、殺し屋もビンスだかリンス(ってこともないか…)という名を名乗ることで殺し屋でありえる。  
だから、物語の終盤ちかく、色が白いか黒いかというただの一点の差異によって、「殺し屋」という称号は反転し、反転したときには白人も黒人も死んでいる。「そこには中心はない。連鎖する差異だけがある。だからもはや、そこに境界線が引かれることはないだろう」(樋口「終わらない終りの終り」)。中心であるはずのアンティーク・ピストルはあからさまに作り物めいていて、銃にまつわる伝説も一転、二転、細部が変化していく。

 だから『ザ・メキシカン』は、『パルプ・フィクション』『セブン』、或いは『ロック・ストック・スモーキング・アベニュー』といった、「空白の中心」をめぐる連鎖する差異の映画の延長線上にあるのは間違いないし、おそらく脚本はそういった情報処理をかなり的確にこなした上で構築されたものであることが想像できるのだが、映画を見ると「差異」やら「中心」やらそっちのけで堂々と画面に映り込む事物があって、それがカーテンを揺らす風であったり、喫茶店の窓の外を走る車であったり、遊んでいる子供であったりする。監督のゴア・ヴァービンスキーという人は(不勉強なものではじめて名前を知りましたが・・・)、連鎖には加わらない、「情報の映画」にとって不必要と思われる事物を画面に積極的に召喚し、そのことで『ザ・メキシカン』は、細部の要素が軋みを起こして上手く連鎖しない映画になっているように見える。
一例をあげると、メキシコの空港の前でサマンサと殺し屋が「永遠の愛」について話し合う場面があって、そこで発せられる殺し屋の「終わらない」というセリフが次の連鎖を生み出す要素になるのだが、そのときシネスコの横長画面の右半分ではひっきりなしに空港へ出入りする人々の姿が映し出されているのだ。その人々は連鎖にははっきりと関係しない。脚本の見地に立てば、その人々は邪魔なノイズでしかないのだし、演出という点から見ても、あからさま過ぎてなんだかかっこ悪い。「ここ見て!」と言わんばかりに、ジュリア・ロバーツの背後を歩く人々がカメラに捉えられている。

 しかしたとえ不細工でも、『ザ・メキシカン』がこうした場面を必要としたのは、この映画は「情報の映画」の規則に則りながら、ある境界線を浮上させようとしているからだ。その境界線とは異言語の間に引かれる線だ。英語とスペイン語を隔てる線である。樋口は『パルプ・フィクション』のラストで4人がそれぞれに銃口を向け合うシーンを指摘して次のように述べる。

 「…(銃口を向け合う4人が形作る)「Z」(の文字)の突端が、
  世界の向こう側に飛び出すことはないだろう。なぜなら情報が
  情報であるためには、閉じられた世界=体系が必要になるからだ。
  その世界=体系の外に出たとき、情報は意味をなさない。
  だからタランティーノの映画の中で連鎖し続ける情報の網の目は、
  永遠にその空間を微分し続けていき、空間のすき間へとなだれ込
  むスピードだけが差異として認識されることになるだろう」
                (樋口「終わらない終りの終り」)

 私は90年代の中盤を中高生として育ってしまったものとして、抜き差し難く「情報の映画」というやつが好きであり、『パルプ・フィクション』『ショート・カッツ』などは、まさに「肌に合う」という感じなのだが、そうした個人的なことはともかくとして、「情報の映画」がある閉塞状況に陥らざるを得ない、という樋口の指摘は理解するし、タランティーノやアルトマンのその後を追っても、その指摘は正しいと思う。
『ザ・メキシカン』ではサマンサとジェリー、そしてマルゴリーズを裏切った部下の3人で「V」を形作るのだが、そのVの突端は二手に分岐し、一方の銃口は指輪として閉じられた世界=体系に、他方の銃本体はある音になって閉じられた世界=体系の「向こう」に飛び出す。その音がスペイン語なのだ。

アメリカ映画の常として、英語を喋る人以外は理性をもった人間として扱われないというのがあるのだが、この映画も最初はその規則を踏襲しながら、徐々にスペイン語がただのノイズではなく、音であると同時に言葉として響くようになる。「メキシカン」という銃が、同時に「メキシカン」という名が英語の体系の突端を飛び出して、スペイン語の体系に入り込むのだ。おそらくそれが、『ザ・メキシカン』において、監督のゴア・ヴァービンスキー及び制作のローベンス・ベンダーが試みたことだろう。
(脚本上では)不必要な事物や音を捉え、「情報の映画」としてのフォルムを崩してまでそれらを画面 に呼び込んだのは、サマンサとジェリーの永遠の愛のためでも、はりぼて地味たアンティーク・ピストルをめぐる伝説のためでもない。ジェリーが「ザ・メキシカン」をメキシコ人の青年に手渡したときに発せられた言葉、「ダ・メギジガン」を音として、言葉として、響かせるためだったのだ。…オーゲー?

(志賀謙太)
 


 

5月14日(月)

『エスター・カーン(完全版)』アルノー・デプレシャン

 3月28日、パリ5区にある映画館DIAGONAL EUROPAで『エスター・カーン(完全版)』を見た。(「パリ*日記」を参照)
 映画が始まる前に、パリスコープに掲載されている簡単なあらすじを辞書を片手に読んでおいた。「内気な少女がある日見た芝居に感銘を受け、女優を目指す物語」らしいぞこの映画は、という心構えで私は映画館の客席に着いていた。が、
『エスター・カーン』は、少女エスターが女優になるための修行物語ではなかった。エスターが優れた役者になれるか、素晴らしい演技ができるかどうかは、大した問題ではなかったのだ。実際映画の中で上演が始まりエスターが舞台に立てばハワード・ショアの音楽(アウトの音)が流れ、本番の舞台での彼女のセリフを我々が聞くことは無いし、彼女が演じているところを見ることもほとんど皆無なのである。我々が見るのはエスターが稽古している姿や、彼女の本番の舞台以外の日々の生活である。
 
『エスター・カーン』は、何者でもない少女が“エスター・カーン”という固有名詞を持ったひとりの人間に形成されていくフィルムである。映画館の客席で私が3時間近く向かい合ったのはその過程である。日々同じように話し、笑い、労働し、次の日も同じ程度に話し、笑い、働く集団の中で、彼らがすることをただ真似していた少女は、ある芝居を見て、そこで初めて何かある対象に言葉を投げかけるという身振りを始めたのである。その瞬間、彼女は世界に身を晒したと言えるだろう。人気の無い、日のあたらない場所で育ってきた彼女は、その時陽の光の下に歩みはじめる。そしてつまりは、彼女が役者として舞台に立つのも、結局はそういうことなのだ。何かを演じるということは、その役に為りきることでもなければ、そう観客に思い込ませることでもない。与えられた“役”“テクスト”を“私はこのように読解する”ということを、演じる身振りによって世界に身を晒すことに他ならない。そうした行為を繰り返すことによって、エスター・カーンは他の何者でもない、エスター・カーンでしかなくなるのである。
 だから彼女にとって最も過酷であったのは、彼女が生まれて初めて愛した男性フィリップがイタリア人の女優シルヴィア(エマニュエル・デゥヴォア演じる)と関係を持ったという事実よりも、そこで彼が発した言葉なのである。
“she is like you,she is rootless and ignorant like you,she can barely read like you.....”
何かの呪文のように繰り返される“like you”は、“エスター・カーン”が世界に存在していることを否定する一言であり、彼女にとって何よりも一番過酷な宣告なのである。
 エスターが、芝居を見て兄弟と議論するのも、劇団の面接を受けるのも、役者として舞台に立つのも、ある方法に過ぎない。“世界に身を晒す”ための方法である。そして正にそれこそが“政治的な行為”なのではないだろうか。1本のフィルムはそれが生まれた瞬間に批評に晒され、批評を書くことによって思考は世界に晒される。演じることもまた、自らの声、身体を世界に晒す、政治的な行為なのだ。もっともっと小さな行為だってそうに違いない。私達は皆平等に一日24時間という時間を与えられており、その与えられた時間をどのようにして過ごすか、自らが選択しながら、無限に挙げられる選択肢の中から随時ひとつを決定しながら生きているのである。私が選択した何かの背後には私の思考、バックグラウンドがあるわけで、私のアクションにはそれらが反映しているのだ。私達が日々何を選択して生きているかを晒すこのサイトの日記も政治的な行為であるし、やらねば、と思いつつも外国語だったから正しく(!)解釈できているか不安という理由でしばらく手付かずだった
『エスター・カーン』に対するジャーナルを、パリへ行って来た成果 として書くことを決意し、1ヶ月も経ってしまったが今こうして私が書いているのも私の政治的な行ないなのだ。そして“世界に身を晒す”とは、エスターが自らの顔をアザができるまで殴り、ガラスの破片を食べて口から血を流したのと同じくらい、痛く、つらい行為なのだろう。というか、そうあるべきなのだろう。要はそれを引き受けるだけの覚悟があるかどうかだ。

(澤田陽子)


 

5月12日(土)

『ツィゴイネルワイゼン』鈴木清順

 全てのことが一瞬に起こったようだ。
 
柱時計はなぜか何回も「異なる五時」を知らせ、藤田敏八も「一年経った」とか「それから五年過ぎた」とか言うのだが、たぶんそれが『ツィゴイネルワイゼン』が全身で仕掛ける化かしである。時計の音がまた五回鳴ったから、藤田敏八が年月を告げたからと、その時間軸に当てはめてこれらの出来事を見たら完全に化かされてしまう。「もう、後戻りはできませんわねぇ。」とはまさに映画に化かされつつある観客に向けられた言葉だ。
 それにしても144分の映画とは、一瞬のためには不相応な長さである。おかしな言い方だが放っておいたら危うく時間は進んで行ってしまうだろう。だって我々の実時間とでも呼ぶべきものは確実に進んでいるのだから。だからそれに気付かれるのを周到に避けるためには、何でもかんでも寸での所でパッと切ってどんどん繋げよう。もしくはレコード盤のように、ぐるぐると廻りながら少しずつ螺旋を描いていくのだ。時計がボーンボーンと鳴る音もこんにゃくの千切れるぐちゃっぐちゃっという音も、切り通 しに刻まれた模様も、何度もそこを通り折り重ねられるうちにエリック・サティの「ピアノ・フェイズ」さながらに別 のメロディをふと届け始めるだろう。そして、「ツィゴイネルワイゼン」のレコードに聞こえる聞き取れない言葉とはまさにそれのことである。
 「サラサーテが演奏中喋ってしまった」声が入ったレコードは、レコード作品としては欠陥品ではあるのだが珍品・奇品の類として珍重される。その意味する言葉が聞き取れないことが逆に興味を駆り立てるのは無理もない。<
『ツィゴイネルワイゼン』という一瞬>の不可解さもそうした次第で重宝されるのだろうか。作家性とはそういうもの、ということか?…だとしてもまず我々が驚きを隠せないのは不可解な映画が一本あることではなく、こんなに長い一瞬を味わってしまった、という恐るべき体験のほうだ、取り敢えずそれだけは言っておこう。

(加藤千晶)
 


 

5月4日(金)

『おもちゃ』孫 瑜

 「葉姐さん、葉姐さん」、近所の人が家の中に居るだろう葉姐さんを呼ぶ。
家の中からのっそりと現われるは、ずんぐりむっくりの男。葉姐さんがまだ寝ていることを伝える。家の中から子供が呼ぶ。男は子供に向かっても、静かにするようにと言う。男と子供は眠る葉姐さんの横を、抜き足差し足、慎重に通 ろうとする。あまりに美しい葉姐さん(阮玲玉)の寝顔!
 そしてその美しさはあまりに儚そう、すぐに壊れてしまいそう。男はそのことを恐れているのか。だが、おっちょこちょいな男は大きな物音をたててしまい、葉姐さんは結局目を覚ましてしまう。葉姐さんは夫であるその男に優しく声をかける。あなた、何をそんなに怯えているの?
 男は不安を不器用に隠しながら微笑を返すのみ。その夫の表情を見つめる葉姐さんの瞳もまた、言いしれぬ 不安を、これから彼女に降りかかるであろう不幸の連続を全て予期し、それを受け入れているような気丈さを、にもかかわらず夫に向かって何も心配はいらないのだと諭すかのごとき包容力を、その裏に秘めている。
 この冒頭のシークエンスの緊張感は尋常ではない。ここには、呑気さ溢れる平穏な世界と、その世界の泡沫ぶりを憂れうことなく守護せんとする力強さと、しかしそれがいずれは蹂躙されてしまうことを知っているかなしさとが、ある。葉姐さんはその後、不倫相手と離別 し、夫を亡くし、息子を誘拐され、さらに娘を戦火の中失うことになるだろう。そしてついに彼女が発狂するこのフィルムのラストまでを見てしまった者は、彼女の寝顔を思い出し、残酷なまで破壊された桃源郷の存在を反芻するかもしれない。しかしそれは事後的な解釈である。私が記述した?しき寝顔」もフィルムを見通 した後から、逆算したものだ。とりあえず、とりあえずそのように言い表わさなくてはどうしようもない気がするのだ。葉姐さんの寝顔はロラン・バルトが言うような「鈍い意味」を内包していたのだろうか。少し違うような気もする。「鈍い意味」は物語からはみ出た部分の意味だが、葉姐さんの寝顔はこれから始まる物語を知り尽くした、あるいは先回りしてしまうような表情だった。物語がある表情を統御するのではなく、表情が物語を統御してしまうような…。そんな物言いは同じことを逆に言ってみただけの詭弁だろうか?
 初めて葉姐さんの寝顔を見てしまった時の感覚は、甘美であった。そのように記憶しているはずだ。しかし、その記憶はひょっとして、ラストで彼女が発狂した際、彼女の顔が極限まで歪められてしまったのを見てしまったからだろうか? 発狂した彼女の顔が穏やかだった彼女の寝顔をより弱々しく、美しく、哀しくしているのだろうか? もはや私は答えることができない。ただ、孫瑜がユートピアを描くことに最も長けた監督だとするなら、そのような意味によってであろう。その想い出の美しさが
その想い出そのものがもつ美しさなのかどうなのかわからないような、曖昧な悦楽。それは「失われた」ユートピアとも違う。「記憶のなかだけに存在する」ユートピアともまた違う。そのような断定そのものをぼやけさせる淡い光のなか、無為に襲いかかる残酷な夢。

(新垣一平)

 

 

5月2日(水)

『EUREKA/ユリイカ』青山真治/再考

 カメラは何がしかを映し出す。しかし、音は何も鳴ってはいない。そんな状態をつくりだすことは映画においてはよくある瞬間なのかもしれない。映像が途切れることはなくても、音は必ずしも鳴っていなくてもよいということである。「なくてもよい」というばかりか、時にそのような時間は、何かことが起こる前の「静けさ」だったり、事件の「緊張感」だったり、あるいは事後の「静寂」なりを示す立派な効果 音なのだ。
 
『ユリイカ』においてもホテルのカフェで別れ際に弓子(国生さゆり)が沢井(役所広司)に「バイバイ。」という瞬間がある。はじめてみたとき、私はその声が入っていないと思ったのだ。そして、ゴダールの『はなればなれに』にでてくる沈黙に似たものを(あれは沈黙といってもカフェの喧騒ははいっていたけれども)、永遠のような長さを感じながら、崩れていく弓子の顔を見ていた。
 しかし
『はなればなれに』の沈黙というのは、先に上げたような事件性が伴っていたわけではない。カフェでの談笑のひととき、彼らは単に3分間の沈黙の長さについて遊び心から、あるいはくだらない意地からそれを試そうということになったまでである。そして私たちは、その後に沈黙がくることも、おそらくそれが3分程続くであろうということも知っていた。映画内においても、私たちにとっても事件性とは無縁のその沈黙は、本当に長く、引き伸ばされていく時間そのものだった。
 二度、あるいは複数回同じ映画を見るときには、そのような事件性は同じように予め除去されている。いや、驚くものは何度見ても驚くのだが、その先にあるものへの不安感はない。しかし、今回もう一度
『ユリイカ』のそのシーンに立ち戻ってみると、今度はその「バイバイ。」という呟きが聞こえたのである。前回それがよく聞こえなかったのは、様々な場所で指摘されていたようにテアトル新宿の設備の問題であったのかもしれないが、原因はともかく、私の中で時間が止まったようになんだか引っかかっていたあのワン・シーンが、映画のなかのあるひとつのシーンとして組み込まれていったのである。
 今思えば、
『ユリイカ』の中に特権化されたシーンなんて、どこにもなかったような気さえする。映像と音の関係性から、物語が紡ぎ出されていく。それだけの事実の積み重ねである。そして聞こえるか、聞こえないかぎりぎりの呟きは、その前後にある時間をふっと浮かび上がらせ、一時停止ではない、けれども気の遠くなるような長さをさらけ出す。

(中根理英)