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~APRIL  04/07__up dated


-『フリル [ミニ ]wild』珍しいキノコ舞踊団


4月7日(日)

『フリル [ミニ] wild』 珍しいキノコ舞踊団

 人間はともかく一日中ずっと動きまくり、どんなに本人は動いていないつもりであっても、目が動いていたり、呼吸で胸が上下したり、なにしろ動かないでいることは動いていることよりもずっと難しい。そして服にフォーマルな服とカジュアルな服というのがあることと同じように、絶え間ないアクションにもフォーマルな瞬間とカジュアルな瞬間がやはりあり、例えば、待ち合わせ場所で友人を発見して手を振るそのアクション。例えば、なりふり構わず思いっきり走っているそのアクション。例えば、疲れてごろごろ床を転がるそのアクション。例えば、おもちゃを買って欲しくて洋服を引っ張ってだだをこねるそのアクション。それらは皆、カジュアルなアクション。フォーマルなアクションにはありうべき「型」があるのと違って、生まれたときより好きなように修得してきたそんなカジュアルなアクションには「あなた」が色濃く転写 される。正確に言えば「あなたの身体のパーソナリティ」が、そこには強く表されてしまっている。

 ダンスは、アクションと身体によってコミュニケーションの場をつくってしまうが、カジュアルなアクションが表現者の確かな身体によってフォーマルに空間に出現したとき、つまりはカジュアルなアクションを鍛えられた身体を通 じて構築することでダンスパフォーマンスというコミュニケーションの場がなりたってしまったとき、そのコミュニケーションの広がりのなかには確かに「あなた」や「私」が転写 されているはずだ。

 珍しいキノコ舞踊団は、とびきりカジュアルなアクションをどっかから一杯集めてくる。それを、カジュアルな、無意識な、個性的な感じを失わないように、くっつけたり離したり積み上げたりしながら一つ一つを丁寧にダンスへと練り上げてしまった。「フリル」とは洋服にヒラヒラとくっついた「おまけ」だけども、その「フリル」がなかったら、味も素っ気もなくなるじゃない。「フリル」こそ大事なの。と、伊藤千枝が言ったかどうかは知らないけれど、そんな「フリル」が持っている質を取り出すこと。カジュアルなアクションが持つ質を取り出すこと。『フリル[ミニ]wild』において、ダンスパフォーマンスはヒラヒラと鮮やかに拡張されてしまった。

 パフォーマンスの終盤。雷鳴をともなってwildに降りしきる雨のなかで、6人のダンサーが横一列に並び、アカペラでそれぞれ異なる唄をつぶやきながらそれぞれが異なるダンスを踊りながら、舞台手前から奥まで下がっていくシーン。押さえた照明の中で、原美術館の中庭のガラスにキノコ達の姿態が万華鏡のように写 り込み、客のレインコートが雨で繊細な打楽器の演奏のように鳴っているそのときに、そのあまりの美しさに、僕は思わず、心に叫びをあげた。

珍しいキノコ舞踏団に関するちょっとした情報 >>

(藤原徹平(隈研吾建築都市設計事務所)