現れては消えていくもの

松田春樹

 いくつかのスケッチが一枚ずつ映し出されていく。紙にはすべて女性の人物が描かれており、片足を上げていたり、でんぐり返しをしていたり、なにか動きのある輪郭が捉えられている。それも体の一部分のみが赤や緑、ピンクといった鮮やかなトーンで着色されていて、可愛らしい。同時に、温かみのある電子音がアンダースコアとして流れており、小気味いいテンポでスケッチの余白にスタッフクレジットが入っていく。ここで気になるのはアンダースコアだけでなく、その場の環境音が同時に微かに聞こえてくるということだ。耳を澄ませば、鳩の鳴き声や鉛筆が紙面上で擦れるような物音もたしかに聞こえる。その微かな音はフレームの外側から聞こえてくるため、カメラに映し出されはしないものの、同じ空間に誰かが居るのではないかと思わせる。あるいは、この映し出されたスケッチはその人物が描いたものなのだろうか?この緩やかなズームとともに上下左右に移動していくショットはその人物の視点なのだろうか?といったことを我々は微かに聞こえる音から想像することができる。

『ショーイング・アップ』
© 2022 CRAZED GLAZE, LLC. All Rights Reserved.

 次のショットがその対面にいる人物へと切り返されることで、音から想起されたあらゆるものは姿を現していく。一人の女性がスケッチを元に一体の像を形作ろうとしており、鳥のさえずりと光の具合からおそらく時間は朝になっていることがわかる。この光と音の変化を省みれば、ファーストショットとはこの女性が夜通し制作に没頭していた時間であったようにも思えてくる。続いて、カメラは女性の背後からのショットに切り替わり、フレームの外側へと緩やかにパンしていく。するとそこには半開きになったガレージの下で数羽の鳩が群れをなしており、冒頭から聞こえていた鳴き声の正体も明らかになる。
 ところで、この映画の原題である「Showing up」とは、なにかが「現れる」という意味である。ファーストシーンから読み取ったように、この映画では様々なものが「現れる」のだと仮定してみる。それは続くシーンにもあてはまる。電話越しにリジーと呼ばれるこの女性は半地下にあるアトリエから二階へと上がりながら、父親と自身の個展について電話で話し合っている。それからリジーはキッチンで食べ物を少し摘みながら、窓外のテラスへと移動していく。すると、テラスの下から物音がするので覗くと、頭巾姿にデニムの女性が現れ、車の荷台から大きなタイヤとロープを取り出している。そこでショットの対象は軒下にいるその女性へと移り変わり、彼女は大きなタイヤをコロコロと転がしながら、向かいの通りにある家を数軒ほど通り過ぎていく。ここでの横移動ショットは、新たな空間が次々と「現れる」ようで素晴らしい。たどり着いたこの裏庭は彼女の所有地なのだろうか、そんな疑問が浮かびもするが、彼女は慣れた手つきで大木から伸びた太い枝にロープを括り付けていく。タイヤのブランコを作っているのだ。しばらく彼女の作業を見守っているカメラがフレーム外へと切り返すと、いつの間にかリジーが裏庭の門に「現れる」。リジーからジョーと呼ばれるこの女性はブランコ作りを楽しんでいるが、一方でリジーは家の給湯器の故障に不満を持っていることを告げていて、二人の話は噛み合わない。ここでのリジーの不満は彼女の言葉だけでなく、彼女がその場からいつの間にか消えていることによっても示される。つまり、ここではなにかが「現れる」だけでなく、それが「消えていく」までが捉えられている。
 現れては消えていくもの。たとえばリジーが勤める美大にいる人々はどうだろう。この映画において、決して少なくはない時間が若いアーティストたちの制作風景にあてられている。しかし、ひとりひとりの描写こそは一瞬であり、彼/彼女らは画面上に現れては消えていく。一瞬に過ぎないはずなのに、なぜか映し出される人々のことを克明に思い出すことができる。まるでガス・ヴァン・サントの映画のように、ひとりの人物の魅力や矜恃が余すことなく一瞬のうちに捉えられ、そして画面から消えていく。あるいは、リジーやジョーが数日後に控えている個展もまた、現れては消えていくもののうちの一つといえるだろう。どれだけ大がかりな準備をしても期間が終われば解体される。だからアーティストたちはその期間にすべてを賭けなければいけない。

『ショーイング・アップ』
© 2022 CRAZED GLAZE, LLC. All Rights Reserved.

 そうした精一杯さゆえなのか、当のリジー本人は「現れる」ものへのまなざしを向けられないでいるようだ。彼女が勤める美大のオフィスには大きな窓ガラスがあって、豊かな自然があたりを囲んでいるというのに、彼女は仕事中、不機嫌そうにPCを見つめるばかりであり、同僚からの軽口にもろくな返事をしない。極めつけは、ある日リジーが飼っている猫が家に侵入した鳩を痛めつけており、彼女はその鳩を助けることもなく箒とちりとりを使って窓外に捨ててしまう。しかし、明くる日にジョーによって助けられたその鳩は再び、リジーの元へやってくる。そしてリジーは制作のために取得した休暇をこの鳩の世話に費やすことになるのである。
 ジョーによって手渡されたこの鳩の存在によって、閉ざされていたリジーの視界は徐々に広がりを見せていく。最初は「気持ち悪い」と言って嫌々世話をしていたものの、病院に連れて行って様子を見守っているうちに、段々とこの鳩のことを気にかけるようになる。同時に、リジーは離婚した父親や一人で暮らす兄のもとを訪れたりして、他者へとまなざしを向けていく。リジーがある日シャワーを借りに、ジョーが準備を進めている個展会場へ向かった時のことである。ガラスの向こうにジョーが編んだと思われる赤と黒のミクストメディアが見えており、リジーはゆっくりとガラスの方へ近づき、展示空間へと降りていく。そこには殆ど完成したジョーのインスタレーションがあり、リジーはそのインスタレーションをまじまじと見つめていく。ここでカメラが捉えるリジーの表情が素晴らしく、彼女がこの映画で初めてなにか「現れた」ものを発見し、感動しているような、そんな表情である。そうした表情はそれ以降、リジーだけでなく、あらゆる人々の表情において捉えられる。「鳩を助けたの」と言って、リジーが車の助手席にいた鳩を見せる時のクレイグの表情。リジーの彫刻を言葉なく、嬉しそうに見つめていく父親の表情。包帯を解かれた鳩が飛び立つ時の、あのみんなの表情。
 重要なのはそうしたなにかが思いもよらぬ形で「現れる」ということだ。飛び去った鳩があらゆる木々や電線を探しても見つからないように、自分から探そうとして見つけることができるものではない。一度は手放してしまったものを、ジョーが再度手渡してくれたように、なにかはいつも自分の外側、フレームの外から「現れる」のである。

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