大野敦子 インタヴュー

取材・構成 松井 宏

——大野さんは映画美学校第二期生ですよね。

大野:当時は会社で働きながら夜に映画美学校に通ったわけです。それ以前にいちどイメージフォーラムの夏期講習に参加したことがありました。16ミリで短編を撮るというもので、そこで初めて見る側から作る側へ移行したのですが、すごく面白かったんです。それで何か続きになるようなものはないかと思っていたら、美学校のチラシを映画館で見つけて、すぐに応募したわけです。

——海外に留学されていたと聞いたんですが。

大野:大学3年から4年にかけて交換留学でイギリスに滞在しました。大学の専攻が国際学部の日本地域研究というもので、当初は日本語教師になりたいと思っていたんです。でもだんだんそこから、映像の方向に行きたいなと考え始めていました。ただし向こうでは、映像コースのある大学には入れなかったので、美術系やマルチメディアの学科があるところに通って、1年間遊んできました(笑)。

——僕個人初めて大野さんのお顔とお名前を見たのがオリヴィエ・アサイヤスの『デーモンラヴァー』撮影のときで、製作の重要人物としてでした。どうやって製作の方面に関わり始めたのでしょうか?

大野:それはですね…、社長に騙されたんです(笑)。その頃ちょうど、第二期生である木村有理子さんの卒業作品『犬を撃つ』がカンヌ映画祭のシネフォンダシオン部門に招待されて、事務局で英語のやり取りの手伝いをしていました。そしたらカンヌには監督本人だけでなく、自費とはいえ他の人間も行ったら映画祭パスがもらえるということで、私は『犬を撃つ』のスタッフでもなかったのですが、行けるなら行ってしまえと思って、フランス語のできる深雪さんと一緒に木村さんに付いて行ったんです。木村さんがすごく緊張していた一方で、ふたりはワイワイ楽しんでいた(笑)。そこにユーロスペース社長である堀越謙三もいました。そこで色々お世話になりました。当時とにかく映像方面で働きたいと考えていて、それを堀越に相談したところ、じゃあうちにくればと言ってくれた。でも一体何をするのかと聞いても、入ってから探せばいいと言うだけで、まったく曖昧で怪しい勧誘でした(笑)。秘書的なことをするのかなと思っていたのが、実際入ってしばらくすると本当にやることが何もなくて(笑)。そんなときちょうど『デーモンラヴァー』のお話が来たわけです。ユーロスペースに入って数ヶ月でした。「こういう作品があるからやって」と言われて、何やるのかよく分からないまま「わかりました」と。しかもその後しばらくして美学校に地下フロアが出来ました。「じゃあそっちに行って」と言われて「わかりました」と。そのときは「あああ私は島流しに遭ったんだ!」と思いましたね(笑)。ひとりで地下に移って、よく分からないことをやっていた、それがその後の始まりでしょうか。

——『デーモンラヴァー』は国際的なビッグプロジェクトですよね。びびりませんでしたか?

大野:びびりはなかったですね…。ただ軌道に載せるまでが本当に大変でした。正直何やっていいのかよく分かりませんでしたし、いったい誰に聞くべきなのかがまず第一でした。アサイヤス監督が青山真治さんに相談して、青山さんが金森保さんというラインプロデューサーの方を紹介して下さいました。とにかくワケが分からなかったけど、何とか形になりました。

——その後も製作側で働くなかで、自ら監督するという欲望は生まれましたか?

大野:いや、なかったですね。もう生きて行くのに精一杯。製作の側もとても面白いと思っているので、撮りたいとは思わなかったです。

——でも今回ついに撮ってしまった。

大野:製作の側で6、7年やってきて、今度は演出の側から見たらどうなのかという興味が出てきました。短編だったら撮れるのかなと思ってしまって…、そしたら、なんて辛いものなんだと(笑)。監督にはもっと優しくしなきゃいけないと学習しました。

——今回監督する際に、それまで製作として様々な監督を見ながら学んだことなど、何か意識しましたか?

大野:うーん、段取りに関しては、通常仕事でやっているし他の方よりは把握しているはずですが、ただ演出的な面でいうと…。基本的に私はあまり現場の傍で仕事はしていないので、だから何本も作ってきたわりには、初めて1本目の監督として現場に行ったとき、その場の空気にとてもびくびくしていたんです。「スタートを言うときはもっと元気よく言って下さい」と言われてしまいました。

——でも段取りは映画作りにおいて非常に重要ですよね。

大野:ええ。ただ逆にスタッフのひとりからは「それが良くない、もっと我が儘になった方がよかった」と言われました。

——つまりあくまでも製作側の視点から見てしまう。

大野:私としては十分我が儘したつもりでしたが…。かなりスタッフを酷使して本当に悪いなと思いながらの撮影だったんですよ。『granité』は3日間の撮影で、最終日が海岸だったんですが、その日ちょうど約30年ぶりの嵐が来てしまった。でも今日撮らなきゃいけない、だからみんなびしょびしょになりながら…。運良く洞窟を発見して、ここなら大丈夫となったんですが、まあ機材もびしょびしょ、全員どろどろになりながら運んだりして…。

——『感じぬ渇きと』には冨永昌敬さんの常連スタッフが参加されていますね。撮影に月永雄太さん、そしてなんと録音には冨永さん御本人。

大野:最初はとても恥ずかしかったので声も掛けていませんでした。監督をすることは仕事ではなく、あくまでプライヴェートなものなので、仕事上の関係である方に声を掛けるなんてすごくおこがましいですよね。でもたまたま、ちょうどこの撮影の直後に月永さんと別の作品で御一緒することになって。私が撮るということを知ると「一日ぐらいなら」と言ってくださった。冨永さんは「何でもいいから手伝うよ」と言ってくださって。でもいま空いているのは録音部しかないと話したら「いや僕は録音もやれるんです」と。まったくおかしいですよね、冨永監督に録音をやっていただくなんて(笑)。 『感じぬ乾きと』は撮影も夜から朝までの12時間ぐらいで、自主映画なのにどうしてこんなに時間に追われて撮らなきゃいけないんだよと思っていました。月永さんとは朝から一緒に仕事の打ち合わせをしていて、夜から一日撮影して、その他諸々の作業もあって丸二日ほど寝ていなかったですね。十分無茶させてますよね(笑)。でも月永さんはもんくひとつ言わずに付き合ってくれて、本当に優しい方です。

——製作の仕事もあってめちゃくちゃ忙しいなか、しかし大野さんは2本も撮ってしまったわけです。

大野:2本目の『感じぬ渇きと』を撮るとき、本当に時間がなかったのですが、言ったからにはやらなきゃ、と思って、無理矢理撮りました。何本も撮ることってすごく体力がいるし、1本目を撮ってかなり精神的にダメージを受けました。美学校には映画に対してシビアな辛口の方々が揃っていて、彼らの批評に晒されるわけですから。だから2本目を撮るのも、やるかやらないか途中で揺れ始めてしまいました。そこでとにかく「つくりたいものを撮るだけだ!」と言いながら(笑)、無理に撮ったわけです。作り続ける精神力って並大抵ではないけど、そこはみんなで頑張ろうぜという感じでした。

——不思議なことに大野さんの2作どちらにも男性の登場人物しか出てこないんです。「桃まつり」と銘打たれているのに…。

大野:『感じぬ渇きと』のスチール上で少女は出てきますが…。そうですね、やはり女性だとすごく自分に近くなってしまうし、自分を曝け出すのが怖かったというか、客観的に見ていたい気持ちがありました。男性の登場人物に自分の思いを投影させた。『granité』を書いているとき、最初はふたりの登場人物のうち一方が女性でした。ただ女性が独白する姿って見たくないなと思ったんです。たぶん自分が直接的に出てしまうだろうと思い、意識的に変えました。実はあれ最初はカップルの話だったんです。ただ色恋ものにして、炎を登場させて燃えていくというのはあまりやりたくなかった。だから恋人の話ではなく家族の話にしました。とはいえ私の作品に限らず「桃まつり」全体に女性が出ているものが少ないですよね。どうしてでしょう…。

——『granité』は、そこに見える物語の背後に、非常にしっかりした壮大な物語があると思えたんです。本当はもっと長く書いてあって、その一部分を抜粋したんじゃないかと…。

大野:書けば書くほど長くなってしまって、そこで切って切って切って、でも再び書くとまた長くなっていって…、その繰り返しでしたね。

——家族と同時に、父親という存在が物語の中心に強くありますね。

大野:『granité』の脚本を書いているときは明らかに自分の家族、そして自分の父親を意識しました。

——つまり片桐絵梨子さんとは逆に、あくまでも個人的なところから出発する。

大野:そうですね。脚本を書いても書いてもなかなか納得できず、どうしたらいいか悩んでいたとき父親と大喧嘩をしまして(笑)。そうかこれだ!と思ったんです。

——ただ一方でどちらの作品でも何かとんでもないことが起こっているんです。非常事態というか…、たとえば『感じぬ渇き』では、観客には何か分からないけど、すごい爆発事故が起こっていますよね。

大野:『感じぬ渇きと』に関しては、まあ自分は直接的なところからしか出発できないなとつくづく思います。勤務先の近くで爆発事故がありましたよね。あのときちょうど私は事務所にいたので現場を見に行ってみると、野次馬が本当にたくさんいたんです。消防車が到着しているのに野次馬がいっぱいで通れない。誰も通そうとしないでひたすら携帯で写真を撮っている。ああ怖いなと思って、それがずっと頭に残っていて、そこから発想しました。

——どちらにも救急車とヘリコプターの音が聴こえてくる。特に『granité』のヘリの轟音は印象的でした。

大野:あれはまったく別の理由です。実は最初空撮をやる予定だったんです。ラジコンヘリで空撮をやって『ユリイカ』を越えるぜ!と(笑)。ロケハンをしていたらたまたまラジコンヘリのおじさんがいて、これにカメラ載せられるなと思って、何とかOKももらったんです。でも嵐のせいで飛べなかったんですよね。なのでヘリという存在が頭の残ってしまって、最終的には音のアクセントとして入れたんです。でもきっと救急車とか…、意識しているのかもしれません。たぶん自分が非常事態にはないからこそ、そういう状況に対する思いがどこかにあるんでしょう。本当にそういう状況を体験したらそれを見せるのって難しいと思うんです。私は幸運にも体験していませんからね…。

——『granité』のロケ地はどこだったんですか?

大野:三浦の方です。あの一面に広がる畑もそうです。あれすべて三浦大根なんですよ。撮影の佐々木靖之さんと一緒に千葉や三浦をぐるーっと回ってロケハンしました。でも海岸って見れば見るほど、どこも同じに見えてくる。そんななか唯一あそこだけが特徴的な場所でした。

——先ほど『ユリイカ』の話が出ましたが、撮影に臨む際に思い浮かべた作品などはありましたか?

大野:具体的にはやっぱり『ユリイカ』のような作品を撮りたいなとは考えました。ただ撮る前に見直して、これを真似しても同じことはできないともちろん思いましたよ。スタッフに直接言ったわけではありませんが、佐々木さんとは——彼も青山さんをとても尊敬していますし——『ユリイカ』って本当にすごいよねという話をしていました。

——『granité』には素晴らしいパンニングがあります。ひとけの無い道でふたりの男が歩きながら会話をしている、畑が広がり遠くには低い山が連なり、その無人の風景をキャメラがパンする。そこに小説の一節を引用する声が被さる…。

大野:あの一節は私自身が書いたものです。あのパンニングは予め考えてあって、キャメラマンとカット割りをしている時点で決めていて…。パンがしたかったんです。

——それはなぜ?

大野:うーん、やっぱり小説という非現実的なところにいちど物語を振りたかったのでしょう。

——壮大なパンでした。それこそ青山さんとたむらまさきさんのコンビのような…。

大野:そんな…、ありがとうございます。実は炎をやろうと思ったのも、boid樋口泰人さん企画の「爆音クレイジー・サーフ・ナイト」のために青山さんが作った短編『ウィッシュ・ユー・アー・ヒアー』を見たからなんです。海岸で、サーファーがサーフィンを終えて、焚き火をした後の残り火をただずっと撮っているだけの短編。製作は私が担当したんですが、あんなにシンプルにカッコいいものを撮っているわけですよ、もうそれがすっごく悔しくて(笑)。とにかく爆音上映で見たらめちゃくちゃカッコ良かった。そのせいですかね。

——『granité』では同じく合成で亡霊の手が何度も出てきますが、いちばん最初に現れるとき、あの手は主人公の若者の股間に向かうんです。すごくぞくぞくしました。

大野:いえいえ(笑)、股間を狙ったわけではまったくありません。たまたまあの画角だとそう映さざるをえなかっただけで…。

——ただその直後、彼は「自分は父親になれない」と台詞を言い、そこから家族の物語が始まってゆく。つまりあれはまさに生殖機能を脅かす手として、まったく必然的なショットだと納得させられたんです。

大野:なるほど、そういうことにしておきましょう(笑)。

——すいません(笑)。さて監督をやってみて、一種の快感や歓びはありましたか?

大野:どちらかというと、苦痛というか…。自分は精神的に強いほうなのですが、撮るという行為によってものすごく落ち込みました。自分でもびっくりしました、こんなに落ちちゃうんだと。その意味でもこれからは監督に対してもっと紳士に接しようと思います。それと同時に、製作のようなポジションの人間が客観的に意見を言うことがどれだけ重要かも認識しました。「そんなのいくら考えても締め切りはここまでなんだから! 選択肢はこれとこれしかないんだから!」と、物事を一緒に考える人間が一緒にいるといないとでは全然違うわけです。

——個人的には今後もっと大野さんに苦しんでもらって、作品を見続けたいと思います。

大野:次に撮るとしたら、できれば他のひとの脚本で撮ってみたいですね。どうなるのか見てみたい。それでもきっと、また別の落ち込みが待っているんでしょうけど。
結局のところ、ひとりだったらこんな辛い作業やらなかったでしょうね。身近に相談できる監督がいたからこそできたんです。誰かが後押しせねばいけないというか、みなで撮るから撮ろうよというので「桃まつり」が始まったんです。違うモチヴェーションを持っていた監督もいたでしょうが、私自身は周囲にひとがいたことで本当に助けられたと感じています。

——それに一般の劇場で「公開」するということ、これがとても大きいですよね。

大野:そうですね、でも公開することがここまで大変だとは…。ユーロスペースの北條がやってもいいよと言ってくれて、後先考えずに、どれだけの作業が待っているかなんてあまり考えずに始めてしまったんです。周りに自主映画の上映会をやっている方々もいますし、自分でもできるかなと思っちゃったんです。まあ蓋を開けたら、できないことだらけでビックリしましたけどね。プロの方々から色々な話を聞いて、助けていただきながらも、こうしてなんとか形になったわけです。

——では将来的に「桃まつり」でカンヌ進出なんてどうでしょう。

大野:いいですねえ、何年かかるかわかりませんが、ゆくゆくは(笑)。「桃まつり」をどう発展させられるか、自主映画という形態がどこまで通用するのか、結果を見てみたい気持ちもありますし、時間が許す限りやりたいです。そうしてゆくことで新しい才能を発見してほしいです。

——最後に、大野さんの考える「演出とは何か」?

大野:「決断すること」でしょうか。そのひとつだけですね。他の監督を見ていても、そう思います。やっぱり全ての局面において決断することが監督の仕事であり演出なんだよなと。