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~JANUARY  01/30__up dated


-バッファロードーター『I』 音について
-『ガーゴイル』クレール・ドゥニ
-「ラグビー 大学選手権 早稲田vs関東学院」
-『ガーゴイル』クレール・ドゥニ
-『ラグビー 社会人選手権 神戸製鋼vs.トヨタ(1/6)』
-『スパイ・ゲーム』トニー・スコット
-『POOL』NO.4 について


1月30日(水)

バッファロードーター『I』音について

 もう2年近く住んでいる一人暮しの私の部屋は幸いにも大通りに面 していなくて、車の通行だとかの類の騒音とは一切無縁の生活をしばらくは送って来れたのだけど、最近やたらと音がうるさい。まず、耐え難いほど迷惑なのは2週間程前から始まった真隣の大きなマンションの解体工事の騒音。毎日大体朝8時頃から作業が始まるのだけど、なんだかんだで朝の5時とか、6時頃床に着くことがほぼ定例になっている人間にとって、これ以上の身体的且つ精神的虐待は無いのではないかと思うほどである。なにせ床が揺れる。もうひとつ、少し迷惑なのは2ヶ月程前まで空いてた部屋に越してきたお隣さんの喋り声。一人暮しにはありがちな話だけど、(多分)引越しの初日から割と頻繁に、たまに喧嘩してたり、それは聞えてくる。
 両方とも私にとっては苦痛で、つまり単なる騒音であることに変わりはないのだけど、お隣さんの話し声は言うまでもなく“話し言葉”で、意味はある。(私にそこまでは聞き取れないけど。)“誰か”に向かって投げ掛けられている筈の言葉だ。方や工事の音は、単に“音”で意味はないし、対象もない。基本的なことだ。

 95年当時、嶺川貴子のプロデュースでバッファロー・ドーターのその名を知った私は彼らの初期のアルバム『シャギー・ヘッド・ドレッサーズ』や『アメーバ・サウンド・システム』を地元のレコード屋で購入して、“ミュージック・ステーション”や“歌のベストテン”に登場するようないわゆる歌謡曲に隠れたところで、マイナーな所にこんな音響があったのかと驚いていたけど、割と最近まで、そうしたヒットチャートに乗っからなくてもある特定の人からは支持されている音楽というのは、私が知らなかっただけで昔からずっと存在はして来たのだと思っていた。確かにあったはあっただろうけど、それでも例えばコーネリアスとか電気グル―ヴのようなミュージシャンがそれなりに大衆の支持を得るようになった95年以降は少なくとも日本の音楽シーンの大きな変動だったのだろう。高校生だとかの、アンテナが急激に広がっていく成長過程だったからという思い込みに誤魔化されてあまり実感がなかったけど、世の中の流れとしても同じ位 急激に細分化が進んでいたんだろう。多分。つまりそこで改めて、歌詞とかメロディー以上に“音”のその存在が大衆によって認知されたのだ。
 95年以降ずっとそのラインを突っ走っているように見えるバッファロー・ドーターであるけど、4年近く前になる前作『NewRock』もとてもとても好きなのだけど、新作『I』はどこか別 格である。一言で言うととてつもなく“強い”のだ。その“強さ”は、音そのものももちろん、それ以上に、“言葉”から、“言葉の単純さ”からやってくるのだと思う。「VolcanicGirl」のようなバンド色の強い曲もあるし、「EarthPunkRockers」の中には、そこには何かを壊してゆくような音が確かにあるのだけど、「I」には、レとミの反復という至ってシンプルな形式の中でほとんど揺れ動いているように“I(アイ)”という“言葉”が少しずつ充填されていくのだ。

I feel fIne fIne fIne tonIght.....

アイアイ言われたって、何のこっちゃわからない、何のメッセージも意味もほとんどない。発語の原初的な“音”がメッセージとしての“意味”を獲得するほんの手前でフワフワ浮いてる感じだ。でも独り言じゃなくて、対象はいる。というのは、恋人でも友達でも親でも、何でも構わないけど、いつも近くにいる人に掛ける言葉とは大方こんなものでしょう。不特定大多数に向かってマニフェストする言葉が古臭く、どこか胡散臭く、「そんなに唱えたって何も変わらない!」と心のどこかで思っている時があったりして、だから無意味なんだけど特定な誰かに向かって掛けてる言葉しか、もうあんまり信じたくもないし、そっちの方が強い。

 余計な話だけど、今日はうるさいお隣さんからの話し声が取りあえずまだ聞えてこない。ひょっとしたら、彼女が彼女について語る物語よりも、無意味な喋り声の存在とその不在の方がより“強く”、それを語るのかもしれない。

(澤田陽子)


1月30日(水)

『ガーゴイル』クレール・ドゥ二

 吸血が官能と結び付けられるとき、くちびるは素肌に触れるものとしてある。粘膜が粘膜と密着する興奮を越えて、相手の粘膜を必要とせずに一方的に体内に陥入することが可能になる。『ガーゴイル』の中で、病に冒された者も自らの粘膜しか必要としない。コレ(ベアトリス・ダル)は相手のくちびるを食いちぎり、シェーン(ヴィンセント・ギャロ)も女の下腹部を噛みちぎる。そのために彼らは(無論相手も)血だらけになるのだが、コレの最期が彼女の欲望が発露したときと同じに、赤にくるまれたものだったのはその病の性だったのか。
 血と火の色彩的な類似を挙げれば、双方とも時間の経過によって赤から黒へと転ずることも言えるだろうが、このフィルムにおいてそれらが似通 うのは視覚的にではなく寧ろ嗅覚的にではないか。火の香りを楽しむものであるタバコを喫っていた少年のくちびるをコレは狙うし、擦ったマッチを顔の前で匂いを嗅ぐように揺らす。シェーンはベッドの凹みにタバコの残り香を嗅ぐ。嗅覚の刺激が記憶を呼び覚ますように、病に冒された者たちは時間差の中で欲望する。
 シェーンにとって欲望の途中廃棄である、宙に撒かれた精液が臭いを感じさせないぴちゃぴちゃした白い液体だったことに失望する妻ジューンが、夫の過去を知る女の部屋でタバコを口にするとき、彼女はすでに病に冒されているのではないか。シャワーを浴びる夫に抱きつくときに見開いた眼は、眼前の何かのためではなく、不在の時間の匂いのためであるのだ。

(結城秀勇)


1月16日(火)

『ラグビー 大学選手権 早稲田vs関東学院』

 久しぶりに国立競技場でラグビーを見る。早稲田 vs関東学院。大学選手権決勝に早稲田大学が残ったのは本当に久しぶりのことで、大観衆が見守り、キックオフの時間ぎりぎりに到着した私は千駄 ヶ谷サイドのゴール裏での観戦になった。周囲はほとんど関東学院の旗を振っていた。

 今日の関東学院は、いつものスロースターターではない。第3列と両センター、そしてFBの角濱を中心にシャローのディフェンス。早明戦にしっかり学んでいる。早稲田もFBにエースの西辻を起用し、ベストメンバーで臨んでいる。結果 は21対16で関東学院。順当な結果だろう。関東学院はスクラムを含めてFW戦に競り勝ったことと粘りのあるディフェンスによるものだ。では早稲田はどうあがいても勝てなかったのか? そうではないだろう。ゴール裏から見ていた私には、バックスリーが何度も余ったように見えたが、そこにパスが供給されたことはなかった。関東学院が最初から早稲田の両センターをマークしてくるのは分かり切ったことだったはずだ。山下大吾に頼るあまり両ウィング中心にボールを散らすことができなかったことが敗因だろう。かつて──70年代──の早稲田なら、FW戦に競り負けてもこのゲームくらいバックスにボールが供給されていれば勝利を収めたものだ。

 こう言われるかもしれない。70年代から一番進歩したのはディフェンスの方法だ。スペースを消すために幅広く一列に並んだディフェンスを破るにはクラッシュとボールのリサイクルを繰り返し、素早いラックで相手を巻き込みつつボールを出して、人数を余らせるしかアタックの方法はないのだと言われるだろう。昨年までもっとも進歩的と呼ばれていたワラビーズのラグビーは確かにそういうものだ。人を感動させたと言われる99年のワールドカップにおける南ア対オーストラリア戦は互いにそうしたディフェンスの反復でPGとDGしか点が入らなかった。私には退屈の極みだった。クラッシュ、ラック、クラッシュの繰り返しはボールの運動のゲームであるラグビーの面 白みを完全に消しているとしか思えなかった。

 関東学院のラグビーは今村友基のキックが織り交ぜられるものの、基本的なそうしたワラビーズのラグビーを模倣しているように見える。懐の深いディフェンスとはボールを出させつつタックルをねばり強く繰り返すことだ。それに対する早稲田のフラットでワイドなラインは、一見有効なようにも思える。ときにはクラッシュし、ときには飛ばしパスでディフェンスの的を絞らせない方法にも見える。だが、ワイドに広がったディフェンスラインを前にすると、実はアタックのスペースも限られているのだ。ディフェンスを破るために早稲田が用いた方法は4つ。アウトサイドセンターの山下を囮に使ってインサイドセンターの武川が抜く。両センターをフォローしたナンバー8がサイドを抜く。SOの太田尾がウィングに飛ばしパスをする。西辻がライン参加する。4つのオプションがあるとは言え、それしかない。ときにはワイドなラインを用いてもよいが、原則としてもっと狭く深いラインを敷いた方が抜きに行くためのスペースが生まれるのではないか。早めにウィングで勝負し、その外側のスペースに両センターなりFBがフォローしていくオプションをつくるべきではないのか。そうすれば健闘したFWが供給したボールをあと2回はトライラインを越えて運べたのではないか。私にはそう思えた。

  その翌日行われた社会人選手権の決勝の神戸製鋼対サントリーのゲームは力がちがいすぎた。前半の20分まではサントリーのプレーの精度が低く、ミスを重ねて神戸にリードされたが、後半は実力のちがいを見せつけた。神戸も50点も献上するようでは根本的にディフェンスについて考え直さねばならないが、日本選手権までに立て直せる問題ではない。だが学生の2チーム(もちろん関東学院と早稲田)と社会人の4チーム(サントリー、神戸、トヨタ、クボタ)が参加する「日本選手権」に意味があるのか? トヨタと日本選手権の1回戦で当たる早稲田は正直勝機がないだろう──最低30点差はつくだろうが、悪くすれば60点ほどの点差がつくかもしれない──し、クボタ対関東学院も、もし関東学院のFWが完敗するようなら大差がつくかもしれない。ラグビーで30点差以上つくゲームをミスマッチと呼ぶが、一応の最高峰の選手権である日本選手権がミスマッチの連続になるのは健康ではない。日本協会の強化委員長ではる宿沢がたちあげた日本リーグ構想を一日も早く実現しない限り、日本ラグビーが密度の高いゲームをこなしながら実力を付けていく日は来ないだろう。

(梅本洋一)


1月13日(日)

『ガーゴイル』クレール・ドゥニ

 説話の上での台詞の欠如が、映画に不思議な層を与えている。音楽がそれだ。フィルムの初っ端のトラックのエンジンの爆音は通 奏低音のように映画が終わるまで持続し、Tindersticksのボーカルによって物語は語られるから、だから俳優たちが吐き出す声はほとんど何の意味付けもなくノイズのようであり、ただ奇妙に厚い。アメリカ人夫婦が新婚旅行でパリにやって来るという移動でフィルムは始まるが、口唇的愛の欲望が相手を噛み殺してしまうほどに高揚してしまう病の治療薬を手に入れるという密かな目的を持っている夫シェーン(ヴィンセント・ギャロ)はここでは異邦人であっても、よそ者ではない。よそ者なのは妻の方だ。深い、暗い夜と闇があらゆる位 相にまで浸透していくこのフィルムの中で、彼女だけが悲しくなってしまう程可憐で、ひたすら軽い。映画のもう一人の末期患者コレ(ベアトリス・ダル)は、その登場の最初から何かを演じるためにそこにいるという感じでもないし、冒されているとか、何かを隠しているという感じでもない。ひとりの怪物という役柄のために彼女がいるのではなく、なんと呼ぶべきか判らないが、最初から完全に彼女はアニマルであり、人が、映画がこれまで見たことのないような貪欲という存在を生きているのである。
 滞在中のホテルと監禁される郊外の屋敷でも、妄想と現実でも何でも構わないのだが、フィルムが何かしら2つの要素によって構成されているにせよ、ともあれ強大なのはその乖離、つまり黒く奥深い、大きな見えない穴である。一度呑み込まれたら抜け出せないこのブラックホールに、呑み込まれるかどうかのギリギリのところを虚ろに往来するたった一人この主人公シェーンだけが、郊外の屋敷で、かつての恋人という記憶、過去と、「君ももうすぐこうなるんだ」という近接未来とを同時に見抜いてしまうのである。『ガーゴイル』とは、ベッドの上に残されたわずかな凹みが、彼にとっての目の前の現実よりもより肌のキメの細かい無意識へと急速に波紋してしまうような黒い川の川辺で横たわっている、現実とリアルすれすれのところにいるひとりの男を捉えた美しきホラー映画であり、恋愛映画なのである。
 大切な人を守る抱擁も、窃盗癖や性衝動や、痴漢行為を撮るのと同じ平等さで映される。快楽の喘ぎ声も、恐怖と傷みの絶叫もそう。平等とは民主主義が叫ぶ、イデオロギーのそれとは違う。クレール・ドゥニのそれは説話の中にあるものでも対象でもなく、傷みという皮膚感覚の中にあるどす黒い血なのである。平等は暴力ではない、と同時に平等は果 てしなく暴力的である。言うまでもなく、映画は流血によって怖くなるのではない。本当に怖いのは、虚ろな男が射精する瞬間。ホテルの廊下。穴。怖いのは、見えないことである。人が恐れるのは、何もないこと。

(澤田陽子)

*1月27日(日)14時30分〜日仏学院エスパス・イマージュにて上映


1月9日(水)

『ラグビー 社会人選手権 神戸製鋼vsトヨタ(1/6)』

 SkySports 3で2001-2年ラグビー社会人選手権の神戸製鋼vs.トヨタ戦を見る。
今シーズンのラグビー観戦のテーマは「差異と反復」だ──Journal 「早稲田対明治戦」を参照のこと──。もともとラグビーというゲームは、ゴールラインにボールをタッチダウンするという「反復」のゲームなのだが、その「反復」を演出するために、あるいは、その「反復」を成就させるために、何らかの「差異」を創出することが必要になる。レヴェルの高いゲームを見るとき、そうした「差異」の創出に向けて15人が運動を始めるとき、ラグビーの無定型的な興味が生まれる。たとえば、高校ラグビーの決勝戦の啓光学園対東福岡戦では、ゲーム開始早々、東福岡が同じ形で3トライを奪われ、つまりそこにはまったくの「反復」しか見いだせず、それに対する東福岡の攻撃も、無理矢理展開を試みるだけで、ここでもまた「反復」が「差異」に勝利を収め、ゲームの興味を潰していた。それに対して、ここ数年の日本のラグビーをリードしてきた神戸とトヨタのゲームには、「差異と反復」が垣間見えたことは事実だ。トヨタFWの徹底した攻撃を懐深く受け止めた神戸は、後半反撃に転じ、フラットでワイドなライン攻撃を試み、少しずつトヨタFWを消耗させ、ロス・タイムにミラーのPGで逆転勝利を収めた。1点差の勝利だ。ゲームの内部で自らの戦術に「差異」を創出していく神戸の姿勢は、やはり誉めておくべきだろう。解説をしていた往年の名ウィング坂田好弘(現大阪体育大監督)も「こんな試合はめったに見られるものではない」と感動していた。確かに緊張感あふれる80分だった。だが、僕にとって、このゲームは──もちろんレヴェルの高さは評価に値するが──どうしても「反復」にしか見えなかった。まず、相手FWの攻勢をしのぎきってロス・タイムで逆転する神戸を僕らは、かつてなら対三洋戦で何度も見たし、昨年なら、日本選手権の対サントリー戦そのままだ。そして、神戸が試みるアタックは、常にミラーを中心にしたフラットでワイドなものであり、パスを封じられれば、安全にFWに戻して攻撃権を保持し続けるという単純なものであり、ここでもまた徹底した「反復」が選択されていたのだ。トヨタFWの足が良く動いていた前半は、トヨタのディフェンス網に神戸のライン攻撃が封じられ、トヨタのフィットネスが落ちた後半から攻勢に転じる──このゲームの解析はそれだけで十分だろう。つまり神戸はトヨタのディフェンスに対して「差異」を創出してアタックしたのではなく、トヨタの疲労を待っていたに過ぎない。ミラーのPGを呼ぶことになるトヨタの反則は、何よりも神戸のキックオフのボールを確保できなかったことにある。FWの出足が一歩遅れたのだ。表面 的な──つまり点差の上での──ゲームの緊張感の彼方に、底知れぬ退屈があるとしたら、双方のチームの戦術が一向に「差異」の晒されないことにその原因が求められる。特に神戸自慢のフラットラインは、僕は一向に好きになれない。元木、吉田というふたりの強いセンターを持ちながら、彼らにはクラッシュするか、タックル寸前にパスするかの選択しかないのだ。スペースを与えればそれなりに抜きに行く──たとえばサントリーのFB小野沢のように──こともできるだろうが、彼らふたりにボールがパスされたとき、すでにトヨタのディフェンスは目の前にいる。もっとラインを深めにとるべきなのだ。たとえフラットラインをチーム戦術にしているにせよ、ゲームの内部でいくつものオプションを持ち、「反復」ではない「微妙な差異」を創造して、トライラインをおとしいれることこそ、ラグビーではないのか。決勝の対サントリー戦では是非そんなラグビーを見たい。

(梅本洋一)


1月9日(水)

『スパイ・ゲーム』 トニー・スコット

 私はテレビゲームというものをほとんどやらないし、持っているゲーム機も今ど きNINTENDO64のみといった有り様なのだが、この映画の幾つかの画面 は、私にゲーム 機のコントローラーについている視点切り替えボタンによる操作を思い起こさせた。  −ああ、何しろ『スパイ・ゲーム』だからね…
 それが、その通り、この映画は何かとゲーム的に進んでいく。かと言って、『イグ ジステンス』のように現実世界/ゲーム世界といったものが問題となるわけではない。 あるのは進行形(度々我々に時間が告げられる)と過去(全て回想として語られる) だけであり、その間にはきちんと境界が引かれている。そしてその境界を引くのは、 ずっとアメリカにある1つの建物内に留まり続ける、レッドフォード演じるCIA工作 員である。彼が救出劇を操作し、彼の語りが回想シーンを呼び起こす。回想シーンに はベトナム、統一前のドイツ、ベイルートといった土地が動乱の年代に合わせ現れ、 主人公が救出しようとするブラピ演じる元部下は、中国の監獄にいる。そのシーンは すべて主人公の台詞・行動に従って、あるいは主人公とブラピの関係を描くためのみ に登場する。つまり彼がゲームのプレイヤーということなのだろう。彼は御丁寧に、 スパイ活動について「これはゲームだ」という台詞まで吐く。
 『スパイ・ゲーム』はレッドフォードがプレイするゲームであり、我々は彼がプレ イするゲームを見ているのだ…そうかもしれない。彼の巧みな策略を見る我々は、高 橋名人のコントロール捌きをじっと見つめる小学生のようなものか。ただ彼等との大 きな違いは、我々が実際に自分でこの『スパイ・ゲーム』をプレイすることはないと いうことだ。

(黒岩幹子)


1月9日(水)

『POOL』 No.4 について

 渋谷ブックファーストで立ち読み。もちろん1階の雑誌コーナー。ここ数年、「カタログファッション雑誌」ではない、「モード雑誌」とも呼べそうなものが本当に増えた。『流行通 信』とか『装苑』とか『HF』、あるいは一部の女性誌に限られてた「モード」は今や本屋に溢れかえっている。衣服というモノだけじゃなくて、スタイリング、写 真、そして一応のコンセプトを重視しようとする姿勢は、国内の古株モード誌というよりも明らかに海外のそれの影響を受けているはず。情報のやり取りも簡単になったし、海外のモード誌と提携を結んで、コンセプトからまるごと輸入するなんてのも今では当たり前になってるようだ。同様に、街にはセレクトショップが毎年毎年増加し、それとともに、海外の大手メゾンがその企業文化まるごとこちらに輸出されてきてるし。セレクトショップが増えるのと「エルメス」がレンゾ・ピアノを起用してビルを建てるのとは必然的な関係にある。

  それから、いわゆる「モード」と「ストリート」との境界が一見希薄になってきているのも要因としてある。実際その境界は未だに根強く残っているのだけど、今現在、というか90年代以降、「モード」は「ストリート」にそのアイデアの源泉を求め、「ストリート」は「モード」のパロディを楽しむ、そんな図式がどうやら定着しているようだ(だからこそ境界はより明確になってしまうのだけど)。もちろん、「オートクチュール」と「プレタポルテ」との関係も然り、である。

  二ヶ月程前に出た『POOL』という雑誌が僕の興味を惹いたのは、そこに平川武治の名前があったからだ。彼はアントワープ王立芸術学院卒業コンクールの審査員も勤めるような、日本で唯一(たぶん)の「モード・クリニュシェ」である。彼は、先シーズン発表された『ジュンヤ・ワタナベ』初の本格的なメンズ・コレクションに、少しだけ触れている。グラフィック(文字)で覆われた衣服達、「単純に言ったら、グラフィックで洋服をラッピングしてしま」ったこのアイデアは「60年代後半、70年代前半にTシャツに色んなメッセージを描いた」ような流れにその源泉を持ち、「今の時代の新たなポップ感覚の発想」だとのこと。何故に今さら「ポップ感覚」なんていう言葉を使うのか、と誰もが思ってしまうだろうけど、やはりそれは『ジュンヤ・ワタナベ』自身にも原因があるといえるだろう。そう、「モード界」はそのイメージと裏腹にとっても保守的なのだ。

  メンズ・コレクションこそはそのデザイナーの真価が問われるべき領域だと僕は思う、別 に差別でも何でもなく。つまり、保守的な世界のさらに保守的な領域にいまだ留まり続けざるをえないメンズ・コレクションでの態度は、デザイナーの最も根っこの部分を暴露してしまうのではないか、ということ。その意味で、『ジュンヤ』はここでその限界を示してしまったのかもしれない。『コム・デ・ギャルソン』の血を引きながらレディースにおいて様々な解体作業を続けて来た彼が、メンズではパロディー丸出しの「ポップ感覚」を打ち出してしまう。下りゆく解体作業の果 て、そこから上ってゆくことをしない(できない)彼が選んだのはやっぱりパロディーである。その態度ゆえ規則が強固になること、それが自由でも何でもないことを彼は分かっているのだろうか。
  本当に「ポップ」なのは『マルタン・マルジェラ』なのだ。川久保玲とも比較される彼もまたデビュー以来解体作業を続けて来た。そんな彼が数年前にメンズラインを発表する。それらは「制服」に近い程、一見ベーシックなものばかりだ。黒、白、グレー、カーキ、そして形も非常にベーシックに留まるそのラインには、同時に彼の行って来た解体作業とその闘いの苦しみとの痕跡が至る所で笑っている。これ言うまでもなくパロディーではない。『Martin Margiela』は、ポスト・モダンを批判し、「外部を実体的に在るものとして前提してしまうこと」を禁じる『内省と遡行』の柄谷行人氏に似ている、そして当然、笑っているニーチェにも。

  つまり、僕は『Martin Margiela』を愛している。

(松井宏)