オイリー・ケーキの甘さ

板井仁

 しばし語られているように、ライカートは自身の作品において、人間を含めた生き物たちと、それらが生を育む場所であるところの森や河川、草原、湖、牧草地などの自然を含めた環境との関係を描いてきた。その中でも動物は、短編を除くほとんどすべての映画に登場し、たとえば今回公開された二作品でいえば、『ファースト・カウ』(2019)においては牛が、『ショーイング・アップ』(2022)においては猫や鳩が作品の重要な役割を担っている。
 1820年代のアメリカを舞台とする『ファースト・カウ』は、冒頭に現代のシークエンスが付されている。川をゆっくりと左右に横切る大きな船のショットが映し出され、つづいて、乾いた地面の上、まばらに生える枯れ草のあいだで犬が何かを嗅ぎ回っている。カットが変わると、飼い主らしき人物(アリア・ショウカット)は、地面に転がっている石ころのような何かを触っている。いくつかのショットを経て、茂みの奥へと進む犬と飼い主。犬が、枯れ葉で覆われた土の中から何かを発見すると、飼い主は犬が示した場所を両手で掘り進めていく。そこに現れるのは二体の人骨であり、それこそが二人の主人公、メリーランド出身のクッキー(ジョン・マガロ)と、中国出身のキング・ルー(オリオン・リー)である。地面に近いロー・ポジションのカメラによって構成されたこのシークエンスにおいて、人骨を掘り進める飼い主は四つん這いの姿勢をとり、またときおり画面外の鳴き声に誘われて、木にとまる鳥たちを見上げる。ここで飼い主と犬は、その身振りによって重ねられてもいる(ライカートの作品において、犬は人間と同等の立場として存在している)。

『ファースト・カウ』
©︎ 2019 A24 DISTRIBUTION, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

 同シークエンスにおいて、川を進む船のショットが二度挿入されるのだが、それは、線路を走る鉄道、道路を走る車、荒野を走る馬車など、場所と場所とを接続する装置や、その移動それじたいを捉えるショットなど、他の作品においても変奏され反復されているモチーフであり、異なる文化や背景をもった人間や動物たちが、その環境においてともに進んでいく(生きていく)といったテーマを示唆するものである。原田麻衣がいうように、ライカートの作品は、「固有の土地に根差す物語というよりは、ある土地に生きる人々を、その環境ごと捉える」[1]ことを試みているのであり、そのためにこのモチーフは、植民者による土地の囲い込みや支配といったテーマをも同時に含むものとなる。メルセデス・チャベスは、ライカートの作品に「アメリカの風景を、植民地時代の過去と現在の反響とに結びつける」といった「先住民族性Indigeneity」を見出している。それはたとえば『リバー・オブ・グラス』(1994)において、先住民が「草の川(リバー・オブ・グラス)」と呼ぶ不毛な湿地帯が、ショッピングモール建設地へと開発されていく様子が、道路を走る車窓からのモンタージュによって表現されていることにおいてあらわれているものである[2]
『ファースト・カウ』は、環境に対する捉え方の違いが、二人の主人公の差異として描かれている。二人は外部からやってきた存在であると同時に、砦の外部、森の中に生きるものたちである。であるからこそ、冒頭においてやがて自然へと還っていく二人の運命が示されるのであろうが、しかしその二人の立場は正反対といってよいだろう。鳥の鳴き声を残しながら、現代と過去とを滑らかにつなぐ映画は、やや薄暗く、湿った土の上に生えるキノコと、それを採り、ハンカチに包むクッキーの手、それから地面を踏みしめる彼のブーツや横顔を映し出す。クロースアップのカメラは、土の湿り気を伝えながら、彼が地面に近い存在であることを示す。木の実を集め、果実を摘み、魚を獲るクッキーは、その土地を共有地として使用する人物である。ひっくり返ったトカゲや、他の生物に紛れて裸で森の中に潜むキング・ルーを助けるのは、その土地を利用して自己の欲望を拡大することよりも、その土地において、ともに生きることを大事する存在だからではないか。それに対してキング・ルーは、同じように森の中で生きる存在ではあるものの、この土地を「未開」の場所と捉え、「ここには間違いなく富が眠っている」「名前のついていないものがたくさんある」と、あらゆるものを商品あるいは資源として見る人物である。二人の違いはショット内においても示されており、たとえば、キング・ルーがビーバーの脂を中国に輸出すれば大金持ちになれるという話をしているとき、同一のショット内においてクッキーは、彼に構わずブルーベリーを摘んでいるのである。ここで、会話を交わす二人の視線は重ならず、その身体もまったく異なる方向を向いている。クッキーが牛のミルクを欲したのは、彼にとって牛が共有のものであったからなのだが、キング・ルーにとっては、ミルクやそれによる生産物は商品なのである。このような資本の論理は、ミルクで作られたオイリー・ケーキが評判になるにつれて、次第にクッキーをも飲み込んでいくものとなっていく。
『ファースト・カウ』において、暴力は直接的に表現されることがない。たとえば二人が出会いなおす酒場のシーンにおいて、カメラは喧嘩をして酒場を出ていく客たちではなく、店内に残りつづける二人を捉えつづける。また、仲買人の屋敷において、有力者たちは先住民への罰やムチ打ちについて話しあいはするが、それが直接的な暴力としては映し出されない。ここで暴力は、台詞のなかだけで語られている。けれども反対に、搾取あるいは収奪といった暴力は、台詞や語りを回避すること、つまり映し出すことによってのみ示されている。先住民たちの姿は、作中において何度もカメラによって捉えられるのだが、彼ら/彼女らはシークエンスの中心には存在せず、その土地や環境に溶け込んだままに置かれる。また、先住民の話す言葉は、たとえば屋敷において仲買人とやり取りをする場面などにおいて、字幕が付されることはない。ライカートは、人間扱いされることなく消費される先住民たちの立場を、このような方法によって表現するのである。
 それがもっとも巧妙なかたちであらわされているのが、タイトルに付されている牛(イヴ)なのではないか。航海の途中でパートナーと子どもを失いながらこの砦へと連行されたという牛は、仲買人の敷地内に閉じ込められ、子どものためであったはずのミルクは彼女の意思にかかわらず収奪され利用されている。前述のとおり、クッキーが牛のミルクを収奪するのは、牛が共有のものであるという論理によってであるだろう。しかし、そのようなまなざしこそが、人間扱いされないものたちへの暴力を正当化するものなのではないか。利他的な人物のうちにおいてもなお存在する暴力性を捉えようとするライカートの試みは、たとえば『ナイト・スリーパーズ ダム爆発計画』(2013)における環境活動家たちにも重ねられるモチーフであるだろう。

『ファースト・カウ』
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 クッキーは、牛の乳を搾りながら、彼女に優しい声で語りかける。その口調はまるで、思いを寄せている相手に対するものであるようにさえ感じられる。しかしそのような愛情は、たとえばダナ・ハラウェイを批判する井上太一が述べるように、道具的利用を、協力関係として隠蔽するものではないか[3]。クッキーの優しい語りは、彼女からの収奪を隠蔽するものとして機能している。また、そのような呼びかけは、牛を女性と重ねるものとして機能してもいる。現にクッキーは2回目の搾乳のさい、牛を「優しい子=愛しい人sweet girl」とさえ呼んでいるのである(『オールド・ジョイ』(2006)においても、犬を「女の子」と喩える台詞がある)。牛の生産するミルクが映画の核となっているにもかかわらず、牛がほとんどクロースアップされていないことは、女性の側に押しつけられてきた再生産労働の価値切り下げや、女性主体を不在にさせるというテーマが示唆されているのではないか。
 ライカートは、その土地に生きるものたちを環境ごと捉えながら、そこで展開されるささやかな生活のうちにおいて存在する収奪、あるいは搾取を、それとなく、けれども確かなかたちで浮かび上がらせる。直接的にではなく、劇的な展開を回避すること、語らないことによって描写されるそうしたテーマは、『ファースト・カウ』において、収奪されたミルクがオイリー・ケーキに練り込まれることによって、「古代中国の秘密」として、あるいは盗みを働く二人の秘密として隠蔽され表現される。

[1]原田麻衣「西部劇への考古学的アプローチ:ケリー・ライカート『ファースト・カウ』が描く一八二〇年代のオレゴン」『ユリイカ2023年6月号 特集=A24とアメリカ映画の現在』青土社、2023年、121-126頁。
[2]Mercedes Chavez, “Vernacular Landscapes: Reading the Anthropocene in the Films of Kelly Reichardt”, Afterimage (2021) 48 (1): 37–53.
[3]井上太一『動物倫理の最前線:批判的動物研究とは何か』人文書院、2022年、227-230頁。

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