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~NOVEMBER  11/30__up dated

-『黒い森のケーキとジャンヌ・バリバール』11月27日午後、日比谷公園
-『ミレニアム・マンボ』ホウ・シャオシェン
-『オレンジ』アモス・ギタイ
-『魚影の群れ』相米慎二
-『ヴァンダの部屋』ペドロ・コスタ
-『赤い橋の下のぬるい水』今村昌平
-『素晴らしき放浪者』ジャン・ルノワール
-『ニッポニアニッポン』阿部和重
-『マルホランド・ドライブ』デヴィッド・リンチ
-『リリィ・シュシュのすべて』岩井俊二
-『ピストルオペラ』鈴木清順


11月30日(金)

『黒い森のケーキとジャンヌ・バリバール』11月27日午後、日比谷公園

 『Va savoir(恋ごころ)』でカミ―ユが昔の恋人と再会する場の如くあしらわれたベンチ(記者会見のステージ)にジャンヌ・バリバールは、黒い森のケーキを食べていて約束の時間よりも少しだけ遅れて、颯爽と登場、と言うよりもはむしろ偶然ここに辿り着いてしまったひとりの探検家のように、「ここで良かったかしら?」といった具合に少しはにかみながらやって来た。
 ジャック・リヴェットの最新作に主演した彼女は、その『恋ごころ』の冒頭で真っ暗な舞台上で孤独に演戯に言葉を重ねるひとりの主人公(カミ―ユ)のように、けれどまだ発語のリズムに身振りは付加せず、言葉を充填するかのように虚ろに床のある一点を見つめながらまずは来日に際しての所見をゆっくりと述べはじめる。それは何の着想も与えられていないひとつの抽象的な存在が「この場所」における言葉を模索しているようでもあり、不思議で、非現実的であるように私には思われた。

≪日本文化を愛好していた私の祖母は、溝口健二の映画などによく私を連れていきました。小津安二郎の映画なんかも私は大好きで、長い間ずっと日本に来てみたいと思っていました。しかし成瀬巳喜男の作品はいまでもシネマテークなどで上映されていますが、彼の作品を私はまだ1本も見ていません。それは非常に残念なことですよね。≫

 『彼女達の舞台』(87)以来演劇を映画の主題にすることを中断してきたリヴェットであったが、『恋ごころ』には出発点としてまずルノワールの『黄金の馬車』があり、そしてこれまでリヴェットの映画が見ることのなかった“演劇の上演”が、ピアンデルロの戯曲"Comme tu me veux(未知の女)"の上演が映される。

≪たとえ演劇のシーンであっても、それ以外のシーンであっても、私の演技に根本的には違いはなかったと思います。ピアンデルロの戯曲=“未知の女”を私は演じていたのではなくて、“未知の女”を演じているカミーユを、ピエールが見ていると分って演じているカミーユを、私は演じていたのであって、それは非常に気持ちのいいものでした。≫

 『恋ごころ』中の劇場とは、登場人物たちが、彼らにとって何か重要なものを探すために、また再び戻ってくるためにあるのであり、何処か別 の場所、別の位相に行くために用意される枠なのではない。登場人物たちは舞台の上で台詞を忘れ、それを探すために劇場の外へ出るのだが、代償からなのだろうか、それが見つかる瞬間に登場人物たちは彼ら自身の言葉を失っているのである。それを再び見つけるために外国語、テクスト、他者の言葉を読む、つまり“稽古”がまた始まるのであり、それはほとんど強迫的と言ってよい、巨大な螺旋なのである。
 通訳の間少しばかり退屈そうな彼女は床に撒かれた銀杏の葉を一枚だけ拾い、指先でくるくる回している。心地よい韻律に次第に身振りを共振させながら一定のリズムで言葉を選び、彼女は話を続ける。

≪イタリア語で演技をすることに確かに苦労はしましたが、フランス語で演技をすることも外国語で演技をすることもある意味では同じだと言う事を私は言いたいのです。何故なら彼女(カミ―ユ)が求めているのは自分が一体誰なのか、自分が何なのかを知ること、そして自分の言葉が話せるようになることなのですが、それはつまり自分以外の、外部の言葉を通 じて自分の言葉が話せるようになるということで、外部の言葉というのはイタリア語であり、劇作家の言葉であり、あるいは好きな男性の言葉でもあるからです。これは私自身についても同じ事が言えて、例え私がフランス語の台詞を話しているとしてもそれはジャック・リヴェットの言葉であって私の言葉ではない。それは私が女優としていつも抱えている問題です。≫

 少なくともこの映画においては母国語と外国語にも、演劇と映画の演技においても差異は無かったと彼女は言う。そうした時、あの余りにも瞬間的で演劇的なモノローグで始まる『恋ごころ』が、それでも“映画”以外の何ものでもないと、有無を言わせぬ 磁場は一体何なのか。

≪この映画で最も難しかったのはモノローグのシーンです。純粋に演劇的な部分から純粋にシネマトグラフィックな部分へと移行していかなくてはいけない。モノローグのシーンは正にこの中間にあったからです。≫

  『恋ごころ』、そして恐らくリヴェットの映画で最も美しいのはこの移行する瞬間である。それは劇場の階段を登り、パリを見下ろす屋根の上に登り、人間関係の円環からほつれた糸の結び目、つまり真実に最も近づく瞬間である。逆説的であるが真実を見抜くことは出来ない。というのも何かを見つけた時には既に他の何かを忘れているのであり、収斂 することのない螺旋形のリヴェットのフィルムにおいて真実は中心にあるのではなく、どこか別 の場所、つまり瞬間の美しさという現在時制の中にしか存在しないからだ。後で確かになるという頑なな直感とリヴェットによる巧妙な曖昧性の対立が平衡であることを止めた時、登場人物たちは以前よりも良いわけでも悪いわけでもない。彼らの探求の美しさとは、“知らない”ということを“知る”ための行程の美しさである。

≪映画の終わりがペギー・リーの“SENZA FINE”つまり“終りなし”なのは何かとても美しいことのように私には思えました。≫

(澤田陽子)


11月30日(金)

『ミレニアム・マンボ』ホウ・シャオシェン

「2001年の10年後」から自身の物語を語る主人公ヴィッキーにとって、ひとつだけ逃げ場がある。それは過去の自分を「彼女」と呼んで回想するヴィッキー自身のいる「2001年の10年後」だ。 2001年のヴェッキーを見つめる『ミレニアム・マンボ』の映像と音には逃げ場も楽屋裏もない。
 「2001年の10年後」のヴィッキーと、2001年のホウ・シャオシェン。2001年の「現在」を見つめる両者。
 ホウ・シャオシェンはワンシーン・ワンショットでひたすらヴェッキーだけを見つめ続ける。ヴェッキーだけ、あるいは彼女との関係に入る人間とものたちだけ。時間も空間も指標を失っているような現在において、彼女だけが指標であると同時に「現在」であり、そんな彼女を徹底的に見つめることだけが「現在」を探究することでもある。彼女との関係に入るものにだけピントが合わさる。過去と未来としてのピンぼけが常に「現在」と接しながら混じりあう。けれども彼女は決してピンぼけ部分には逃げられず、ただひたすら「現在」であり、同時に「謎」で「奇怪なもの」であり続ける。そして、「孤独」でもある。
  クラブで知り合った男達と訪れる、雪に覆われた北海道は逃げ場か?新しく乗り換えた中年男を追って訪れる東京は逃げ場か?そのほとんどが暗がりのなかで展開されるこのフィルムに現れる光と白さ、でもそれは絶対に逃げ場じゃあない。ヴィッキーの心拍としてのあのテクノはどこに行こうが続くのだから。男を替えようが、場所を替えようが、時制が替わるようにみえようが、彼女は「現在」として舞台上に立ち続け、そしてまた、その心拍音は止まることがない。
  ホウ・シャオシェンは知っている。彼女という「現在」を生み出すのがカメラであり、と同時に同じそのカメラが監視装置にもなりうることを。彼の視線が監視装置=「2001年の10年後」のヴィッキーの視線へと連続してしまうことを。そのうえで、彼は逆の行動をとる。監視装置の視線も彼自身の視線として引き受けること。監視カメラの映像が見つめるヴィッキーだって、ヴィッキーなのだ。
  何を見たいか、何を見るべきか。テクノロジーの発展と「グローバル化」と呼ばれるものによって、「全てが見えてしまう」という飽和状態に達したかにみえる今日、薄められた欲望は、身体にピッタリと張り付いた監視のもとに置かれる。そんななかで、「これを見たい!」、「ヴィッキーを見たい!」、という欲望を、たとえ仮構してだろうが発見して肯定して、そして実践するのはすごく勇気がいることだろうし、困難なことでもあると思う。監視装置も肯定し、そして自分の欲望をも肯定すること、とにかくヴィッキーを見つめること。
  でもきっと、そうした過剰さへ向けての探究こそが、「現在」という「謎」を、それが「謎」であることを、僕らに示してくれるんだと思う。逃げ場がない、舞台裏がないってのは、危機であると同時に、チャンスの場でもある。
  そして。僕らは、ヴィッキー=スー・チーの力にもやっぱり泣かないといけない。

(松井宏)


11月30日(金)

『オレンジ』アモス・ギタイ

 パレスチナのオレンジ農園で働く人々のモノクロ写真。オレンジの木に農薬を散布する男性、手を伸ばして実をもぎ取る女性、収穫したオレンジを前に集まる人々、オレンジの木の陰で微笑む子ども…。それらは時折現れる誰かの手によって無造作に置かれ、常に上下左右に動かされていて、一枚ずつを凝視することはできない。つまり、それが写 真であること、そこにあるのが過去のものであることを意識せずにはいられない。
 イスラエル建国以前からオレンジはパレスチナの主要な輸出産物だった。『オレンジ』がつくられた98年においてもそれは変わらない。農園で働く男たちの姿にガッサン・カナファーニの短編小説「悲しいオレンジの実る土地」を朗読する女性の映像が重なり、またある男性労働者がオレンジの木のそばでパレスチナへの愛を歌い上げるとき、パレスチナがオレンジとともにあり、人々はオレンジとともに生きていることを知る。「オレンジはパレスチナの財産である」、かつて農園で働いていた老人はそう語った。
 だが、オレンジを取り巻く状況は変化している。国境にある検問所では深夜から早朝にかけて人々がごった返す。いつあるか分からない国境閉鎖のために、ユダヤ人よりアラブ人を低賃金で雇うことを選択する農園主がいる。老人は人々の対立を悲しみ、「パレスチナとイスラエルのどちらにとってもエルサレムは聖地だ、アラブ人もユダヤ人も歩み寄りが必要なんだ」と語る。仲間の労働者とともに農園の隅で焚き火をする男は「パンを食べなければ生きていけない。俺はパンのためにこんなところで働らかなければならないんだ!」と興奮気味に語り、小さくちぎったパンを口に運ぶ。それでも「ここで働くことが好きだよ」と言う彼は、「なぜ対立しなければならないのか。今も昔もオレンジは実るのに…」とつぶやく。
 そう。オレンジは現在にも過去にも変わらず存在する。オレンジはいつもそこにあった、オレンジは変わらずにそこにあるのに、エルサレムをめぐる対立は深まっていき、人々は憎しみ合う。変わらないものと変化していく状況。
 モノクロ写真にカラーの写真が加わる。農場で働く人たちの写真、オレンジと蜂蜜が写 った写真、オレンジとワインのもある。それらが混ぜこぜになって次々に重ねられていき、「悲しいオレンジの実る土地」と書かれた本が置かれる。その上に、木の陰で微笑む子どもの写 真が一枚。この映画を見て、オレンジで悲しく結ばれた現在と過去を思った。
 アモス・ギタイ映画祭、是非多くの人に足を運んで欲しい。アテネ・フランセ文化センターにて12月8日まで開催。

(内山理与)


11月30日(金)

『魚影の群れ』相米慎二

 群れているのは魚ではなく影なのか、などと考えながらスクリーンをみつめている と、海岸に残った足跡を追いかけてカメラは足跡の主である男と女をとらえる。男の 顔がわからない。わからないのは男の顔だけでなく、女の顔もそうなのだがその白さ がやけに浮き立って、やはりわからないのは男の顔なのだ、と思う。霧だか靄だかが かかって画面上にはっきりとわかるものなどなにもないし、話される言葉も方言とい ういわば靄のかかった状態で、その中で異様なまでに大きいその声と白さが女を浮か びあげる。
 夏目雅子演ずる登喜子は過剰なまでに大きな声を持つ女性として現れる。彼女の声 だけが静まり返った町に響き、そこでは彼女が異物であることが明らかになるし、逆 に海においては波の音や船のモーター音に掻き消されない声が確かに彼女がそこで生 活していることを証明する。海においては異物である彼女の恋人は、彼女と海を切り 離して考えることができない。海の影であるような女。
 しかし影としてあるのは彼女だけでない。その父親も陸にあがれば酒を飲むより他 にすることのない海の男なのだし、それに憧れる若い男もまた海の影を追い求めてい る。登喜子自身も母親の影を背負わされている。彼女がよく口にする「〜〜ってしゃ べってらった」という言葉がある。「言っていた」のではなく「しゃべっていた」、 つまり話している主体の他に聞いている者の存在を強く感じさせる噂話の言葉の力が 支配する小さな町では誰の影でもない者などいない。
 だがそれは消極的な意味においてではない。魚の影はそこに確かな魚の存在を意味 する。それを発見することを生業とするのが漁師なのだ。だからこそあんなにも緒方 拳の頭に巻いたタオルもタートルネックも若い漁師の血も、海と空の青さの中でひた すら赤い。海の影はネガではなくポジだ。  マグロの影は黒くはなく、水面に表れる光の照り返しなのである。

(結城秀勇)


11月27日(火)

『ヴァンダの部屋』ペドロ・コスタ

 私はこの映画を山形のドキュメンタリー映画祭で見た。3時間に及ぶ長い映画だ。時が経つのを忘れてしまうほど、といった映画ではない。ちゃんと3時間に感じる。寝不足の状態で見ると多分寝ると思う。私も途中5回ぐらい意識を失いかけた。風邪を引いてぼーっとしていたのだ。でも、その眠気をこらえてじーっと画面 と聞こえてくる音に集中していると、この映画は素晴らしい体験を観客に与えてくれる。暗く狭い部屋の中、順繰りにハッパをまわすヴァンダとその姉。お約束のように喧嘩を始め、隣の部屋からは赤ん坊が泣き声をあげる。始終部屋を侵食してくる工事の音。ヴァンダの部屋がある地域はリスボン郊外のスラム街で、再開発のために次々とアパートが取り壊されている。ある男は自分の部屋が取り壊されて、壁が半分抜けているのもかまわず、悠然とシャワーを浴びている。抜けた壁からさす光が男の背中から立ち昇る湯気を照らす(このシーンは本当に美しい)。ドキュメンタリー映画は現実そのものを捉えた映像だと一般 には考えられている。それだけではないのは当然なんだけど。作り手の視点とか。制作環境の要請とか。まあそれもひっくるめて大雑把にこう言い切ってしまう。(ドキュメンタリー)映画は現実そのものを捉えた映像の集積だ、と。そこからようやくこの『ヴァンダの部屋』は始まる。観客が見ることができる現実は、暗く狭いヴァンダの部屋とその周辺の人々だけ。しかし私たちはそこで見ることのできない現実も同時に感じる。リスボンという都市の歴史、貧富の差をますます広げる経済の流れ、暴力とその痛み、男であることと女であること、そうした現実が波のようにフィルムの表面 に浮き出てはまた沈んでいく。見えるものと見えないもの。見えないものを感じ、想像する力は、決して「ファンタジー」と呼ばれるイデオロギーだけに特有のものではないことを、私たちはこのフィルムで知ることができる。それこそが、現代の映像環境の中ではとても貴重な素晴らしい体験なのだ。ただのドキュメンタリー映画大好き人間の単純な現実賛美と誤解されなければいいのだけれど。今週11/30に赤坂の国際交流基金フォーラムで行われる「フィルム・ネットワーク映画祭2001」で上映されるらしい。18:00からの上映だ。是非足を運んで欲しいと思う。

(志賀謙太)


11月21日(水)

『赤い橋の下のぬるい水』今村昌平

 今村昌平、それなりに「世界」との緊張を保ってフィルムを撮り続けていたこの「作家」の近作が、弛んでいるのはなぜだろうか。たとえば大島渚ならば『御法度』の弛緩を彼の健康状態の反映だとすることもできたかもしれないが、しかし、『太陽の墓場』『少年』『儀式』などを思い出し、『戦場のメリー・クリスマス』『マックス、モン・アムール』などと比べてみると、後者のフィルムはやはり弛緩している。至るところに水が流れ、それがアクションを誘発し、セックスと女性賛歌が平行することは、60年代の今村をそのまま反復しているのだが、大島のフィルムにも感じた弛緩が、ここではずっとその度合いを増している。時代が変わったのだと言ってしまえばそれまでかもしれない。今村たちが緊張感のあるフィルムを撮り続けることができたまだ「戦後」の色彩 が濃く残っていた60年代、問題は、「生きる」ことそのものであったのに対し、今のそれは「どのように生きるのか」に変容している。ぬ めるような湿気と春川ますみや坂本スミ子のやや太った身体にまとわりついた汗が「生きている」ことそのものを動的に見せてくれていた今村のフィルムが、今や「世界」や「時代」に対して、決定的に閉塞して見えるのは、今村もまた「時代」と和解したからだろうか。ドキュメンタリーを撮っていたとは言え、今村は、1970年代の10年間、そして89年か96年の7年間、いっさい劇映画を残していない。レンズを世界に向け、フィクションを封じ込めたことはなかった。フィルムが空間とも時代(時間)とも結節点を欠いたとき、アレゴリックな意味を含めて、作家の世界に自閉することになる。作家の語る物語の舞台装置としての空間、作家の脳裏に去来するイメージとしての登場人物。空間も人物も単に「表象」にすぎない。自閉したフィルムは、どうしようもなく弛緩してしまう。ホームレス、リストラ、それらは単に、自らの世界を語るために口実にすぎない。唯一、まずい飯を腹一杯にかっこむ不破万作だけが、かつての今村の登場人物を虚しく模倣していた。

(梅本洋一)


11月16日(金)

『素晴らしき放浪者』ジャン・ルノワール

 アルノー・デプレシャンの発言、「トリュフォーのフィルムは15年前よりも今日の方がより理解されているし、同じ事はルノワールについてもいえる」(「nobody2号」参照*近日発売)という発言に背中を押されたというわけではないが、ルノワールのフィルムは今日益々重要性を増しているように思われる。ルノワール再考。
 この世界においての“良識”を完璧な程に持ち合わせていない放浪者ブデュとほとんど同じくらい、この好色で鼻持ちならないブルジョア、レスタンゴワ氏を私たちは大好きである。というのも実は彼らは双子のようであり、シンメトリーで、つまり鏡だからだ。レスタンゴワ氏というのは、貨幣経済の、交換大原則の共同体に完全に組み込まれていながら苦学生に無償で本を譲り、溺れているブデュを助け挙句の果 てに面倒まで見てしまうという傲慢な善人であり、ブデュはといえば反対に“放浪者”の役柄の下に、奉仕の、無償の世界に属していながら無償の善意を鼻で笑う純真な悪人なのである。つまり二人は完全に違っていて、相対的である点において正に相似的なのである。
 演戯がモチーフであるルノワールの作品の中で恐らく最も顕著な『黄金の馬車』のカミーラが言語に関する問題を抱えていたという点からも、そして他のあらゆる点からも『素晴らしき放浪者』は演劇的であるといえる。何故ならミシェル・シモン演じるブデュは数字すら読む事が出来ず、彼にとってはイントネーション、即興の台詞がすべてであり、つまり音楽しか無い。パロールという透明な世界で生きる彼がブルジョアの衣装に着替え、“本屋”という名前の、文字通 りのエクリチュ―ルの舞台で演ずる為には開演の幕が上がることと等価な儀式が必要なのであり、ここでの“河に溺れる”というその儀式は橋の上の大勢の観客の目の前で突拍子も無く行なわれるのである。だから、上演を終えるためにこのフィルムの終盤で人はもう一度河に溺れなくてはならないのである。ここでは“結婚式”が儀式なのではなく、“河に溺れる”という出来事こそが厳密に儀式なのであり、表面 的な儀式が事件という儀式に回収される稀有な瞬間がここにはあるのである。
 だがそのとき、規則とは一体何なのか。舞台の上で役者はある役柄を与えられており、その上で規則は常に反復されなければならない。ここでの上演は、“救うこと”と“支配すること”の間の、奇妙な二重性のなかで行なわれているようである。レスタンゴワ氏はこれらがイコールであると勘違いしているし、女中は屈託無さ故か、あるいは単に受動的だからか、支配されてはいるが決して救われているわけではない。ブデュはといえば、“救った”ことによる彼らの恩着せがましさにも関わらず“支配されること”に対して愚直に鈍感であり、溺れる以前の、上演前の規則を一向に更新しない。あたかも彼にとっては“何も変わらないこと”のみが唯一の規則であるかのようである。というのも彼は上演前からして既に役者であり、彼の身体とは“放浪者”という役柄における荒々しい肉体なのであり、誰もこれほどまでに典型的な役柄を見たことが無いくらい完璧だからである。
 “支配できる”と思いこんでいて実際は“支配されている”滑稽な上流階級とは喜劇である。しかしこの手の教訓に人は聊かうんざりするのではないだろうか。良識のある人間ならばブデュの悪意の無い図々しさに時折イライラするかもしれない。しかし役者にとって“完璧である”というのは同時に欠陥にもなり得るのではないか。その証拠に彼が“支配”していたノラ犬は結局最後まで彼のところには戻ってこないのである。

(澤田陽子


11月15日(木)

『ニッポニアニッポン』阿部和重

 『インディビジュアル・プロジェクション』で開陳した「みんな私」という複合転移の物語が、ここでは更に複雑化・拡大・洗練された形で語られている。主人公の鴇谷(とうや)春夫は本木桜という固有名を与えられた少女に恋心を抱く。しかし、執拗なストーカー行為から、少女とは引き離され、故郷を追われてしまう。
  『ニッポニアニッポン』の登場人物は、阿部の作品では初めて漢字による固有名を与えられていることを確認しておこう。春夫は、自らの姓に「鴇(トキ)」の一字が含まれていたことから、「ニッポニア・ニッポン」という学名を付されたトキに対して強いシンパシーを抱くことになる。ここから、鴇谷春夫≒トキ(ニッポニア・ニッポン)≒ニッポニアニッポン(二重映しとなった日本)≒本木桜 という極めて複雑な連鎖的転移・代理構造が生まれる。しかし、この中の一片である本木桜は失恋から自殺し(彼女はその姓名や自死のイメージからニッポンを代理していると思われる)、代わって本木桜の代替として(本木桜との類似性と差異から、やはりニッポニを代理する)瀬川文緒が登場する。
  本来、「ニッポニア・ニッポン問題の最終解決」は、その特異な学名のためにニッポンによって監禁・陵辱されているトキを、解放あるいは密殺することをその眼目としていた。トキの交尾と着床のニュースを耳にした春夫が、自らとトキとの差異(連鎖的転移関係の危機)に憤慨し、方法が密殺に絞り込まれたに過ぎない。解放にせよ密殺にせよ、「ニッポニア・ニッポン問題の最終解決」の成功は、ニッポニア・ニッポンが世界から欠落することを意味し(生物としてのトキが生き残るか否かに意味は無い)、その代替不可能性から連鎖的転移関係の崩壊を呼び起こす。作中唯一人、春夫と真っ当にコミュニケートする少女・瀬川文緒が、本木桜の欠落による空位 を埋めることで連鎖的転移関係を一時的に回復させるが、「ニッポニア・ニッポン問題の最終解決」がトキの開放という形で成功することによって「みんな私」状態はその支柱を失って瓦解する。この時になって初めて鴇谷春夫と瀬川文緒は転移関係という媒介無しに結節するのである。『ニッポニアニッポン』は妄想が現実に敗れ去る物語などではなく、ニッポン(本木桜)が死滅し、ニッポニ(瀬川文緒)が生き残る過程であり、世界を巻き込んだ恋愛小説であるとも言える。
  阿部和重の小説は、安直な「リアル」に背を向け、徹底して非現実的であることで、逆説的に苛烈で剥き出しの現実と格闘する。この意味においてのみ、鴇谷春夫は阿部和重の分身となるのである。以下に掲げる引用は、阿部和重自身の小説に対する批評のようにしか私には思えないのである。
  「彼によれば、『ドラえもん』は「夢のある漫画」というよりもむしろ、「夢しかない漫画」なのだから、途轍もなく現実的な物語として読まれるべきだということでした。」(『トライアングルズ』) 

(中川正幸)


11月10日(土)

『マルホランド・ドライブ』デヴィッド・リンチ

 リンチが、あまりにストレイト過ぎた『ストレイト・ストーリー』の次に撮ったフィルム。このフィルムで彼は『ツイン・ピークス』『ロスト・ハイウェイ』のリンチに回帰しているように見える。ひとつひとつのショットに技巧を凝らし、モンタージュにおけるコンティニュイティの基準を「物語」ではなく、オブジェという視覚の同一性におき、ドルビー・ステレオの威力がきわめてクリアに現れる音声処理──やはりリンチはリンチなのだと、このフィルムを見る人は一様に肯くはずだ。記憶の再構成ではなく、突然のオブジェの衝突から別 の展開が始まり、意識下にある不気味さは常に性的な妄想と行為に結節される。ここでもまたリンチはリンチなのだ。だが、『ツイン・ピークス』『ロスト・ハイウェイ』を加算したような『マルホランド・ドライブ』は、それら2本を越えているのか? という疑問も同時にわき上がる。越えていない。それが、とりあえず私が引き出した解答だ。3つの説話が結節しつつ消滅する『ロスト・ハイウェイ』に比べると、その「入れ子構造」もとても分かり易くできているし、音楽も平準的な使用法だ──『ロスト・ハイウェイ』のサントラにおける「バロック性」を思い出してみよう──し、奇妙な登場人物たちは、『ツイン・ピークス』の反復に過ぎない。そしてひとりの女優にふたつの意匠(仮面 )を被らせるという、おそらくリンチがヒッチコックの『めまい』にヒントを得た着想もまた『ロスト・ハイウェイ』そのままだ。めくるめくようなリンチの世界にふさわしいのは様式や着想の反復ではなかろう。

(梅本洋一)


11月10日(土)

『リリィ・シュシュのすべて』岩井俊二

 98年の『四月物語』から3年ぶりの、といっても気分的にはその大作感も含めて、 やはり『スワロウテイル』以来といいたくなる、岩井俊二久しぶりの新作である。そ して、この映画を見て小林武史の音楽に触れた者は、否応なく『スワロウテイル』を 思い出すだろうし、そこにある種の懐かしささえ感じるかもしれない。大仰なギター アレンジと直前まで溜めに溜めてサビで大音量になるドラム。感傷的で不必要なまで にシリアスな歌詞の数々。ああ、あったね。こんなのが流行ってた時も。 2001年現在、オリコンのチャートに載るようなポピュラーミュージックにも、インス トの音楽なんていくらでもある。でも数年前までそんなことは考えられなかった。少 なくとも大手のレコード会社がある程度の売上を見込んで発売するCDには、絶対歌 詞をつけなければならなかったし、歌が歌われていなければならなかった。電気グ ループやコーネリアスが、ほぼ歌なしの作品を普通に発表できるなんてここ2、3年 の話なのだ。そこでやっと、音楽が受け手の感情を代理=表象する必要がなくなっ て、音が音として聴かれるようになった。 しかし、この映画の音楽にはそのような変化はまったく感じられない。たしかに今で も自らの感情を大前提に音楽を聴く人は沢山いるだろうし、中学生なら尚更だろう。 だが、映画がそれに付き合う必要があるのだろうか? 大仰で感傷的で不必要なまでにシリアス。これはすべて岩井俊二の映画にも当ては まってしまう。『スワロウテイル』までだったら時代状況を表象しているように見え たそうした特質が、『リリィ・シュシュのすべて』では決定的に古臭いものに感じる。 その過剰なまでの意味の羅列が、現実の14歳に向かうのではなく、世のイメージの14 歳に向かうような気がしてしまう…。 岩井俊二が持つ過剰さ、それは物語作家としては有効に機能するかもしれない。けれ ど物語や感情といった見えないものに対する過大な信頼は、彼の映画が現実と対峙す る時マイナスにしか働かない。14歳、郊外、いじめ、ケータイ…。そうした問題をイ メージだけに押し込めてしまわない方法は、まずカメラが捉えた光景をそのまま受け 入れること。聞こえてくる音をそのまま認識すること。そして、それらの質を厳密に 吟 味すること。表象不可能に思えるものでも、ぎりぎりまで表象してしまう勇気と尊大 さをもつこと。そしてそのためには感情やら物語やらはある程度捨て去ってしまうこ と。要するに、ミクロ・ポリティクスが今ほど必要とされている時代はないというこ と だと思う。

(志賀謙太)


11月03日(土)

『ピストル・オペラ』鈴木清順

 『ピストル・オペラ』『殺しの烙印』のリメイクであることは知っていたが、このフィルムを見ると、やはり鈴木清順は単にすごい。彼をすごいと思ったのは、本当に久しぶりだ。『ツィゴイネルワイゼン』『陽炎座』『夢二』は好きではない。清順が自らの徴に強い束縛を受け、完全に不自由な作品になっていたと思うからだ。清順にとって撮影所は束縛ではなく、自由を謳歌する場所だった(詳細は「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」23号掲載の清順インタヴューを参照のこと)。一旦、撮影所的な自由を離れると、彼には、美学的な不自由さしか見えなくなった。清順美学などという誰が作ったか知らぬ が批評的なキャッチフレーズに清順自身が嵌り込んでしまった結果が、あの退屈な大正三部作だった。それに比べて、『ピストル・オペラ』は単に自由だ。現世的な欲望などに未練はない彼の年齢がそうした自由を与えたのかもしれない。もちろん、意匠は清順以外の何ものでもないが、誰が殺し屋ナンバー・ワンかという実にどうでもよい主題の中に、見事すぎる映画的な身体を見せてくれた。映画的な立ち居振る舞いと書いた方が適切かもしれない。そしてその身体所作は、江角マキ子と山口小夜子によって体現されている。平幹二郎、永瀬正敏を初めとする男優陣は、このふたりに決定的に劣っている。もちろんこのふたりの女優はモデル出身であり、その身体所作は身に付いたものだろうが、何よりも立つこと、歩くことといった「映画的な身体所作」をこれほど完全な造形のなかで見せてくれたフィルムを最近見たことがない。僕らは表面 的な意匠に惑わされて、つい何よりも先に清順的な映像を追ってしまう傾向がある──そして、このフィルムにも清順的映像は枚挙にいとまがない──が、少なくともこのフィルムを見る限り、清順は、見事な演出家なのだ。江角マキ子や山口小夜子が正面 を向いてすっくと立ち、歩く姿を見るととても清々しい気持ちになる。

(梅本洋一)