『リトル・オデッサ』

見られること/見ること

板井仁

 リトル・オデッサと呼ばれるニューヨークのブライトン・ビーチは、旧ソヴィエト諸国のユダヤ人たちの移住先として、多くの移民を受け入れてきた場所である。この地を舞台とするジェームズ・グレイの長編第一作『リトル・オデッサ』は、殺し屋であるジョシュア(ティム・ロス)が、殺しの依頼のために地元のリトル・オデッサに戻り、彼の家族とふたたび関係をもつことによって展開される。
 ジョシュアは過去に地元のマフィアのボスの息子を殺害しており、リトル・オデッサではつねに命を狙われている存在としてある。しかしこの映画が、暗闇のなかに浮かぶジョシュアの両眼のクロースアップから開始されるように、ジョシュアは見られる側ではなく、見る側であろうとする存在である。暗闇に身を潜めて他者からのまなざしを遮断しながら、眼を光らせて相手を狙うジョシュアのあり方は、彼の家族が、反ユダヤ主義が吹き荒れる旧ソヴィエトからやってきたユダヤ人であることとかかわっているだろう。
 ジョシュアは、発言や行動においては過剰に暴力的でありがながらも、つねに周囲を気にしており、落ち着きなくゆらゆらとその身体を動作させつづけている。昔の恋人であるアラ(モイラ・ケリー)に対し、リトル・オデッサには「自分の場所がない」ことを語り、また弟のルーベン(エドワード・ファーロング)に対し、ユダヤ人が「さすらう」存在であることを教えるジョシュアにとって、帰属すべき場所をもたない自分のアイデンティティ、それを仮留めするものこそがマスキュリニティの象徴たる銃である。
「所詮 俺はバカなチンピラさ」という自嘲的な自己定義が示すように、殺し屋として生きることは、他者からユダヤ人としてまなざされていることを、自分がまなざす存在であることによって転倒させ、引き受けることである。不安に対抗するための手段としての「暴力」は、「男らしさ」として仮構されることでアイデンティティとなる。ここで、「ユダヤ人」であるということが、「暴力性」あるいは「男らしさ」と絡まりあっていく。 しかし、他者からのまなざしを遮断するシーツが、かえってその存在をますます際だたせ、そこに隠れているものを狙うべき存在として立ちあげるように、身を潜めて見る側に立つことは、不安を解消させるどころか、見る/見られるという関係を強化し、不安をますます増大させてゆくことであるのだ。
 ジョシュアを慕うルーベンは、兄の仕草や行動を模倣し、そのあとを追いかけることで、兄と同じように自分もまなざす存在であろうとするのだが、それは、彼が映画好きであることにおいても示されている。ルーベンは、銃を構えて相手を狙う、暴力的な存在に憧れを抱いているのだが、彼が希求しているものが、暗闇のなかに浮かぶ幻影であるということ、つまり、そこにあるけれども、同時にそこにはないものであるということをも示している。それは、グレイの作品に共通して希求される、《ユダヤ》と形容しうるようなモチーフではないだろうか。


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