『エヴァの告白』

「愚かしい男たち」ーあるいはエヴァの乱れゆく前髪を見落とさずにいるために

鈴木史

 自由の女神の背を向けた後ろ姿を映すことで幕を開ける本作は、ジェームズ・グレイの長編第5作である。デビュー作『リトル・オデッサ』から犯罪映画、裏社会モノを撮り続けてきたグレイが、恋愛映画である前作『トゥー・ラバーズ』を経て、女性を主人公に据えた最初の作品であり、20世紀初頭を舞台にした初の歴史劇でもある。
 1921年当時、アメリカ合衆国移民局が置かれていたエリス島に、エヴァ(マリオン・コティヤール)が妹とともに上陸する。彼女たちは戦火を逃れ、ポーランドからアメリカ合衆国へ船で渡ってきた(本作の原題は“The Immigrant”=「移民」である)。左右に分けた髪を後ろでしっかりと結んでいる彼女が、こわばった表情で入国審査の列に並ぶ姿は『アデルの恋の物語』(1975、フランソワ・トリュフォー)のイザベル・アジャーニを思い出させずにはいられない。エヴァの妹は、肺病を疑われエリス島に留め置かれることとなり、エヴァ自身は興行師であるブルーノ(ホアキン・フェニックス)に見初められ匿われることとなる。親類の助けも得られず、孤立無援の異国で他に頼る者がないエヴァは興行師であるブルーノに従うしか生きる術がなく、流れるままに「酒場女」や「娼婦」としての役割を与えられるのだが、彼女はそれを演じきることもできず、曖昧な存在として画面を彷徨うこととなる。そもそも、彼女が叔母の助けを得ることができなかったのは、世間体を気にする叔母の夫のためである。彼は「ここは俺の家だ」と叫び、エヴァを家から追い出すのだが、この夫の人物像は、『リトル・オデッサ』の父親や、最新作『アルマゲドン・タイム ある日々の肖像』の父親と通底する。移民である彼らは、新天地で秩序を作り上げようとするなかで、みな一様に「夫」や「父」を演じ切ろうとするあまり、その秩序から少しでもはみ出した者を排除しようとする。エヴァもブルーノもそのような父権的力学の外部に排除された存在と言えるのだが、ブルーノ自身も従兄弟であるオーランド(ジェレミー・レナー)とのエヴァをめぐる確執や裏社会や警察との取引の中で、それまでのグレイの映画の男たちと同様に、暴力がもたらす混乱の渦に落ち窪んでゆくこととなる。本作はエヴァを主人公に据えながらも、ブルーノがオーランドと口論する場面では、ブルーノはエヴァに「席を外せ」「紳士同士で話したい」と告げ、彼女は窓の向こう側の存在として遠ざけられる。それはラストシーンにおいても反復される。ブルーノは自身を「クズ野郎だ」と言い、舟で去るエヴァを見送る。エヴァは窓の向こう側の存在へと押しやられてゆき、ブルーノはただそれを見つめることしかできないのだが、彼自身も本作に繰り返しあらわれていた鏡のなかに押し込められてゆくことで、極めて曖昧に映画は幕を下ろすこととなる。これら「愚かしい男たち」の存在を借りて告げられているのは、グレイの映画が、世界のあるべき姿ではなく、世界はこうあったのだという諦念を示してきたということだろう。
 1920年代初頭の作り込まれたセットをとらえる本作の撮影は濃厚な作品世界を作り上げていると同時に、グレイの過去作と比較すると、ある鈍い重たさのようなものをもたらしている。そんななかで、冒頭、しっかりと左右に撫でつけられていたエヴァの前髪は、物語が進むにつれ、徐々に両の頬に垂れ落ちてゆく。『エヴァの告白』が観客に要請しているのは、先に述べた、暴力の支配する世界で生きる男たちの愚かしさのなかで流転するエヴァの運命とともに、彼女の微細に推移してゆく前髪の乱れにこそ目を離さずにいることだ。


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