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~FEBRUARY  02/28__up dated


-『夜風の匂い』フィリップ・ガレル
-『オーシャンズ11』スティーヴン・ソダーバーグ

-『ふたつの時、ふたりの時間』ツァイ・ミンリャン
-『自由、夜』フィリップ・ガレル
-『ガーゴイル』(クレール・ドゥニ)original soundtrack
-『ショコラ』クレール・ドゥニ


2月28日(木)

『夜風の匂い』フィリップ・ガレル

 普段、CDを聴いたりライヴに行ったりして、音楽によく耳を澄ます。
最近は、雑誌「nobody」第3号で特集する、ゴダールの映画音楽を聴いて考え込んだりしている。そういえば、昨夜友人と長電話していたとき、友人の語る言葉にも注意深く耳を傾けていた。
逆に、耳をふさぎたくなるのは、眠ろうとしているときに聞こえてくるエアコンの音、ユニットバスがカビないように回している換気扇の音だ。規則正しくリズムを刻んで、ゴーゴーカラカラいっているのが気になってイライラする。でも、それも徐々に意識の外に追いやられ、眠りに落ちていく。

 自分にとって好きな音楽、心地よい音があり、どうでもいい音、聴きたくない音がある。音に対していいとか悪いとか、勝手に価値づけをして日々生きている。しかし、『夜風の匂い』を見たとき、お前はそれでいいのか、と問われた気がした。冒頭の、カトリーヌ・ドヌーヴが階段を上って行く時の足音。ベッドと自分自身に香水をふりかけるシュッシュッという音。ドヌーヴと関係を持つ二人の男が乗るポルシェが、突っ走っていく音。ドヌーヴが男たちの傍らでかける音楽。『夜風の匂い』では、これらの音が圧倒的な存在感を持っている。もちろん、会話が交わされるときには音声が際立ち、他の音は弱まる。だが、どの音を明瞭に聴かせるかという選択はなされても、ある音だけが重要だという価値づけが行われることはない。現実において、音に価値は付随しないのだ。さまざまな音が響き、人々は音とともに生きている。もしかしたら、いろんな音を聴いているようでいて、実は気づいていない音があるのかもしれない。

 映画館を出るとき、客席のきしみ、トレンチコートのこすれる音、エレベーターの滑り降りる音を聴いた。銀座の街角に停車中のタクシーのウィンカー、煙草の火がくすぶっている音も。ここはナポリやベルリン、パリではないけれど、私は音に囲まれていた。今日聴いた音を忘れないし、『夜風の匂い』を忘れはしないだろう。

(内山理与)


2月28日(木)

『オーシャンズ11』スティーブン・ソダーバーグ

 なんだか、見終わった今でも結局最後は大金を手にすることができたのだろうかという不安に駆られてしまう。いや、どうやってもてもあのストーリーは大金の強奪に成功したとしたとしか解釈のしようはないのだが。

 原因は明らかだ。『オーシャンズ11』内の世界は情報を間接的に伝達させる、すべてが非接触の世界だったからだ。悪役のアンディー・ガルシアのように映画を見ている自分もその監視カメラの入れ替えのトリックに騙されるのだが、もともと監視カメラの映像というそれ自体がバーチャルであるものに入れ替え操作が介入されていて、あとから実際はこうだというようにシーンが挿入されていても、ちょっと自分の情報処理能力を越えた気がした。さらに、もうひとつ。略奪に成功したのであれば、もう少し喜んで欲しかったし、分け前を分担するシーンでも挿入されていて欲しかった。挿入されていたのは噴水を前にした夜景の感傷的なシーンであり、なにより盗んだ現金を全然みていないのだ。そんなふうにケチをつけてもジュリア・ロバーツをジョージ・クルーニーが奪還するラブストーリーだからだ、と一蹴されてしまうが。とりあえずはこの非接触な伝達、というか因果 関係の切断が説話を進行させていることだけは、まちがいない。

 引き続き細部をあげつらわせてもらうが、ドン・チードルの用意したあのラスベガスの街全体を停電させてしまう物体。あれは、いったいなんだろう。長々と説明が挿入されていたが、とりあえずはその電線に接続されてもいない機械が爆発して、すると街中が停電。何の説得力もない。もちろんそれは細部でしかないが。しかし、ラジコンといい、スリといい、携帯電話といい遠隔操作の道具がたくさん登場する。  さらに続ける。WTCのように崩れ去るホテルの崩壊シーン。このホテルがアンディー・ガルシアに潰されたため、富豪が仕返しとしてジョージ・クルーニーの資金提供を引き受けるが、肝心な崩壊シーンはセレモニーのあとドン・チードルの部屋へショットが移され、テレビのブラウン管の中でのみ映像化される。

 こうなるからこうなるという一連の因果関係を伝達する媒介物。それが曖昧になり、機能不全に陥った様を見せつけられた気がした。通 常われわれは「こう聞こえるから」「こう見えるから」という知覚によって物事の判断をを下すのだが、実はジョージ・クルーニーが密室で拷問されていると疑わないレスラー体形のボディーガードのように、知覚して判断していることと実際に進行している事実が異なっている場合があることに気付かされる。部屋の外で待つレスラーはジョージ・クルーニーとグルであるレスラーが一人で密室の中で暴れる物音を聞き、てっきりジョージ・クルーニーが痛めつけられていると信じ込むのだ。

 ここで「スピルバーグの時代」から「キャメロンの時代」へという仮説の延長上へ、「先行する二つのテーゼと自らの打ち出すそれとの絶対化と通 俗化」でしかないという愚をあえて犯し「ソダーバーグの時代」をあえて仮構してみたい。つまり「キャメロンの時代」に築かれた「構造」の機能不全を主張したい。電池の無くなったリモコンのような因果 関係の「因」に対する「果」の裏切り。もちろんそれは「ソダーバーグ的メンタリティ」に還元されるような作家性によるものでは決してない。もうひとり端的に「構造」を、「情報理論」を破壊する映画をとっている作家がいる。『マグノリア』のポール・トーマス・アンダーソンである。『マグノリア』冒頭の、とって付けたような三つの偶然の連鎖による逸話。偶然が重複されることによる因果 関係の崩壊。それを「時代」という戦略に則してみようとすれば『A.I.』の誤動作などもその内に含められるのではないか。

 おそらくアンダーソンも『ブギーナイツ』で、フィルムとビデオの物語により、70・80年代のブラック・ミュージックにより、「オーソンウェルズ的長回し」と称されるショットにより、「白々しい程の映画への愛」を表明していたことは偶然ではない。

(志賀正臣)


2月26日(火)

『ふたつの時、ふたりの時間』ツァイ・ミンリャン

 父の死から始まって、時計だとか、階段だとか、鞄だとか、ジャン・ピエール・レオーだとか、相変わらずツァイ・ミンリャンの映画にはシンボリックなものが数多く登場する。意味ありげなんだけど、「じゃあ何?」と考えても答えははっきりしない。ここらへんがツァイ・ミンリャンの軽薄さというか何というか。映画祭受けがいいのもわかる気がする。

 僕たちがものを見るとき、必ずしもそのもの自体を見るわけではなく、その内面 だとか意味だとか構造だとかを知らず知らず分析して、「見たつもり」になっていることが結構ある。それについて建築家の西沢立衛が面 白い比喩で説明していて、ドラえもんは中身が機械で、かつ便利な道具を持っているうえに情が深い。ドラえもんのアイデンティティは、青と白の猫型仕上げカバーの外見ではなく中身が中心になっている。それに対して、オバQは変身能力もなく役立たずで、全アイデンティティが外見に集中している。中身は文字通 り暗闇なのだ。で、建築物はドラえもんのようなものとして見られがちだけれど(要するに構造、或いはシステムが問題になりやすい)、そうではなくて中身をいったん暗闇として括弧 にくくって、オバQのようにして見てみるとよいのではないか、というのが西沢の話だった。

 この比喩を借り受ければ、ツァイ・ミンリャンの映画はドラえもんなのだ。それは映画自体が多分に主張していることで、あからさまな画面 構図といい、わかり易い構造関係といい、僕らの目はどうしても、もの自体ではなくて、そのものが何を代表しているかに向いてしまう(そういえばシャオカンのベットの脇には、ドラえもんのぬ いぐるみが放ってあった。さすがアジアのアイドル)。

 そう考えると「ツァイ・ミンリャンは思わせぶりなだけだ」という批判はとても的を得ているのだけれど、僕はこの人の映画が嫌いになれない。積極的にではないにせよ、むしろ好きだといってもいいと思う。それは彼の映画がいつも孕んでいる適当さというか、いい加減さというか、測量 もして設計図も描いて模型まで作ってあれこれ家を建てる準備をしていたのに、いざ作っている最中に突然穴掘りに夢中になってしまうようなあやうさがとても気になるからだ。「ほんとはリー・カンションを撮ってたいだけなんじゃないの?」と思わせる『河』のラストもよかったけど、夫が生き返ることを願って、「お父さんが光を嫌う」と言いながら家の窓を布やらガムテープやらで隠そうとする母親をよそに、パリの太陽の下に父親がのこのこと現れる『ふたつの時、ふたりの時間』のラストはやっぱりおかしい。父親の歩く先にある観覧車が、ありえないほどの猛スピードで回転しているのに笑ってしまった。

(志賀謙太)


2月26日(火)

『自由、夜』フィリップ・ガレル

 すっかり脳裏にこびりついたままで、それを引き剥がすことなど思いもよらないようなワンシーンがこの映画には存在する。モーリス・ガレルが、ベッドに座り込んだエマニュエル・リヴァに向かって離婚の決意を告げ、「今でも愛している」というようなことを言いながら、握手を求めておずおずと手を差し出す。その手を握り返すべきか逡巡する妻の姿をフレームの端に捉えていたカメラは、次のカットで廊下へと移動し、スクリーンには中空に手を差し出したままの夫の姿だけが残る。その腕が更に妻のほうへと伸ばされ、極めて緩慢なスピードで、ほとんどスローモーションのように、上下に振られたようにも見えた瞬間、このシーンはあっさりと終わってしまう。
 上映後の青山真治による講演でも触れられていたように、『自由・夜』は「労働」に対する「愛」を謳う以上に、「労働」と「愛」が不可分であることを証し立てる映画だ。愛していることを証明するために、換言すれば「愛」を可視化するために、ある者は縫い針に、ある者は拳銃に、ある者は恋人の頬に触れる。強烈な日差しに満たされた部屋でミシンを操作していたその手が、その日の夜には寝付けずにいる娘の瞼を撫でているように、ある状況(最も大文字のそれが「政治」だろう)を前にした彼らの身振りの全てが「労働」と「愛」を実践している。そうした時、たとえその半分が映画から失われていたとしても、ひとはそこに不可視のものの存在を「見る」のだろう。

(中川正幸)

 このイベントでは、3月は黒沢清、4月は諏訪敦彦の選んだフランス映画と各監督の作品を上映。フランス映画の上映後には監督のトークショーもあり。
詳細はこちらから。


2月21日(木)

『ガーゴイル』(クレール・ドゥニ)original soundtrack / tindersticks

 ツッツッカッツ、ッツッカッツ/ツッツッカッツ、・・・。
問題はここ、3度目の「ツッツッカッツ」と、つづく「ッツッカッツ」との間である。誰がしたのか、ボンゴを叩くひとか、誰かが吸う空気の摩擦音が入る。すると当然僕も息を吸う、と、タバコの火は赤く燃える。息を止めながら、ヴォ−カルが入って来るのを待つ、けれども、ちっともあのけだるい声は聴こえてこない。代わりにまたもや空気の摩擦音、もうだめ、いつ来るの、と思ったとき、ベースの低音が響きながらタバコの灰は僕の足に落ちた。熱い。だって風呂上がりだし裸足だし。

「killing theme」、殺しのテーマ。思い出したのだけど、これはコレ(ベアトリス・ダル)が若い青年を食らうシーンで流れていた曲。キャットピープルの彼女は、青年と優しく愛しあううちにやがて、彼の皮膚を食い破り始める、悲鳴と笑い声とが入り交じりるそのシーンに滲み出て来たのが「ツッツッカッツ、ッツッカッツ・・・」。
 音量を上げて問題の箇所をもう一度聴いてみる、と、口を開けるときの、唾で濡れた唇か舌の、嫌な音も同時に聴こえる。もしかしたらそれは、血で濡れたコレのものかもしれない。二本目のタバコは、食わえ過ぎてベタベタになっている。ツッツッカッツ、ッツッカッツ/ツッツッカッツ、ッツッカッツ・・・、僕の身体は燃えだした。

(松井宏)


2月14日(木)

『ショコラ』クレール・ドゥニ

 アフリカ旅行中のフランスは、黒人の父子に偶然出会う。父子の車に便乗し、車窓からの景色を眺め、子どもが父から言葉を教わるのを聞く。子ども時代、彼女も下男から言葉を教わっていた。子ども時代と現在が重なる。しかし、そこには感傷的な思い出など存在しない。
 存在しているのは、フランスのまなざし、フランス自身だ。フランスは常に起きていることを見ている人だ。黒人の父子が海で泳ぎ、車内で会話しているのを見ている。ハイエナに殺られた鶏の死骸を見つめる。着替えをしている客人を窓の外から観察する。岩山に登って訪問客を見つける。大人達の食卓をカーテンの隙間から覗く。彼女の周囲で起こっていることを、ただじっと見ている。
 フランスのまなざしは、日々起きていることの中に、特別な出来事を見つけ出そうとするものではない。『ショコラ』には事件など起こらないのだ。フランスが手に火傷を負うシーンは、熱さで身体がびくりとする動きと、かすかな悲鳴と、下男の険しい表情、下男が吸い込まれていく暗闇、フランスが一人残されるジェネレーター小屋のオレンジの光と、いずれも素晴らしいショットで構成され、忘れられないものであるが、あっという間に過ぎ去っていく。その後白い包帯を手に巻いていることで、火傷をしたのは夢ではなかった、やはり事実であったとかろうじて分かるくらいである。火傷に停滞することはなく、また新たに何かが起き始めていく。
 あるシーンが他のシーンよりも優位に立つことはなく、どのシーンも同等に在る。フランスは、起きていることのうち何か一つを特別 に見ているのではなく、そこで何かが起きているということを見つめている。そのまなざしは、人を、自然を、何かを、世界を見つめるクレール・ドゥニのまなざしだ。そのまなざしによって『ショコラ』はうまれた。セルジュ・ダネーは言う、映画は世界を記録する、それを見ることによって人々が「世界の市民である」と感じるのだと。『ショコラ』は、まさしく映画として存在しているのである。

(内山理与)